第8話 素通り(すどおり)
夜明け前、リナムーアが宿舎の戸口へ出ると、ミオが待っていた。
外套は着ておらず、杖も持っていない。職員の制服のままだった。昨日のように樹縁まで並んで歩くつもりは無いのだと、それで分かった。
「昨日の道は、覚えていますね」
「はい。区画の門を、まっすぐ。魔境側の大門を出て、草原を、森まで」
「森の中では」
「奥へ、入らない。魔物を見たら、すぐ、離れる」
ミオは一つずつ頷いてから、屈んでリナムーアのベルトに指を掛けた。締まり具合を確かめ、ポーチの留め金を確かめ、またベルトに戻る。一度確かめたところを、もう一度確かめていた。
やがてミオは手を離して、膝を伸ばした。何か言いかけたように口が開き、それから閉じた。
「……いってらっしゃい」
「いってきます」
まだ暗い街路を少し行ったところで、リナムーアは一度だけ振り返った。ミオは戸口に立ったまま、こちらを見ていた。リナムーアが手を上げると、ミオも胸の前で小さく手を振った。
区画の門を抜けると、すぐ大門だった。
大門の大扉はまだ閉ざされていた。片側に切られたくぐり戸の前へ、詰所から門兵が二人出てくる。昨日はミオの後ろについて抜けただけで、リナムーアは門兵の顔をろくに見ていなかった。
「おう、来たか。ちびすけ」
背の高いほうが腰を落として、目の高さを合わせてきた。顎に無精髭が伸びている。
「ギルドの姉さんから聞いてるぞ。白い髪のちびが、毎朝一人でここを通るってな。薬草採りだろう」
「はい。……ボド草を、採りに」
「止めやしねえよ。話は通ってる」
もう一人は、詰所の窓の内側から帳面を引き寄せた。
「名前は」
「リナムーア、です」
門兵はペンを走らせ、書いたばかりの行の横を指で叩いた。
「出た時刻と一緒に付けとく。戻ったら、ここへ戻りの時刻を入れる。門灯が点っても空いたままなら、こっちからギルドへ走る手筈だ。空けたままにすんなよ」
「はい。……門灯までに、戻ります」
背の高いほうが立ち上がり、膝の土を払った。
「気をつけてな」
帳面を付けた門兵が、くぐり戸の閂を外した。リナムーアが草原へ抜けると、背中で閂の戻る重い音がした。
草原の先に、森の帯が黒く横たわっている。しばらく歩いてから、リナムーアはさっきのやり取りを思い返した。
(話は通ってる、か)
三つの子供が一人で大門を出ようとすれば、ふつうは呼び止められる。門兵はそうしなかったうえに、戻らなかったときの手まで決めてあった。ギルドの姉さんというのは、昨日ここを一緒に通ったミオのことだろう。リナムーアの知らないところで、ミオはこの門まで来て話を付けてくれていた。戸口では、そんなことは一言も言わなかった。
(一人で歩いてはいる。でも、放り出されたわけじゃない)
胸の奥に、温かいものが残った。孤児院にいた頃には、誰かが自分のために先回りしてくれることなど、考えもしなかった。白み始めた空の下を、リナムーアは森へ向かって歩いた。
▽ ▽ ▽
樹縁の丈の高い草の帯を抜けて樹冠の下へ入ったところで、リナムーアは足を止めた。
頭上を覆う枝ぶりも、入ってすぐの二股に裂けた大木も、昨日のとおりだった。違うのは足元だった。昨日は膝の高さまで羊歯が茂っていた窪地を、今日は背の低い蔓草が埋めている。歩きやすかった木の根元は、腰まで届く草に覆われていた。
(……入れ替わってる。薬草だけじゃなくて、下草ごと)
いい場所を覚えても意味がない、とミオは言っていた。魔境の薬草は、生える場所が毎日変わるからだ。そう聞いたとき、リナムーアは薬草のことだけを考えていた。森は、それよりずっと大きく作り直されていた。
動かないのは、木だけらしい。リナムーアは二股の大木を目に焼き付け、そこを起点に境界沿いを探し始めた。
この日は、当たりが早かった。
最初にしゃがんだヨモギに似た茂みで、葉の裏に主脈から広がる筋が見えた。ボド草だ。そこから十歩と行かない木陰にもう一株あり、倒木の裏にはまとまって生えていた。昨日は小一時間歩いてようやく一株だったのが、嘘のようだった。
日が高くなりきらないうちに、小さいほうの採集袋は口まで膨らんだ。
リナムーアは採集袋の口を括り、ポーチから携帯時計を出した。短針の下に、短く太い針がもう一本ある。先にだけ赤い色の付いたその針を、時計を渡してくれたときにミオは左右針と呼んでいた。左を向いていれば午前、右を向いていれば午後だ。
赤い先端は、まだ左を向いていた。
(昨日は、門灯の前に戻るのがやっとだった。今日は、昼にもならない)
腕が上がったわけでも、要領を覚えたわけでもない。昨日引いたのが外れで、今日引いたのが当たりだった。それだけのことだ。
(やっぱり、草ガチャだな)
リナムーアは苦笑して、まだ昇りきらない日の下を、樹縁のほうへ引き返した。
▽ ▽ ▽
一人で森へ通うようになって十日あまりが過ぎた日の午後、リナムーアは境界沿いの茂みにしゃがんでいた。
昼前に採集袋が一杯になる日もあれば、日が傾いても底が見えている日もある。当たり外れの振れ幅は、少しも縮まらなかった。この日は外れのほうで、ようやく見つけた一株にナイフを入れかけたところだった。
背後で、茂みが鳴った。
乾いた葉のこすれる音に、枝のしなる音が混じる。小さな生き物の立てる音ではなかった。リナムーアはナイフを握ったまま、肩越しに振り返った。
