客人
チャラワンとの蜜月の関係が続いて半年。
莫大な利益、手際の良い口利き、そして密やかな確信――
「自分はこの国で、うまく泳げている」そう思っていたある日。
バンコクの昼下がりはいつもと変わらぬ湿り気を帯びていたが、その日、空気は妙に重かった。
白水物産・タイ支社の応接室。打ち合わせの予定はなかった。だが、受付を通って現れたその男を、三崎はすぐに通すよう指示した。見た瞬間に理解したのだ――これは、予期していた“訪問”だと。
革靴の音を残しながら入ってきたのは、日本から来たという男。漆黒のスーツ。整えられた髪。目尻の皺は笑いによるものではない。何より、その一言がすべてを物語っていた。
「山川会の藤井ですわ」
……名刺ではなく、“名前”で来た。それは、向こう側からの招待状だった。
三崎はゆっくりと椅子に腰を沈めながら言った。
「……隠さないんですね」
藤井は静かに笑った。その笑みは温度を持たず、ぬるい風のように不快だった。
「普段はフロント企業の名前で名乗るんですが……おたくは“話が早い”と聞いてるもんでね」
三崎は藤井に着席を促し警戒しながら呟いた
「で、用件は?」
わざと一拍置いて、藤井が口を開いた。
「三崎さんは、格闘技はお好きですか?」
その言葉に、軽く首を傾げる。
「……まぁ、ボクシングくらいは見ますが。仕事と関係ない話なら……申し訳ないですが忙しいので――」
そう言い終わる前に藤井の目が光った。
「……ジャティス・チャラワン」
その名前に、室内の空気が一変した。
三崎は口をつぐんだ。表情には出さない。だが、その沈黙が返答だった。
「隠さんでもいい。あんたがこっちで裏表の顔役どちらとも繋がってるのは、知ってます。
こっちにはうちの人間も多いですから。情報の流れは、おたくの想像より滑らかですわ」
藤井はあくまで丁寧に、しかし容赦はない。
「我々は今、新しい格闘技イベントを日本で立ち上げようとしてるんです。
空手、サンボ、キック、傭兵、警官、裏社会の人間まで……まさに “異種格闘技戦”。
その中で――“ムエタイ”の存在感は大きい。ここ本場・タイで話題性があり、実力も申し分ない選手。日本の客が金を出すような、そんな人間を一人。見つけてほしいだけです」
三崎は眼鏡のフレームに触れながら応じた。
「……つまり私に、選手とそのジムへの仲介をしろと。そういうことですね?」
「さすが白水物産……いや、三崎さん。話が早い」
藤井の目が細まる。
「ムエタイの世界も当然利権が強い。警察、マフィア、王室寄りの派閥……
日本でなら一発で通用する我々の“名刺”も中々ね……警戒されてしまうんですよ。
日本のYAKUZAは有名ですから。だが、おたくのようなグレーを歩ける商社マンなら――話は違う」
ニヤリと笑う。それは“おたくも黒いでしょう”という確認だった。三崎は目を細め、少し声を低くした。
「申し訳ないですが、お断りします。私はジャティス氏とは特別懇意にしているわけではありません。ムエタイの興行にも関与しておりませんし、今後もする予定はない」
その返答に、藤井はテーブルに一つの封筒を置いた。静かに、指先で押し出すように開かれたその中身――カラーの写真。ジャッティとの会食、ワインのグラス。笑顔。背景には、タイの軍関係者の姿も見える。
「これは交渉ではないんですよ、三崎さん」
写真を眺めながら、藤井が言う。
「あなたがここで何をやってるか、どこと繋がってるか。日本で“この事実”が明るみに出れば――どうなるかは、想像つくでしょう」
三崎の喉元が、乾いた。
だが口では返す。
「こんな写真一枚で、私を脅すつもりですか?」
藤井は、ようやく本性を見せるように――声の抑揚を消した。
「 “写真”が問題なんじゃない。“写ってる人間と場所” が問題なんです。あなたのキャリア、社内倫理部、監査、そして“オマワリ”……誰がどう見るか、想像力のある方なら分かるはずです。ここタイでは効かない我々の名刺も、日本では……ね」
胸ポケットにつけられた山川会の金バッジそれがちらりと光った時、三崎は――自分がすでに足元から闇に呑まれていることを、否応なく知った。




