第9話 空識(くうしき)
ゴブリンと擦れ違ったあの日から、リナムーアの森での歩き方は変わっていた。
境界沿いの茂みを一つ検めるたびに、いったん腰を上げて耳を澄ます。下生えのこすれる音、枝のしなり、遠くの羽ばたき。そのどれもが背後から来ていないと確かめてから、次の茂みへ移る。葉を裏返す手の動きより、周りへ配る注意のほうが多いくらいだった。
背後を取られてから振り向くまでの、あの数瞬の感覚がまだ指先に残っている。近すぎて動けなかった。次に同じことが起きたとき、横を素通りしてくれる保証はどこにもない。
だが、日はただ過ぎていった。
二日、三日と重なり、半月が過ぎても、森は静かなままだった。ゴブリンの群れも、話に聞いたホーンラビットも、下生えを揺らす影ひとつ見せない。境界から離れずに動いている限り、魔物のほうから寄ってくることはなかった。
採取のほうは、相変わらずの籤だった。朝のうちに採集袋がふくれる日もあれば、日が傾いても採集袋の底が透けたままの日もある。それでも一日の終わりには、銅貨が四枚、手のひらに数え入れられた。
張り詰めていたものが、少しずつ緩んでいく。
(あれは、やはり滅多にないことだったんだな)
振り向いて耳を澄ます癖は、まだ抜けない。ただ、そのたびに喉の奥へせり上がっていた緊張は、日を追うごとに薄れていった。森は広い。その中でたまたま一体と行き合っただけのことだ。そう考えるほうが、理屈に合っている気がした。
夜明け前に宿舎を出て森へ通う形は、もう体に馴染んでいた。
ひとつだけ、日ごとにずれていくものがあった。
初めて森へ入った日は、食堂の時計が六時を指してもまだ外は暗かった。それがいまでは、同じ刻限に宿舎の戸を押せば、外壁の上の空はとうに白んでいる。夜明けが少しずつ前へ繰り上がっていた。
(一日の長さは変わらない。伸び縮みするのは日の出ている時間のほうか)
前の世界でも同じだった。冬に短く、夏に長い。リナムーアは寝床を離れる刻限を、夜明けの動きに合わせて少しずつ早めていった。日の出と同時に樹縁へ立てれば、探し歩ける時間はそのぶん延びる。日暮れのほうも同じだけ後ろへ下がっていて、門灯の点る時刻は初日よりもはっきり遅くなっていた。
繰り上がっていたのは、自分の起きる刻限だけではなかった。食堂の竈に火が入るのも、大門が開くのも、初めて森へ入った日より早くなっている。日の出に合わせて出て、日の入りまでに帰る。それが冒険者の一日である以上、街の朝は時計ではなく日の出のほうから始まるのだった。
▽ ▽ ▽
その日も、リナムーアは境界沿いの茂みにしゃがんでいた。
ヨモギに似た草の葉を一枚ずつ裏返し、主脈から波紋のように広がる筋をあらためていく。当たりの一株を見つけ、鉄のナイフを茎に添えたときだった。
唐突に、ゴブリンの気配を感じた。
方角は森の奥。距離はおよそ三十メートル。位置も、そこにいるものがゴブリンだということも、理由の説明がつかないまま分かった。
ナイフを持つ手が止まった。
(——おかしい)
顔を上げ、その方角へ目を凝らした。見えるのは幾重にも重なった幹と枝葉、その隙間に沈む灰がかった緑の奥行きだけだ。目が届くのはせいぜい十数歩先まで。三十メートルも先の地面を見通せるはずがない。音もしない。匂いも流れてこない。
(気のせいだ。……いや、そう決めつけるのも早いか)
リナムーアはしゃがんだまま、順を追って考えた。ここしばらく森にいる間、ずっと気を張り続けていた。振り向いては耳を澄まし、影を探しては外す。その繰り返しだった。張り詰めた神経がありもしない気配を作り出すことは、ある。前世でも、徹夜明けの帰り道でいるはずのない人影を何度も見た。
(つまり幻覚に近いものか。だとすれば、放っておけば消える)
ところが、消えなかった。
胸の内で数を数えるあいだも、ゴブリンの気配はそこにあり続けた。それどころか、手に取るように位置が掴めた。奥の窪地を日陰側から日向側へゆっくり移り、立ち止まり、また歩き出した。
(一過性のものなら、こんなに長く、はっきりと居座りはしない)
それに、恐怖に呑まれている感じもなかった。心臓は普段どおりに打っていた。頭は冷えていた。怯えが見せる幻とは、まるで質が違った。
次の瞬間、視界が一気に開けた。
文字どおりの視界ではない。目に映る景色は、下生えに囲まれたまま何も変わらない。開けたのは別の感覚のほうだった。しゃがんだ自分を中心に、森のひと区画が丸ごと頭の中へ写し取られる。木々の位置、地面の起伏、下生えの濃い薄い。そして奥の窪地を動く、ひとつの影。
それが何であるかを、リナムーアは明確に理解した。
(『空識』——才能から派生した新しいスキルだ)
