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血環 ー西成ハグレモノー  作者: 京田 学
六章 バンコク・ゼロ
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契約

スラムの一角。

夜の帳が降りても、慎吾と愛の自宅の灯が落ちることはなかった。時計の針はすでに深夜一時をまわっている。愛が帰宅しない。

こんなことはタイにきて二年近く経つが初めてのことだった。


「……愛ッ!!」


慎吾は街中を走り回った。血相を変え、汗まみれで。連絡は繋がらず、支援スタッフたちは目を伏せて黙った。その沈黙が、すべてを語っていた。

呼吸が荒れ、心臓が破裂しそうなほどの焦燥。

初めてだった。自分の腕力が、何の役にも立たない瞬間に立ち尽くすのは。


そして――数時間後。

グアンチャイのジムの前に、男がひとり立っていた。


――三崎邦親。


「……君のせいですよ。こうなったのは」


その声はあまりにも静かで、慎吾は一瞬、言葉の意味が飲み込めなかった。


「……何やと?」


「俺らはあんたに“選ばせて”きたんです。平和的に。ずっと。でもね……こっちの裏社会ってのは、何もかもが“なあなあ”では済まんのですよ」


「……まさか……」


慎吾の顔がみるみる赤くなっていく。握った拳は骨が軋み、皮膚が裂けそうだった。


「……お前の仕業か?」


三崎は肩をすくめて視線を合わせず答えた。


「どうとってもらっても」


その瞬間、怒号とともに慎吾の拳が風を切る。

三崎の顔面へ一直線――しかし、三崎は微動だにしない。


「――今、そんなことしてる場合ですか」


慎吾の拳は止まった。歯を食いしばり、肩を震わせながら。

三崎の目には、確かに“悲しみ”が滲んでいた。


「……契約する」


「……」


「だから、愛を返せ……いますぐにや!!」



――――――その夜、愛は戻ってきた。ボロボロだった。

顔には殴られた痕。目の焦点が定まらない。服は乱れ、髪はぼさぼさだった。


「……愛!!」


慎吾は駆け寄ろうとしたが、愛は一歩、下がった。無意識のように、反射的に。


「……ありがとう。ほんまに、ありがとう。でも、もう……無理やわ」


「……もう大丈夫や……!」


「……ダメ……」


その言葉は、慎吾の胸をえぐった。彼女の瞳には、恐怖でも怒りでもなかった。ただ静かに、もう“信じる力”をなくした女の目だった。


「あなた程、私は強くないんだよ」


「……」


「また何も言ってくれないんだね……さよなら、慎吾くん」


愛は慎吾の方を一度も振り返らずに、夜の闇へと消えていった。

そして翌朝。慎吾の部屋から、愛の荷物はすべて消えていた。

空になった部屋を慎吾はしばらく、見つめていた。

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