反目
それから一カ月経った頃
「シン、来るといいさ」
練習を終えたばかりの慎吾は、グアンチャイに個室へと呼ばれた。
グアンチャイは、誰に教わったのか怪しい日本語を時折得意げに使う。それが可笑しくて、つい場が和んでしまう――そんなのが、いつもの“日常”だった。
けれど今日は、どこか違った。声の調子も、目の色も、普段の軽さが見当たらない。
「シン、日本から……トンデモない話、きたぞ」
相変わらず不自然なイントネーションだったが、その言葉の裏には、妙な切迫感と熱気が宿っていた。
「日本の“スピリット”、お前と契約したい。スペシャル契約。1000万バーツ。ジムにも、1000万。ワンダフル!ビッグビジネス!」
慎吾の脳裏に、日本の格闘技雑誌で見たことのある名前が浮かぶ。
新興の異種格闘技団体――“スピリット”。
日本で格闘技を再び盛り上げようとする金と野心の塊。1000万バーツ。日本円にして数千万円。慎吾のような若者に、破格の条件だった。しかも、ジムにも同額の支払いがあるという。
「シン!荷物まとめて帰らなければならない。うまいもん食べて、女の子も、パーティー、OK? OKね?」
いつものように、妙に楽しげな日本語。だが、今日はそれが笑えなかった。
グアンチャイの顔には、笑みの下に焦りと期待が入り混じった本気の色がにじんでいた。
しばし沈黙のあと、慎吾はぽつりと言った。
「グアンチャイ、俺は帰るつもりはないよ」
その一言で、空気が凍った。
「は? 何言ってる。1000万バーツ! お前、無能か? バカか」
「違う。俺はこのジムに感謝してる。スラムで生きる術を、戦う意味を教えてくれた。でも、俺はタイで戦っていきたい。ここが俺のホームなんだ」
グアンチャイは怒鳴り、机を叩き、怒りに任せてタイ語でまくしたてた。
慎吾には、細かい言葉の意味はすべては分からない。だがその声の震えと、血走った目の奥にあるのは――怒りというより、裏切られた悲しみに近かった。
慎吾は静かにロッカーへ戻り、バッグに荷物を詰める。
黙って出口へ向かうその背中に、最後に聞こえたのは。今まで聞いたどの日本語よりも、発音がきれいで、重く、刺さる一言だった。
「……ウラギリモノ」
振り返らなかった。
でも、その言葉だけは、拳よりも痛く胸に突き刺さった。




