疑心
スラムに朝が来た。
まだ日も昇りきらぬうちから、愛は医療テントの整理に取りかかっていた。
子どもたちの咳が止まらない。湿気と埃が肺にこびりついている。抗生物質が足りない。搬送が途絶えてからもう三日。予備はほぼ尽きていた。
その日は、愛にとって最悪だった。スラムの住人たちからの非難、物資を持ち帰るスタッフ、そして極めつけは一本の新聞記事。
「スラム支援団体に不正資金? 日本人ムエタイ選手の関係先ジム が仲介か」
慎吾の所属するジムの名前が、はっきりと記されていた。
ジムオーナー、グアンチャイ・セップ――過去に麻薬密売やマネーロンダリングとの関与を疑われた男。
証拠はないが、“関係者の噂”だけが独り歩きする。記事には写真も載っていた。慎吾が、スラムのバラックで子どもと笑っている姿。その写真が、“マフィアと支援活動の癒着”の象徴として使われていた。
夕方、ようやく戻ってきた慎吾に、愛は新聞を見せた。慎吾は眉をひそめたが、驚きはなかった。
「知ってたの?」
「オーナーが裏と繋がってるのは、なんとなく。けど俺は関係ない」
その声に、嘘はなかった。けれど、それがかえって、愛の胸に棘を刺した。愛は怒りよりも、ショックだった。慎吾が、何も話してくれていなかったことに。
「関係ないって言えるの……」
慎吾は言い返さなかった。ただ、黙っていた。沈黙が壁になるとき、人はとても孤独を感じる。
「どうして、言ってくれなかったの?」
と訊きたかった。でも彼女はそれを言わなかった。慎吾の中に“迷い”がないことは分かっていたから。彼の目は、いつもまっすぐで、ただ一つの道しか見ていなかった。
(私はその強さに惹かれた。でも今、その強さが……怖い)