『自己認識』には、条件しだいで派生スキルが枝分かれしていく性質がある。それは授かったときから、体のほうで分かっていた。『己識』に続く二つ目が、いま目を覚ましたのだ。
同時に、内側の感覚も様変わりしていた。これまでは意識して『己識』を発動しなければ読めなかった自分の状態が、しゃがんでいるだけで把握できた。心拍、呼吸、四肢の疲れ。どれも、確かめようと思う前からそこにあった。
(『己識』のほうも変わったのか。……発動しなくても、分かる)
▽ ▽ ▽
落ち着いてから、リナムーアは新しい感覚を検分した。
届く範囲は、自分を中心におよそ三十メートル。その外はぷつりと途切れ、何も入ってこなかった。範囲の内側も、克明とは言いがたかった。奥の窪地にいるものが「ゴブリン」だとは掴めても、形や大きさや向きは、輪郭がぼやけていた。匂いに至っては、あるということしか分からない。
(絶えず流れ込んでくる、粗い下絵のようなものか。鮮明ではないが、途切れない)
意識を向けずとも、範囲の中の物の配置は勝手に更新され続けていた。働かせようと気負う必要はないらしい。
問題は、この感覚を信じていいかどうかだった。芽生えたばかりのものだ。窪地にゴブリンがいると告げられても、本当にそこにいるとは限らない。目で確かめておく必要があった。
リナムーアは採取を中断し、足音を殺して気配の方角へ少しずつ近づいた。木の幹から幹へ、身を隠せる場所を選んで進む。十歩ほどの距離まで詰め、太い楢の陰から窪地をうかがった。
いた。
背丈はリナムーアより少し高いくらいの、緑色の影が一体。下生えのあいだを、のそのそと歩いていた。乾いた土のような肌の色、木の葉のかたちに尖った耳。あの日すれ違ったのと同じ、ゴブリンだった。『空識』が指し示していた場所と、寸分の狂いもない。
(本物だ。……この感覚は、当てにできる)
ゴブリンはこちらに気づく様子もなく、窪地の縁を奥へと歩いていった。リナムーアは息を整え、踵を返した。実在は確かめた。ならば、あとは約束どおりにするだけだ。相手の目に入る前に、その場から離れる。
下生えを踏む音を立てないよう、来た道を境界のほうへ戻っていった。背後で気配が遠ざかっていくのを、『空識』越しに測りながら。
▽ ▽ ▽
それからの数日は、採取中、ずっと意識の一部を『空識』に預けて過ごした。
絶えず流れ込んでくる下絵の、ある一点へ狙いを絞る。すると、その部分だけ像の解像度が上がった。ぼやけていた木の幹に節の凹凸が浮かび、下生えの一叢が葉の一枚一枚に分かれて感じ取れる。狙いを外すと、また全体がのっぺりと粗くなる。目の焦点を近くの物へ合わせるのと、よく似た理屈だった。
(前に遊んだゲームにも、こういうのがあったな。探知持ちが、注視した方向だけ細かく見えるようになるやつが)
前世で読みふけった物語の類にも、似た力はいくらでも出てきた。使いどころも、だいたい相場が決まっている。思い当たれば、応用を試すのに躊躇いはなかった。
リナムーアは五、六メートル先の草むらへ意識を向けた。
目には、ただ緑がかたまっているとしか映らない。だが『空識』で狙いを絞ると、そのなかにヨモギに似た形の葉が幾株か立っているのが分かった。さらに意識を絞り込むと、一株の葉裏、主脈からゆるやかに広がる波紋の筋——ボド草の証——の有無まで読み取れた。
一枚ずつ確かめる手間そのものは、変わらない。変わったのは、当たりかどうかを見るために、いちいちその株の前まで歩いていく必要がなくなったことだ。
しゃがんだまま、周囲の草むらを順にあらためていく。外れの一帯は意識の隅へ退け、当たりのある方向へだけ足を運ぶ。空振りの往復が、そっくり消えた。
(これは……大きいな)
半日歩き回って一枚も採れなかったあの日々が、嘘のようだった。
▽ ▽ ▽
『空識』が目を覚まして以降、採取の日はまた淡々と続いた。
変わったのは、採集袋が一杯になるまでの時間だった。境界沿いを行きつ戻りつしても、たいていは半日で小さいほうの採集袋が口まで膨らむ。ポーチの携帯時計を出せば、左右針の赤い先端はまだ左を向いている。昼にもならないうちに、その日の分は終わっていた。
早い時刻に森を出るようになると、帰りに門兵と言葉を交わすことも増えた。
詰所から顔を出した門兵が、片手を上げてみせた。
「今日も早いな、ちびすけ」
「はい。……いまは、はんぶんの日で、おわります」
「そりゃ結構。日のあるうちに帰るのが一番だ」
顎の不精髭を撫でながらそう言うと、門兵は脇へ寄り、リナムーアを先に通した。
門の内側は、朝に出たときとは別の顔をしていた。荷車が行き交い、通りの先の露店から呼び込みの声が飛んでいる。頭の上では、日がまだ高いところにあった。
リナムーアはベルトのポーチを軽く押さえ、その喧噪の中へ歩いていった。




