距離
数ヶ月が経ち、慎吾は夜遅くまで練習に明け暮れる日々を過ごしていた。
その傍ら、愛は三崎と静かな暮らしを始めていた。
バンコク郊外、高級住宅街の一角。
門には警備員が常駐し、敷地の奥には白壁のヴィラが建っている。天井が高く、広いリビングには海外製のソファと大型のテレビ。バスルームは二つあり、庭にはプールもある。
タイ人のメイドが最低限の家事を担い、部屋はいつも整っていた。誰に脅かされることもなく、朝ごはんを作り、英語のニュースを見て、夜には笑って眠る。
そんな日々が、確かにそこにあった。
そして――いつしか、愛は子どもを授かった。
「ほんまに……ええのかな」
白い大理石のキッチンで、紅茶を淹れながら、愛は思った。大きくなっていくお腹をさすり、少し不安そうに微笑む。
三崎は優しかった。どこか不器用で、言葉数は多くないけど、笑ってくれた。
“本気で喜んでくれてる”、そう感じた。少なくとも、そう思い込もうとした。
しかし、平穏な時間は一年しか続かなかった。三崎の帰りは徐々に遅くなり、電話口の会話も増えていく。愛がリビングでテレビを見ていると、書斎のドアの隙間から、三崎の低い声が漏れてくる。
「あぁ……、そっちのルートは……いや、ジャッティーが動く……山川の承諾さえ取れれば……」
聞きたくなかった。“これは商社の仕事や、きっとそう” 自分にそう言い聞かせた。でも、愛はわかっていた。あの空気。あの目つき。――自分の知らない”三崎”の影。
整った室内。隙のないインテリア。でも、冷蔵庫の中には食べかけの惣菜が増え、三崎のスーツのポケットからは見慣れない名刺が出てくる。微妙なズレが、日々を侵食していく。
一度、勇気を出して聞いたことがあった。
「最近……なんの仕事してるん?」
三崎は笑わずにこう答えた。
「ビジネスの話や。お前は気にせんでええ」
その一言で、すべてが決まった気がした。
三崎は裏で、タイの裏社会の人間―― ジャティス・チャラワンや、日本の広域暴力団・山川会と結託し、麻薬の輸送ルートに深く関わり始めていた。
その金はすでに、タイの地元警察や空港関係者まで取り込むほどに流れ込み、誰も彼に口出しできなくなっていた。
愛は知らなかった。だが、“感じていた”。胎動が強くなればなるほど、心の奥では不安が膨らんでいく。この子に、“この人”の血が流れていること。
そして、この人はもう、自分の知っている三崎ではないこと。
一方――慎吾。
愛の近くにいたいという想いを押し殺し、日本での試合に向け、孤独な特訓を続けていた。グアンチャイのジムにはもう顔を出さない。汚れたリングも、騒がしい掛け声も、慎吾にはもう不要だった。小さな空き倉庫を借り、自分で用意したサンドバッグとミラー。照明の暗い、埃まみれの仮設練習場。そこが、彼のすべてだった。
「強くなる……誰にも奪われへんくらいに」
そう呟きながら、血をにじませてミットを叩き続ける。自分のかつての女が今、何と向き合っているのかも知らずに。
――三人の距離は、同じバンコクにいながら、
もう、手を伸ばしても届かないほどに離れていた。




