二〇二四年九月最後の水曜日
電車の窓から景色をぼんやり眺めているうちに、横浜駅に着いた。
通勤ラッシュを避けたとはいえ、やはりそれなりに混んでいる。無表情あるいは険しい顔をしているサラリーマンたちや、スーツケースを引く女性、大きなリュックサックを背負った若い男性などとすれ違いながら駅の外に出る。
ああ、それにしても今日は本当にいい天気だ。昨日までの容赦ない照り付けと蒸し暑さは何処へやら、日差しは柔らかく、風が心地好い。澄んだ青空は、俺自身の心を映しているかのようだ。
横断歩道を前に、一旦足を止める。
「うちの娘がさ、お笑い芸人になりたいなんて言い出したんだよ」
「え、お笑い芸人?」
隣に並んだ若いサラリーマン二人の会話が聞こえてきた。
「娘さん、いくつだっけ」
「一六。高校二年。元々そういうのが好きなのは知ってたんだけどさ。最初は冗談か、まあ軽い気持ちで言ってるんだろうと思ったんだが、どうも本気らしくてさ。養成所に入りたいから、卒業したら家を出るなんて。昨日、ちょっとした喧嘩になっちまった」
「反対なの?」
「そりゃそうだ。売れるのはほんの一握りだろ。それに、人を笑わせられるならいいが、人に笑われる娘の姿なんて、親なら誰だって見たくない」
信号が変わると、二人は俺よりも先に渡っていった。
昔の出来事を思い出した。実の両親に溺愛され、医者として活躍する将来を嘱望されていた義弟は、医大の受験をすっぽかすと、ミュージシャンになると宣言。高校卒業後に家出してしまった。今は静岡県内で自営業をしていて、来年、下の子が大学受験らしい。
養父母が今どうしているのかは知らない。俺がそれなりに活躍するようになってきた頃、事務所を通して何回か連絡してきたが、全部無視していたら、そのうち諦めたようだ。
〈横浜ランドマークタワー〉や数々のオフィスビルを横目に、数十分歩いて俺がやって来たのは、奇妙な人生の始まりの場所──〈臨港パーク〉だ。
俺が〝時空の管理者〟の心臓にカッターナイフを喰らわせると、聞いた事もないような絶叫が響き渡った。そしてこの世の終わりのような揺れに、耐え切れず心臓から落下した。離れた場所にいる仲間の元に駆け寄ろうにも、あちこちに転がされ、叩き付けられ、まともに立ち上がる事すら困難だった。
「マ……キ、ナ……」
倒れたまま動かない女性の姿が視界に入り、俺は俯せのまま手を伸ばした。
指先に、ぼんやり光る小さな球体が三つ。
これは……ああ……この人たちは……
途切れ途切れになりつつある絶叫と絶叫の合間に、球体から、小さい声で確かにこう聞こえた──〝有難う、カズ君。さようなら〟
ドスン、と縦に大きく揺れたかと思うと、そこで俺の意識は途絶えた。
そして次に俺が目を覚ましたのは、一九九一年九月二五日水曜日の朝、自室の布団の中だった。
家族が全員出払うと、俺はすぐに〈臨港パーク〉へと向かった。
電車の中で散々迷ったが、横浜駅で降りると、俺はあの運命の日とは違う方法──電車を乗り換えて桜木町駅で降り、そこから歩く── で目的地へと向かった。そうしないと、またループが繰り返されてしまうのではないかという不安が消えなかったのだ。
〈臨港パーク〉に到着すると、走って北側へ。
そよ風が心地好いのは、あの時と同じだ。
あの時と違うのは、芝生広場、石畳の歩道、そして石段など……何処を探しても、三人の仲間たちの姿が見当たらない事だ。
俺は端まで来ると、石段の最上段に腰を下ろした。客船やコンテナ船、新港埠頭のハンマーヘッドクレーン、横浜ベイブリッジ。どれも、ぼやけてしまってはっきり見えない。
ああ、これで俺の、俺たちのループは、完全に終わったんだ。
有難う、ケンさん、ナコさん、ナツエさん。さようなら。
ループを始めてしまった日に戻れたのは、俺だけではないはずだ。あの子だって、今日──二〇二四年九月二五日水曜日に目覚めているはずだ。
草薙麻希奈。口が達者で、真面目な場面でおかしな事を言わずにはいられない陽気さと軽さの陰に、無数の傷を隠していた心優しい女性。
〈臨港パーク〉の北側に到着した俺は、辺り一面をゆっくり見回した。人はあまり多くないから、彼女がいればすぐにわかる。
心臓がうるさいのを無視して、一通り歩き回る。
きっと、まだ来ていないだけだ。〈臨港パーク〉ではない別の場所にいるのかも。待ち合わせの場所を指摘したわけではないのだから、あり得る。もしや、ループしていたという事実を覚えていない? あるいは夢だったと勘違いしている?