数歩先に、ゴブリンが立っていた。
ミオに聞いたとおり、背丈はリナムーアより少し高いくらいだった。緑がかった肌には艶がない。尖った耳に、潰れた鼻。顔の幅いっぱいに裂けた口から、小さな牙がのぞいている。腰に茶色い布を巻いただけの体は、手足に骨の形が浮くほど痩せていた。濁った黄色の小さな目が、こちらを向いていた。
魔物を見たら、すぐにその場から離れる。ミオと約束したその言葉を思い出したときには、もう体が動かなくなっていた。
近すぎた。遠くに見つけたなら、そっと下がればいい。だが、この間合いで背を向けて駆け出せば、その音と動きで追われる。大人の早足にようやくついていける程度の脚では、振り切れない。
(動くな。……動けば、終わる)
ナイフの柄を握る指に力がこもった。葉を切るための刃で、身を守る役には立たない。それでも、手の中にあるのはそれだけだった。
ゴブリンが一歩、踏み出した。
黄色い目は、こちらから外れなかった。さらに一歩。乾いた土のような臭いが鼻をついた。背中を冷たい汗が伝う。リナムーアは息を止めて、次の動きを待った。
ゴブリンは、リナムーアの横をすり抜けた。
腕は振り上げられなかった。牙も向けられなかった。しゃがんだ肩の先をかすめるほどの近さで通り過ぎ、そのまま下生えの中を歩いていく。一度も振り返らなかった。そこに誰もいないかのようだった。
足音が遠ざかり、やがて鳥の声だけが残った。
リナムーアは長く息を吐いた。指先が細かく震えている。『己識』を発動するまでもなく、心臓が痛いほど打っているのが分かった。
(……なぜ、素通りした)
どの魔物に出くわしても、一人ではまず助からない。ミオはそう言っていた。しゃがみ込んだ小さな子供など、襲わない理由がない。あの目は、確かにこちらを見ていた。
考えるのは、ここでなくていい。リナムーアは周りに目と耳を配り、ほかに何も来ないのを確かめた。震えが収まるのを待ってから、切りかけの株にナイフを戻した。
▽ ▽ ▽
その夜、宿舎の食堂で、リナムーアの両隣にはサリナとミオが座った。
サリナが魚の小骨を抜き、ミオが汁物の椀に息を吹きかける。二人がかりの世話を受けながら、リナムーアはスプーンを置いた。
「きょう、森で……ゴブリンに、会いました」
サリナの手が止まった。ミオが息を呑む音が聞こえた。
「怪我は、しなかった?」
「してないです。……襲われて、ないので」
リナムーアは見たままを話した。背後の茂みが鳴ったこと。振り向いたら、数歩先に立っていたこと。近すぎて動けなかったこと。ゴブリンがこちらを見て、近づいてきて、そのまま横を通っていったこと。
「……だれも、いないみたいに。一度も、振り返らずに」
サリナとミオが顔を見合わせた。
「ミオ、聞いたことはある?」
「いいえ。目の前の人をゴブリンが素通りするなんて、一度も」
サリナも小さく首を横に振った。ミオは手を伸ばして、リナムーアの前髪を直した。その指先が、かすかに震えていた。
「理由は、私には分かりません。でも、いちばん怖いのは、近すぎて動けなかったことです。今日は、たまたま何も起きなかっただけ。次も同じとは限りません」
「向こうが気づく前に離れること」
サリナが、ミオの言葉を継いだ。
「音を聞いたら、姿を確かめるより先に動いて。木の陰でも、下生えの中でもかまわない。相手の目に入らないところへ行くの。見つかってから逃げるのは、最後の手段よ」
「はい。……次は、もっと早く気づきます」
(二人とも、聞いたことがない。……あれは、やはり普通ではなかったのか)
リナムーアが頷くと、ミオはまだ眉を寄せたまま、汁物の椀をそっと押し出してきた。
「……とにかく、無事でよかった。冷めないうちに、食べてください」
▽ ▽ ▽
自室の寝台に腰かけて、リナムーアは今日のことを初めから並べ直した。
ゴブリンは、こちらを見ていた。そのうえで、襲いもせず、逃げもしなかった。こちらへ歩いてきて、脇を抜けていっただけだ。進む先に、たまたま石が転がっていたかのような通り方だった。
周りの人と自分との違いで、ゴブリンに関わりそうなものといえば、一つしか思い当たらない。魔力だ。ギルドの測定の紙には、リナムーアの魔力は何も記されなかった。少なすぎて、道具では見つからない。ギルド長の前で、自分でもそう話した。
(測定の紙に映らないものが、ゴブリンにも映らなかったのだとしたら)
あのゴブリンにとって、リナムーアは獲物の数に入っていなかったのかもしれない。石や倒木と同じで、そこにあっても関わりがない。そう考えれば、目が合っても何もせずに通り過ぎたことに、筋が通る。
もっとも、一度きりのことだった。たまたま腹の満ちた一体だっただけかもしれない。それに、魔力ではなく匂いや動きで獲物を追う種がいれば、この理屈は成り立たない。
(当てにはできない。見かけたら、逃げる。それは変えない)
ただ、と思う。もし本当に、薄すぎる魔力が魔物の目から自分を隠しているのなら。ずっと引け目だったこの体の欠けが、森では盾の一枚になる。
証明されたわけではない。それでも、覚えておく値打ちはあった。
リナムーアはベルトを外し、灯りを落として横になった。廊下を誰かが通っていく。その足音が遠ざかるまで、耳はそれを追っていた。




