第10話 余暇(よか)
薬草の在り処が、目で見ずとも朧げに分かる。『空識』という新しい力が目を覚ましてからというもの、半日もあれば採集袋は一杯になった。それが、リナムーアの新しい常になっていた。
その日も、リナムーアは昼過ぎには納品窓口で銅貨四枚を受け取っていた。日はまだ高いところにあった。
(午後が、丸ごと空いた)
大きいほうの採集袋なら、一杯にすれば十倍の値が付く。だが、一杯にした重さを担いで草原を渡りきる体は、まだ無かった。
森へ引き返すには遅すぎる。かといって、部屋で寝台に転がっているには明るすぎた。リナムーアは銅貨を硬貨入れに落とし、本館の奥へ足を向けた。
資料室の扉の脇には、閲覧記録の帳面が置いてある。日付と名前を書き入れる欄が並び、上のほうにはもう自分の字がいくつも連なっていた。薬草の図譜を読み漁った夜の分だ。
今日は、別の棚の前に立った。
魔物と魔獣の記録が収まった一角だった。討伐の報告書を綴じた分厚い束、種ごとの図と解説、魔石の買い取り一覧。薬草の棚より背が高く、上段に手を届かせるには踏み台を引きずってこなければならなかった。
ゴブリンの項を開く。
群れで動くこと。知能は人より低いが、まったく考えないわけではないこと。腰布を巻き、粗末な得物を持つこと。上位種のホブゴブリンは体格が一回り大きく、剣や弓を扱い、ゴブリンを従えること。倒せば灰色の魔石が残り、豆粒ほどの大きさで五ムーア、討伐報酬は十ムーア。
(……森で真横をすり抜けていった、あの一体。群れからはぐれていたのか。それとも、近くに群れがあったのか)
背筋が冷えた。あのとき『空識』はまだ目を覚ましていない。いまなら届く三十メートル先に群れがいたのかどうか、確かめる術はなかった。
頁をめくる。ホーンラビット。体長はおよそ七十センチ、重いものは十キロを超える。前額部に白く短い円錐の角。単独で動き、知能は低い。だが脚が速く、その角を突き立てて突進してくる。
リナムーアは自分の腕を見下ろした。身長は七十五センチ。体重は、その兎とさして変わらない。
(角のついた十キロが、全力でぶつかってくる。……当たれば、それで終わりだな)
さらに先の頁に、グレイヴォルフがあった。体長二メートル、体重百キロ超。灰色の毛。群れで狩り、示し合わせるだけの知恵を持つ。
解説を二度読み返して、リナムーアは静かに本を閉じた。
(『空識』が教えてくれるのは、何かがいる場所と、その大きさまでだ)
あの日、窪地の影がなぜかゴブリンだと分かったのは、一度その姿を目の前で見ていたからだった。見たことのないものは、何なのか分からない影のまま、『空識』の下絵に乗るだけだ。大きさや動きは分かっても、それが突っ込んでくるのか、群れで狩るのか、どれほど危ないのかは、下絵は何ひとつ教えてくれない。
(見えていても、知らなければ分からない。知っていれば、影だけで見当がつく)
前世で新しい仕事に就くたび、まず仕様書を積み上げて読んだ。触る前に中身を知る。順序としては、いつもと同じだった。
リナムーアは踏み台を戻し、次の一冊を引き出した。
▽ ▽ ▽
日が傾きかける頃、リナムーアはギルドの裏庭に出た。
訓練場の隅で、サリナが弓の弦を張り替えていた。声をかけると、手を止めて顔を上げる。
「あら。今日はもう上がりなの」
「はい。……サリナ。また、走るのを、みてもらえませんか」
サリナが片眉を上げた。
「走り込み? 毎日八キロも歩いている子が、まだ走り足りないの」
「歩くのと、走るのは、ちがいます。……にげるのは、走るほうです」
サリナは弦を傍らに置き、膝に手をついて立ち上がった。
「……そうね。そのとおりだわ」
木の根と小石でわざと均されずにいる一角を、リナムーアは全力で駆けた。息が上がったら歩いて整え、また駆ける。以前サリナが組んだのと同じ形だった。
違うのは、負荷の読み方だ。前は走るたびに『己識』を発動し、脚の筋繊維の消耗と心肺の負担をそのつど拾い上げていた。いまは何もしなくても、それがそこに並んでいる。走りながら余力の残りを見て、歩幅を決められた。
三本目を走り終えたところで、サリナが手を叩いた。
「前より粘るようになったわね。森通いが効いてる」
「まだ、大人の早足に、ついていくだけです」
「上等よ。これからは、それをもっと長く続けられるようにしましょう」
その夜、食堂の長机にはサリナとミオが揃っていた。
木皿には根菜の煮込みと、炙った肉が一切れ。ホーンラビットだと、サリナが言った。昼間に読んだばかりの名前が食卓に出てきて、リナムーアは妙な心地で肉を噛んだ。
「……おいしい」
「でしょう。今日のは、よく肥えたのが入ったんですって」
サリナが自分のことのように嬉しそうに言う。リナムーアはもう一切れ口に運んでから、スプーンを置いてミオを見上げた。
「ミオ。……まえに、まっくらな道で、光る玉を、出してました」
「光球のことですか」
