表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
血環 ー西成ハグレモノー  作者: 京田 学
六章 バンコク・ゼロ
121/145

亀裂

夜明け前、しとしとと降っていた雨が止み、空がうっすら白み始めたころ。愛はいつものように、スラムの奥にある小さな医療バラックへと向かった。

まだ誰もいない、ぬかるんだ道。

足元を気にしながら歩く愛の視界に、“それ”は、あまりにもあっけなく、唐突に現れた。


崩され、折られ、引きちぎられた天幕。

薬品は雨で濡れて泥に沈み、子どもたちが描いた看板は無残に裂けていた。


目を疑う光景の中、遠巻きに見ていた住民の男がぼそりと呟いた。


「昨晩、連中が来た。行政の名目やけどな……あれは……」


胸の奥が冷たくなる。唇が乾く。心当たりが――なかった。慎吾からも何も聞いていない。昨日も普段通りだった。練習をして、子どもと遊んで、慎吾のつくった粗雑な目玉焼きを笑って食べて。何ひとつ、異変の兆しはなかった。


彼女は震える手でポケベルを取り出し、近くの電話機から慎吾に2回メッセージを送った。


「なにがおこってるかわかる?」

「だれかにねらわれてるかもしれない」


数時間後。愛はジムを訪ねた。ジムの片隅、古びたトレーニング用のマットに座ったまま、慎吾がようやく口を開いた。


「…すまん。たぶん、オレが原因や。グアンチャイと三崎のオファーを断った。オレは……日本には帰らんって決めた」


その瞬間、愛の中で何かがずれた。

怒りではない。失望でもない分かってる。慎吾はいつだってまっすぐだった。嘘もつかない。逃げもしない。


ただ――私の気持ちは、どこに置けばよかったの?子どもたちの熱で眠れなかった夜。熱帯雨林の薬草を調べに通ったあの村。どれもがこのスラムの「命の灯火」だと信じてやってきた。

それが、“私には何の相談もなく”壊された。踏みにじられたのは、バラックじゃない。「あなたの信念よりも小さい」と見なされた、私の“信念”のほうだった。

声に出せば、責めるようになってしまう。言葉にすれば、慎吾の眼差しが曇ってしまう。

それが怖くて、愛は何も言わなかった。


「そっか……そうなんや。……大丈夫、またつくるわ。あのバラック」


笑った。でも自分でもその笑顔が、どこか遠くから届いたような笑顔だったことに気づいていた。


その日から、慎吾と愛の間には言葉にならない“間”が生まれた。

寝る前の会話が一言減った。目を見て笑う時間が少し短くなった。愛はそれを、慎吾のせいにはしなかった。でも夜中、ひとり起きては、バラックで使っていた壊れた薬箱を無意識に磨いていた。

あれは、たぶん、最初の“別れ”だったのかもしれない。声も涙もない、静かな、目に見えない別れ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