↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/51

第9話 空識(くうしき)

 ゴブリンと擦(す)れ違ったあの日から、リナムーアの森での歩き方は変わっていた。


 境界沿いの茂みを一つ検(あらた)めるたびに、いったん腰を上げて耳を澄ます。下生えのこすれる音、枝のしなり、遠くの羽ばたき。そのどれもが背後から来ていないと確かめてから、次の茂みへ移る。葉を裏返す手の動きより、周りへ配る注意のほうが多いくらいだった。


 背後を取られてから振り向くまでの、あの数瞬の感覚がまだ指先に残っている。近すぎて動けなかった。次に同じことが起きたとき、横を素通りしてくれる保証はどこにもない。


 だが、日はただ過ぎていった。


 二日、三日と重なり、半月が過ぎても、森は静かなままだった。ゴブリンの群れも、話に聞いたホーンラビットも、下生えを揺らす影ひとつ見せない。境界から離れずに動いている限り、魔物のほうから寄ってくることはなかった。


 採取のほうは、相変わらずの籤(くじ)だった。朝のうちに採集袋(さいしゅうぶくろ)がふくれる日もあれば、日が傾いても採集袋の底が透けたままの日もある。それでも一日の終わりには、銅貨(どうか)が四枚、手のひらに数え入れられた。


 張り詰めていたものが、少しずつ緩(ゆる)んでいく。


(あれは、やはり滅多にないことだったんだな)


 振り向いて耳を澄ます癖(くせ)は、まだ抜けない。ただ、そのたびに喉の奥へせり上がっていた緊張は、日を追うごとに薄れていった。森は広い。その中でたまたま一体と行き合っただけのことだ。そう考えるほうが、理屈に合っている気がした。


 夜明け前に宿舎を出て森へ通う形は、もう体に馴染んでいた。


 ひとつだけ、日ごとにずれていくものがあった。


 初めて森へ入った日は、食堂の時計が六時を指してもまだ外は暗かった。それがいまでは、同じ刻限に宿舎の戸を押せば、外壁の上の空はとうに白んでいる。夜明けが少しずつ前へ繰り上がっていた。


(一日の長さは変わらない。伸び縮みするのは日の出ている時間のほうか)


 前の世界でも同じだった。冬に短く、夏に長い。リナムーアは寝床を離れる刻限を、夜明けの動きに合わせて少しずつ早めていった。日の出と同時に樹縁(じゅえん)へ立てれば、探し歩ける時間はそのぶん延びる。日暮れのほうも同じだけ後ろへ下がっていて、門灯の点る時刻は初日よりもはっきり遅くなっていた。


 繰り上がっていたのは、自分の起きる刻限だけではなかった。食堂の竈(かまど)に火が入るのも、大門が開くのも、初めて森へ入った日より早くなっている。日の出に合わせて出て、日の入りまでに帰る。それが冒険者の一日である以上、街の朝は時計ではなく日の出のほうから始まるのだった。


 ▽ ▽ ▽


 その日も、リナムーアは境界沿いの茂みにしゃがんでいた。


 ヨモギに似た草の葉を一枚ずつ裏返し、主脈(しゅみゃく)から波紋のように広がる筋をあらためていく。当たりの一株を見つけ、鉄のナイフを茎に添えたときだった。


 唐突に、ゴブリンの気配を感じた。


 方角は森の奥。距離はおよそ三十メートル。位置も、そこにいるものがゴブリンだということも、理由の説明がつかないまま分かった。


 ナイフを持つ手が止まった。


(——おかしい)


 顔を上げ、その方角へ目を凝らした。見えるのは幾重にも重なった幹と枝葉、その隙間(すきま)に沈む灰がかった緑の奥行きだけだ。目が届くのはせいぜい十数歩先まで。三十メートルも先の地面を見通せるはずがない。音もしない。匂いも流れてこない。


(気のせいだ。……いや、そう決めつけるのも早いか)


 リナムーアはしゃがんだまま、順を追って考えた。ここしばらく森にいる間、ずっと気を張り続けていた。振り向いては耳を澄まし、影を探しては外す。その繰り返しだった。張り詰めた神経がありもしない気配を作り出すことは、ある。前世でも、徹夜(てつや)明けの帰り道でいるはずのない人影を何度も見た。


(つまり幻覚(げんかく)に近いものか。だとすれば、放っておけば消える)


 ところが、消えなかった。


 胸の内で数を数えるあいだも、ゴブリンの気配はそこにあり続けた。それどころか、手に取るように位置が掴(つか)めた。奥の窪地(くぼち)を日陰側(ひかげがわ)から日向側(ひなたがわ)へゆっくり移り、立ち止まり、また歩き出した。


(一過性のものなら、こんなに長く、はっきりと居座りはしない)


 それに、恐怖に呑まれている感じもなかった。心臓は普段どおりに打っていた。頭は冷えていた。怯(おび)えが見せる幻(まぼろし)とは、まるで質が違った。


 次の瞬間、視界が一気に開けた。


 文字どおりの視界ではない。目に映る景色は、下生えに囲まれたまま何も変わらない。開けたのは別の感覚のほうだった。しゃがんだ自分を中心に、森のひと区画が丸ごと頭の中へ写し取られる。木々の位置、地面の起伏、下生えの濃い薄い。そして奥の窪地を動く、ひとつの影。


 それが何であるかを、リナムーアは明確に理解した。


(『空識(くうしき)』——才能(タレント)から派生した新しいスキルだ)


 『自己認識』には、条件しだいで派生スキルが枝分かれしていく性質がある。それは授かったときから、体のほうで分かっていた。『己識(こしき)』に続く二つ目が、いま目を覚ましたのだ。


 同時に、内側の感覚も様変わりしていた。これまでは意識して『己識』を発動しなければ読めなかった自分の状態が、しゃがんでいるだけで把握できた。心拍、呼吸、四肢の疲れ。どれも、確かめようと思う前からそこにあった。


(『己識』のほうも変わったのか。……発動しなくても、分かる)


 ▽ ▽ ▽


 落ち着いてから、リナムーアは新しい感覚を検分した。


 届く範囲は、自分を中心におよそ三十メートル。その外はぷつりと途切れ、何も入ってこなかった。範囲の内側も、克明とは言いがたかった。奥の窪地にいるものが「ゴブリン」だとは掴めても、形や大きさや向きは、輪郭がぼやけていた。匂いに至っては、あるということしか分からない。


(絶えず流れ込んでくる、粗(あら)い下絵のようなものか。鮮明ではないが、途切れない)


 意識を向けずとも、範囲の中の物の配置は勝手に更新され続けていた。働かせようと気負う必要はないらしい。


 問題は、この感覚を信じていいかどうかだった。芽生えたばかりのものだ。窪地にゴブリンがいると告げられても、本当にそこにいるとは限らない。目で確かめておく必要があった。


 リナムーアは採取を中断し、足音を殺して気配の方角へ少しずつ近づいた。木の幹から幹へ、身を隠せる場所を選んで進む。十歩ほどの距離まで詰め、太い楢(なら)の陰から窪地をうかがった。


 いた。


 背丈はリナムーアより少し高いくらいの、緑色の影が一体。下生えのあいだを、のそのそと歩いていた。乾いた土のような肌の色、木の葉のかたちに尖った耳。あの日すれ違ったのと同じ、ゴブリンだった。『空識』が指し示していた場所と、寸分の狂いもない。


(本物だ。……この感覚は、当てにできる)


 ゴブリンはこちらに気づく様子もなく、窪地の縁を奥へと歩いていった。リナムーアは息を整え、踵(きびす)を返した。実在は確かめた。ならば、あとは約束どおりにするだけだ。相手の目に入る前に、その場から離れる。


 下生えを踏む音を立てないよう、来た道を境界のほうへ戻っていった。背後で気配が遠ざかっていくのを、『空識』越しに測りながら。


 ▽ ▽ ▽


 それからの数日は、採取中、ずっと意識の一部を『空識』に預けて過ごした。


 絶えず流れ込んでくる下絵の、ある一点へ狙いを絞る。すると、その部分だけ像の解像度が上がった。ぼやけていた木の幹に節(ふし)の凹凸が浮かび、下生えの一叢(ひとむら)が葉の一枚一枚に分かれて感じ取れる。狙いを外すと、また全体がのっぺりと粗くなる。目の焦点を近くの物へ合わせるのと、よく似た理屈だった。


(前に遊んだゲームにも、こういうのがあったな。探知持ちが、注視した方向だけ細かく見えるようになるやつが)


 前世で読みふけった物語の類にも、似た力はいくらでも出てきた。使いどころも、だいたい相場が決まっている。思い当たれば、応用を試すのに躊躇(ためら)いはなかった。


 リナムーアは五、六メートル先の草むらへ意識を向けた。


 目には、ただ緑がかたまっているとしか映らない。だが『空識』で狙いを絞ると、そのなかにヨモギに似た形の葉が幾株か立っているのが分かった。さらに意識を絞り込むと、一株の葉裏、主脈からゆるやかに広がる波紋の筋——ボド草の証——の有無まで読み取れた。


 一枚ずつ確かめる手間そのものは、変わらない。変わったのは、当たりかどうかを見るために、いちいちその株の前まで歩いていく必要がなくなったことだ。


 しゃがんだまま、周囲の草むらを順にあらためていく。外れの一帯は意識の隅へ退(しりぞ)け、当たりのある方向へだけ足を運ぶ。空振りの往復が、そっくり消えた。


(これは……大きいな)


 半日歩き回って一枚も採れなかったあの日々が、嘘のようだった。


 ▽ ▽ ▽


 『空識』が目を覚まして以降、採取の日はまた淡々と続いた。


 変わったのは、採集袋が一杯になるまでの時間だった。境界沿いを行きつ戻りつしても、たいていは半日で小さいほうの採集袋が口まで膨(ふく)らむ。ポーチの携帯時計を出せば、左右針(さゆうしん)の赤い先端はまだ左を向いている。昼にもならないうちに、その日の分は終わっていた。


 早い時刻に森を出るようになると、帰りに門兵(もんぺい)と言葉を交わすことも増えた。


 詰所から顔を出した門兵が、片手を上げてみせた。


「今日も早いな、ちびすけ」

「はい。……いまは、はんぶんの日で、おわります」

「そりゃ結構。日のあるうちに帰るのが一番だ」


 顎の不精髭(ぶしょうひげ)を撫(な)でながらそう言うと、門兵は脇へ寄り、リナムーアを先に通した。


 門の内側は、朝に出たときとは別の顔をしていた。荷車が行き交い、通りの先の露店(ろてん)から呼び込みの声が飛んでいる。頭の上では、日がまだ高いところにあった。


 リナムーアはベルトのポーチを軽く押さえ、その喧噪(けんそう)の中へ歩いていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。