まさか、この元の時間軸に戻れていないなんて事は……そんな事は……。
〈臨港パーク〉に来てから、数十分が経過した。
俺は北側の端、石段の最上段に腰を下ろした。
今日一日はここで粘る。もし会えなかったら、明日彼女の家に行って確かめる。そしてその結果によっては……現実を認めなくてはならないだろう。
海面で魚が跳ねた。少し遠くで小型犬が吠えている。空も海も、何処までも青い。これといって珍しくもない光景だけど、いや、だからこそ、きみと一緒に見られたら良かったのに。
ふと、誰かが俺の斜め後ろに立っている事に気付いた。石段に座りに来たのかと思いきや、そのまま動かずにいる。
俺が反応するよりも先に、その人が口を開いた。
「今、幸せですか?」
ああ……それは、もう一度聞きたくて堪らなかった声に間違いなかった。
「間に合ってますよ」俺はちょっと笑いながら振り向いた。「私が神なので」
声の主──草薙麻希奈は、一瞬目を見開き、それから吹き出した。
「ちょっと遅かったな」
「すぐ来るつもりだったんだよ。でもね、寝坊しちゃったの。始業時間を一時間近くも過ぎてた。スマホ見たら会社からは鬼電。こっちから掛け直して休むって言ったら、昨日の件は気にせずに来てくれだの何だのって、しつこくて。いや気にしないわけないじゃん? 勿論お断り。決めたんだ、近々退職するって」
麻希奈は軽やかなステップで俺の隣まで来ると、ゆっくりと腰を下ろした。
「最初、その野球帽と黒縁眼鏡で、すぐにわかんなかったよ。でも横顔に何となく面影があったし、何か直感的に、あ、カズ君だ……って」
「そうか、すまない。たまに通行人に気付かれて、勝手に写真を撮られたりする事もあるから……」
「えー、カズ君てば有名人? いや、あれ? え、もしかして……」
「大学一年で劇団に入って、卒業後に就職してからも地道に活動を続けていたんだ。ある時、ゲームキャラクターの声の仕事が入ってね。それをきっかけに少しずつ声優としての仕事が増えていって、おかげさまで今ではそれなりに忙しいよ。ああ、ちなみに今度、実写ドラマにも顔出し出演する事になった。ちょい役だけどね」
麻希奈は驚き過ぎて、言葉も出ないようだった。
「そんなに衝撃的か? 俺は約束を守っただけだ」
「……そっか……うん、そうだね……!」
笑顔で頷く麻希奈の両目は、心なしか潤んでいるように見えた。そして多分、俺の両目も同じように見えたはずだ。
「ねえカズ君。わたし、ループ中に出逢った人たちを探したいんだ。ジョーさんにテレサにマダム……皆、きっとまた仲良くなれると思うから」
「それなら、俺も出来る限り協力する」
「本当? 有難う。あ、ミランダ川中にまた占って貰うのもいいかも。……でもその前に!」
麻希奈は勢い良く立ち上がると俺の方に向き直り、腹部に手を当てた。
「お腹空いた! 何か食べたいんだけど!」
言われてみれば、俺もすっかり腹ペコだった。
「よし、フランス料理でも食べに行くか」
答えながらゆっくり立ち上がる。目の前の友人を真似たい気分だったが、この年齢で調子に乗ってもいい事はない。
「やったー! じゃあその後はおやつね。何が食べたい?」
「それは麻希奈に任せるよ」
「おっ! 下の名前で呼ぶの、何気に初めてじゃない?」
いや、実は既に何度か呼んでいるんだ。もっとも、きみにはちゃんと聞こえていなかったみたいだが。
「ん……?」麻希奈は首を傾げた。「いや、やっぱり前にあったっけ?」
「……あったかもな?」
「え、何その引っ掛かる言い方! いいよ、絶対思い出してやる。思い出せたら地中海料理追加ね!」
何処の国のどんな料理でも構わないさ。人生は明日以降も続くのだから、食べたいものを食べて、やりたい事をやって、会いたい人に会いに行けばいいんだ。
ああ、そういえば……。
「そういえば、さっきの質問にちゃんと答えていなかったな」
「え?」
俺より少し前を歩く麻希奈が、歩みを止めずに振り返った。
「幸せだよ」俺は心からそう言った。「凄く幸せだよ」