「あれは、どうやって、出すんですか」
ミオは椀を置き、少し考えてから指を二本立てた。
「魔力と、術式。……この二つです」
魔法というのは本来、個人の感覚に頼るものなのだとミオは言った。同じことをしようとしても、人によって出方が違う。それを誰でも同じ結果になるように組み直したのが魔術で、さらに魔力の多い少ないにも縛られないように仕立てたのが魔道具なのだと。
「宿舎の水も灯りも、みなその魔道具です」
「じゃあ、光る玉は……」
「あれは魔術ですらありません。私が癖でやっているだけの、ただの魔法です」
リナムーアが身を乗り出すと、ミオの目がわずかに翳った。
「……ひとつだけ、先に言っておきます」
言葉を選ぶように、ミオは間を置いた。
「魔法も魔術も、あなたが自分で使うのは、たぶん無理です」
分かっていた。ギルドの測定の紙にさえ、何一つ映らなかった魔力だ。
「わかってます」
リナムーアは頷いた。
「……でも、しくみは、しりたいです」
「いいんじゃない。使えなくたって、知っていて損はないわ」
サリナが横から口を挟んだ。それから、元Aランクの声に戻って続けた。
「相手が何をしてくるのか分かるだけで、生き残る目は上がるもの」
「……では、どこで、よめますか」
リナムーアが尋ねると、二人は顔を見合わせた。
「資料室には、魔法の本はほとんど置いてないわね」
サリナが首をかしげる。
「あそこにあるのは、魔境と魔物と、薬草と、依頼の記録。……冒険者に要るものだけだもの」
「図書館なら、あります」
ミオが言った。聞き慣れない響きに、リナムーアは目をしばたたいた。
「としょ、かん」
「中央寄りの区画にある、領が預かっている書庫です。歴史でも地誌でも、魔法の入門書から専門書まで揃っています。入るだけなら、お金は要りません」
言ってから、ミオは眉を寄せた。
「……ただ、ここからは遠いです。区画の門を二つ抜けて、乗合馬車で一時間近くかかります。首のギルドカードを見せれば運賃は掛かりませんが、あなた一人で乗せるのは」
「道は、おぼえます」
「初めの一度は、私が連れて行きます。それからにしましょう」
ミオがそう区切ると、サリナは笑って汁物の椀を押し出してきた。
「話は決まりね。……冷めるわよ」
▽ ▽ ▽
図書館は、聞いていたよりずっと大きかった。
石造りの建物が区画の一辺をまるごと占めている。正面の石段を上がって扉をくぐると、天井が高く抜けていた。壁という壁が書架で埋まり、上のほうは梯子を掛けなければ届かない。魔道具の灯りが等間隔に並び、窓のない奥まで明るかった。紙と埃と、革の表紙の匂いがした。
人はまばらだった。商人らしい身なりの男が自分の帳面に何かを写し取り、神官服の若い女が書架のあいだを歩いている。話し声はなく、頁をめくる音だけが高い天井へ吸い込まれていった。
入口脇の机で、ミオが二人分の名を書いた。司書の老人はリナムーアの白い髪と赤い目を一度だけ見て、それから何も言わずに木札を二枚寄越した。
木札を受け取りながら、リナムーアは老人の頭へ目をやった。七十は越えていそうな顔なのに、髪は色の抜けた麦わらのような色をしているだけで、白くはない。前世なら、この年の人の髪はとうに白くなっていた。支部へ移ってから白い髪の年寄りを一人も見ていないことに、そのとき初めて気がついた。
(……年を取っても、白くはならないのか)
だとすれば、この髪は老いて手に入る色ではない。老人の目が一度だけ止まったのも、そのせいだろう。
「持ち出しはできません。読むのはここで」
「はい」
「魔法の棚は、あちらです」
ミオが奥を指した。
「……上のほうは、まだ読まなくていいですよ」
最初の一冊は、散々だった。
文字は読める。療養のあいだ、ミオが寝台の脇で一つずつ教えてくれた。だが、並んでいる言葉が分からない。循環、位相、定着。説明に使われている言葉のほうが、説明されている事柄より難しかった。
(……入門書と書いてあるのに、これか)
リナムーアは棚の端まで戻り、絵の多い子供向けの一冊から読み直した。
それから、午後の使い道が決まっていった。
半日で採集袋を満たし、昼過ぎに納品を済ませる。日によって、その先が変わる。資料室で魔物の記録を繰る日。裏庭でサリナに走りを見てもらう日。乗合馬車に揺られて、書架の前に座り込む日。
銅貨は相変わらず一日に四枚ずつしか増えない。それでも、積み上がっていくものは金だけではなくなっていた。
その日も、リナムーアは閉館を告げる鐘が鳴るまで書架の前にいた。
膝の上の本を閉じ、背表紙の埃を払って、もとの隙間へ押し戻す。木札を返すと、司書の老人は閲覧記録の帳面に線を引いて、小さく顎を引いた。
石段を下りると、通りは夕の色に沈みかけていた。大通りの乗り場で待つうちに、街灯がぽつぽつと灯り始める。やって来た乗合馬車の御者へ首の木のギルドカードを見せ、リナムーアは外周寄りの区画へ向かう座席の端に腰を下ろした。




