逸材
早朝、三崎はバンコク市内の雑踏を抜け、黒塗りの車で南へ向かっていた。
ジャッティーの仲介で、ムエタイ界の“顔役”たちを次々と訪ねていた。バンコク、プーケット、パタヤ――有名ジムを片っ端から。それはただの挨拶回りではない。
日本からの“新たな仕入れルート”を切り拓くための、戦略的な外交だった。
タイでは、興行の主導権を握っているのは軍や警察と結びついたごく少数のフィクサーたち。どの会場に誰を立たせるか、どの選手を国外へ“輸出”するか―― 全ては金と義理と暴力で決まる。そんな支配構造の中で、三崎のような部外者が会えるはずのない人間たちに、ジャッティーは次々と面通しを通していった。そのことが、この男の“裏での格”を物語っていた。
だが――。三崎は格闘技のことなど知らない。ムエタイに至っては、ルールすら曖昧だった。どの選手も、それなりに強そうだったが、心が動かない。商品価値が見えない。頭の中で、スポンサー受け、因縁、感動ストーリー……いくつものプロットを重ねても、「買い」が立たない。
決め手に欠けるまま、数日が経った。そしてある日、ジャッティーが「念のため」と紹介した最後のジムがあった。
タイ最大のスラム――クロントイ。
車を降りた瞬間、空気が違った。熱気と腐臭が入り混じり、煙のようにまとわりつく。
現地の“顔”も、あからさまに訝しげだったが、三崎は迷わなかった。
「過酷な環境が、人間を削って芯だけ残す」
三崎はそう信じていた。そして、日本人が共感するのは、そういう “不幸の美学”だと知っていた。
ジムに足を踏み入れた瞬間、視線が一点に吸い寄せられた。リングの上で、全身をバネのように使って戦う若者―― その動きは獣のようで、しかし妙に理知的だった。打撃、ステップ、目線の誘導。何かが違う。
そして何よりも、その“目”に三崎は惹かれた。生き残ることしか知らない目だった。
「あれは?」
隣にいたジムのオーナー、グアンチャイに問うと、男は煙草をくわえながら答えた。
「あれは君たちと同じ日本人だよ。加賀屋慎吾。俺らは“シン”って呼んでる。まだ十八だが……まぁ、見ての通りだ」
三崎は、立ち止まったまま動かなかった。リングで汗を散らす若者――慎吾。
その姿は、どこか自分の若い頃と重なった。いや、重ねて見たのかもしれない。これは“逸材”ではない。これは“物語”だ。そう確信した。
この出会いが、三崎の運命を変える。そして、あの少年の人生も――




