亀裂
夜明け前、しとしとと降っていた雨が止み、空がうっすら白み始めたころ。愛はいつものように、スラムの奥にある小さな医療バラックへと向かった。
まだ誰もいない、ぬかるんだ道。
足元を気にしながら歩く愛の視界に、“それ”は、あまりにもあっけなく、唐突に現れた。
崩され、折られ、引きちぎられた天幕。
薬品は雨で濡れて泥に沈み、子どもたちが描いた看板は無残に裂けていた。
目を疑う光景の中、遠巻きに見ていた住民の男がぼそりと呟いた。
「昨晩、連中が来た。行政の名目やけどな……あれは……」
胸の奥が冷たくなる。唇が乾く。心当たりが――なかった。慎吾からも何も聞いていない。昨日も普段通りだった。練習をして、子どもと遊んで、慎吾のつくった粗雑な目玉焼きを笑って食べて。何ひとつ、異変の兆しはなかった。
彼女は震える手でポケベルを取り出し、近くの電話機から慎吾に2回メッセージを送った。
「なにがおこってるかわかる?」
「だれかにねらわれてるかもしれない」
数時間後。愛はジムを訪ねた。ジムの片隅、古びたトレーニング用のマットに座ったまま、慎吾がようやく口を開いた。
「…すまん。たぶん、オレが原因や。グアンチャイと三崎のオファーを断った。オレは……日本には帰らんって決めた」
その瞬間、愛の中で何かがずれた。
怒りではない。失望でもない分かってる。慎吾はいつだってまっすぐだった。嘘もつかない。逃げもしない。
ただ――私の気持ちは、どこに置けばよかったの?子どもたちの熱で眠れなかった夜。熱帯雨林の薬草を調べに通ったあの村。どれもがこのスラムの「命の灯火」だと信じてやってきた。
それが、“私には何の相談もなく”壊された。踏みにじられたのは、バラックじゃない。「あなたの信念よりも小さい」と見なされた、私の“信念”のほうだった。
声に出せば、責めるようになってしまう。言葉にすれば、慎吾の眼差しが曇ってしまう。
それが怖くて、愛は何も言わなかった。
「そっか……そうなんや。……大丈夫、またつくるわ。あのバラック」
笑った。でも自分でもその笑顔が、どこか遠くから届いたような笑顔だったことに気づいていた。
その日から、慎吾と愛の間には言葉にならない“間”が生まれた。
寝る前の会話が一言減った。目を見て笑う時間が少し短くなった。愛はそれを、慎吾のせいにはしなかった。でも夜中、ひとり起きては、バラックで使っていた壊れた薬箱を無意識に磨いていた。
あれは、たぶん、最初の“別れ”だったのかもしれない。声も涙もない、静かな、目に見えない別れ。




