決裂
タイ・バンコク。
ジャッティス・チャラワンの隠れ家として使われている高級コンドミニアムの最上階。
シーリングファンの回る部屋で、冷房の効いた空気の中に、不穏な熱が立ち込めていた。
向かい合うのは――ジャッティーと、柾木組々長の柾木成治だった。
柾木は眼光鋭く、サングラス越しに三崎を睨みつけていた。
横に控えるのは柾木組の舎弟頭補佐・藤井忠臣その風貌だけで“話し合い”の余地がどこまであるかが伝わってくる。
ジャッティーはワインを傾けながら、余裕の笑みを浮かべていた。
藤井が三崎に向かって口を開く。
「……通訳は要らんよな?」
「ええ。全員、日本語わかります」
テーブルには、物流ルートの地図、各港のコントロールリスト、そして「キックバック」の数字が記された帳票。問題は――分配だった。
「チャオプラヤの港湾ルートは我々が管理する。手数料の取り分は二割ね」
ジャッティーが静かに言い放つ。それはあまりにも強気な条件だった。従来は一割だった手数料を、いきなり倍に吊り上げるという暴挙。
藤井が笑った。
「なんやそれ。なめとんのか。お前ら、漁港一つ守るのにいくら金使うてんねん」
「カンチャナブリーの陸路は完全に山川会が押さえとるやろ。向こうの軍警察とも話つけてる」
ジャッティーはそれを「当然」として受け止めるどころか、むしろ挑発的に返した。
「知ってるよ、藤井。けどそんなの保証にならないよ。彼らはよそ者の言葉には従わない」
「ここはタイ。ここでは、私の言葉が法律だよ」
沈黙が場を支配した。
三崎は慌てて口を挟む。
「藤井さん。向こうの言い分にも一理あります。タイ側の管理下で発覚すれば、すべて押収されるリスクが……」
黙って聞いていた柾木の目が三崎に刺さる。
「あんた……誰の味方や?」
空気が凍りつく。
三崎は口をつぐみ、深く息を吐く。
「俺は“間”に立ってるだけです。中立です。ここをまとめるのが、俺の仕事ですから」
柾木がゆっくり立ち上がる。
藤井も、まるで「合図」のように椅子を引く音を立てる。
「ああ、ようわかった。つまり――あんたは“ジャッティー側”っちゅうこっちゃ」
「……違います」
「黙れや」
テーブルの上のグラスが倒れ、赤ワインが書類に染みていく。まるで“血”のように、赤い筋が拡がっていく。
「俺らがどれだけ現地にカネと人間突っ込んできたと思っとんねん」
「そっちに肩入れしとる奴の顔なんか、もう信用せえへん」
藤井が書類を丸めて三崎に投げつけた。三崎は一瞬目を閉じ、息を止めた。
それでも、反論はしなかった。なぜなら――それが“事実”だったからだ。
三崎とジャッティーは取り分を多く確保しようと画策していた。三崎にとってタイで実績をあげるのにジャッティーの後ろ盾は既になくてはならないものになっていたからだ。
この国ではどんな強大な圧力も外からでは無意味なことを彼は知っていた。
こうして、交渉は完全に決裂した。その場は武力に至らず済んだものの、この日を境に、三崎は“裏切り者”として正式に認識される。
これが、愛を巻き込み、慎吾の未来を変えることになる「バンコクでの最初の亀裂」であった。




