契約
スラムの一角。
夜の帳が降りても、慎吾と愛の自宅の灯が落ちることはなかった。時計の針はすでに深夜一時をまわっている。愛が帰宅しない。
こんなことはタイにきて二年近く経つが初めてのことだった。
「……愛ッ!!」
慎吾は街中を走り回った。血相を変え、汗まみれで。連絡は繋がらず、支援スタッフたちは目を伏せて黙った。その沈黙が、すべてを語っていた。
呼吸が荒れ、心臓が破裂しそうなほどの焦燥。
初めてだった。自分の腕力が、何の役にも立たない瞬間に立ち尽くすのは。
そして――数時間後。
グアンチャイのジムの前に、男がひとり立っていた。
――三崎邦親。
「……君のせいですよ。こうなったのは」
その声はあまりにも静かで、慎吾は一瞬、言葉の意味が飲み込めなかった。
「……何やと?」
「俺らはあんたに“選ばせて”きたんです。平和的に。ずっと。でもね……こっちの裏社会ってのは、何もかもが“なあなあ”では済まんのですよ」
「……まさか……」
慎吾の顔がみるみる赤くなっていく。握った拳は骨が軋み、皮膚が裂けそうだった。
「……お前の仕業か?」
三崎は肩をすくめて視線を合わせず答えた。
「どうとってもらっても」
その瞬間、怒号とともに慎吾の拳が風を切る。
三崎の顔面へ一直線――しかし、三崎は微動だにしない。
「――今、そんなことしてる場合ですか」
慎吾の拳は止まった。歯を食いしばり、肩を震わせながら。
三崎の目には、確かに“悲しみ”が滲んでいた。
「……契約する」
「……」
「だから、愛を返せ……いますぐにや!!」
――――――その夜、愛は戻ってきた。ボロボロだった。
顔には殴られた痕。目の焦点が定まらない。服は乱れ、髪はぼさぼさだった。
「……愛!!」
慎吾は駆け寄ろうとしたが、愛は一歩、下がった。無意識のように、反射的に。
「……ありがとう。ほんまに、ありがとう。でも、もう……無理やわ」
「……もう大丈夫や……!」
「……ダメ……」
その言葉は、慎吾の胸をえぐった。彼女の瞳には、恐怖でも怒りでもなかった。ただ静かに、もう“信じる力”をなくした女の目だった。
「あなた程、私は強くないんだよ」
「……」
「また何も言ってくれないんだね……さよなら、慎吾くん」
愛は慎吾の方を一度も振り返らずに、夜の闇へと消えていった。
そして翌朝。慎吾の部屋から、愛の荷物はすべて消えていた。
空になった部屋を慎吾はしばらく、見つめていた。




