脅威
ここ数日、街がざわついている。
“不可侵”とされていたR26のラインを、西成無道の連中が平然と越えてきている。
挑発か、それとも予告か。――どっちでもいい。もう「一線」は、確実に踏み越えられた。街のあちこちに、「西成無道」のタグ。スプレーの文字は乱暴に踊り、壁やシャッターに焼きつくように残されている。落書きにしては妙に意思がある。芸術というほどではないが、勢いと“悪意”だけは伝わってくる。
「……ここもか」
江藤が無造作にその壁に背を預け、目を細めた。無言のまま、そのタグを睨んでいる。
その隣で、一平が小さく舌打ちをしながら言った。
「でも、まだかちあわんへん。来てんのは間違いないのに、何でやろな」
悔しそうな声だった。けど、その目の奥には、どこか安堵の色もあった。
そこに、二人組のスーツの男がゆっくりと近づいてきた。夕暮れのアスファルトに長く伸びる影。空気が凍る。
「あれ、ウシオのおっさんや」
春也の低い声が漏れた。
少年課の刑事・牛尾。
この界隈のガキどもを捌いてきた男。無口で、厳しい。だが、筋を違えなければ決して理不尽はしないと噂される“現場の鬼”。
小柄な体に年季の入ったスーツ。眉間の深い皺が、そのままこの街の歴史のように刻まれていた。
その隣には、潰れた耳を持つ無言の若い刑事。ゴリラのような体格に柔道の香りが漂う。目だけが、猛獣のように警戒心を放っていた。
小野原と一平が警戒を強める。睨み合いが、数秒続いた。
だが、牛尾は一切それに応じない。ただ静かに、竜に声をかけた。
「……竜。兄貴、残念やったな。もう一年か」
竜は表情を動かさない。ただ、眼差しの奥に何かが沈んでいた。
牛尾は視線を動かし、京志を見据えた。見慣れない顔だ。だが、その若者が不意に顔を伏せ、上目遣いにこちらを睨み返した瞬間――牛尾の眉がピクリと跳ねた。
「ん?」
記憶の底にある、棘のある視線。それが今の京志と重なる。
「お前......その陰気な目つき。まさか――加賀谷
か?」
京志は黙ったままだ。
「その目、慎吾そっくりや。――顔は全く似てへんけどな」
含みを持たせた様な、言葉の棘とは裏腹に嬉しさが見えた。
「で、親父はどこや。帰ってきてるんか?」
「二年前に、病気で死んだ……」
牛尾の口元がわずかに動き、何かを飲み込むように数秒沈黙した。
「そうか……」
ふと、声の調子が変わった。
「あいつが、お前を西成に連れてきたんか……」
空気が張り詰める。しびれを切らした間柴が口を開いた
「あんた何しに来たんや?」
牛尾は若い刑事と顔を見合わせゆっくりと口を開いた。
「お前ら……西成無道。あいつらと揉めるなよ」
春也が即座に口を挟んだ。
「揉めてへん。向こうが勝手にウロついてるだけや」
牛尾は鼻を鳴らすように短く笑った。
「ほんなら、ええけどな。四年前、この西成で一人の若もんが亡くなった、奈良沢翔太。ほんで一年前は、後藤猛や」
竜の目だけが、わずかに揺れた。
牛尾はその変化を見逃さなかった。さらに声を潜める。
「お前ら絶対、深入りすんな。特にあいつとは……“剛田理貴”」
名前が落ちた瞬間、場の温度が下がった気がした。
「剛田……? 誰や?」
誰かが反芻するように呟く。牛尾はしばらく無言だった。やがて、低く絞り出すように言った。
「俺も色んなヤツを見てきた。けど、あいつだけは――。あんな荒んだ目をした奴は初めてや」
牛尾は京志に視線をやる。
「剛田はこう呼ばれとる――親殺し」
若い刑事がたまらず口を挟んだ。
「おやっさん、そないなこと言うたらあきませんわ!」
牛尾は肩をすくめた。煩わしそうに、それでもどこか諦めたような顔で呟く。
「わかっとる。でも言わなあかんこともあるやろ」
その目が京志たちを捉えた。
「 “忠告はした”ぞ。」
そう言い残し牛尾たちは去っていった。足音は静かだったが、背中に圧だけが残った。
しばらく沈黙が続いた。
春也が小野原を見やって呟く。
「小野原。剛田っちゅう奴、どんなんなんや?」
「 “小野原さん”や」
間を置いて、小野原は低く続けた。
「聞いたことあらへん。普通、西成のもんで名前通ってる奴なら、なんかしら噂くらい聞くんやが……」
どこか異様な“空白”。名前だけが街に浮いていた。
少し離れた場所で。牛尾と若い刑事は歩きながら話していた。
「剛田いう奴、ほんまにそんなにヤバい奴なんですか?」
牛尾は立ち止まらず、ただ呟いた。
「姫路少年刑務所に収監されとる元西成無道の椎名。毎晩、暴れて泣き叫んでるらしいわ」
「泣く……?」
「あぁ。『剛田が来る』って言うてな。寝ることもできひんのやと」
若い刑事の顔に、複雑な色が浮かぶ。
「それにな……御影アキラが帰ってきとる」
一瞬の沈黙。
「いつ、あいつらに接触するか……わからん」
牛尾は視線を遠くにやった。京志たちのいる方向。まるで“何か”がそこに巣食っているかのように。
「御影、剛田、そして――」
その言葉は、霧の中に消えた。
「お前、代えのシャツ用意しとけよ」
若い刑事は何も言えなかった。ただ、京志の陰鬱な目を思い返していた。




