第6話 支度(したく)
療養室を出て、リナムーアが最初に案内されたのは、ギルドの建物に併設された宿泊施設だった。
石造りの本館から渡り廊下でつながった三階建ての細長い棟。冒険者ギルドに登録した者なら、相場よりずっと安い費用で寝床を借りられる。長期の依頼で遠方から来た者や、まだ稼ぎの少ない新人が主な住人だと、隣を歩くミオが説明してくれた。
通されたのは二階の一室だった。木の寝台がひとつ、小さな机と椅子、衣類を仕舞う木箱。窓はひとつきりで、そこからギルドの裏庭と敷地の奥に広がる木立が見えた。ギルドは外壁都市の中にあり、その敷地は魔境側の外壁沿いに広く取られていた。とはいえ、高い外壁に阻まれて、その外の様子までは何も見えなかった。
「狭くて、ごめんなさいね。でも掃除はしてありますし、雨漏りもしません」
ミオが少し申し訳なさそうに言った。リナムーアは部屋の中をぐるりと見回してから、首を横に振った。
「じゅうぶんです。……あかるいし、あたたかい」
孤児院で寝起きしていた地下同然の部屋を思えば、十分すぎた。乾いた寝具があり、日の差す窓がある。
(鍵もかかる。窓は二階で、外から手が届かない。悪くない立地だ)
「一階に食堂があります。ここに住んでいる人は、朝と夜、ただで食べられるんですよ。あなたの分も、ギルド長がそう手配してくれました」
「ただで……って、いいん、ですか?」
「ええ。遠慮しないで、しっかり食べてください。……まだ、痩せているんですから」
ミオの指がそっとリナムーアの頬に触れた。その手つきは割れ物を扱うように慎重だった。
「それとね」
ミオが廊下の先を指さした。
「私の部屋は、この廊下の突き当り。サリナは、その隣です。二人とも、ここに住んでいます」
その一言にリナムーアは思わずミオを見上げた。
(この二人も、同じ建物に住んでいるのか)
夜、何かあっても、声の届く距離に知った顔がいる。その事実が思っていた以上に胸の奥を軽くした。
「……ちかくて、よかった」
ぽつりとこぼれた本音にミオは目を細めて笑った。
▽ ▽ ▽
その日の夜、リナムーアは食堂の長机に着いていた。両隣をサリナとミオに固められる形で。椅子に座ると足は床に届かず、小さな靴がぶらりと宙に浮いた。
木皿には、パンと、野菜を煮込んだ汁物、それに白身の魚が一切れ。リナムーアが手を伸ばすより早く、サリナが魚の骨を丁寧に外し始めた。反対側ではミオがパンをちぎって、汁に浸して柔らかくしている。
「はい、こっちが食べやすいわよ」
「汁物も冷ましましたから、どうぞ」
二人がかりの世話にリナムーアはスプーンを握ったまま固まった。
(……少し過保護な気もするが、まあ、悪い気はしない)
「じぶんで、できます」と一応言ってはみたが、サリナは「いいのいいの」と取り合わない。ミオまで口の端についた汁を布で拭ってくる始末だった。
その光景は周りの席からもよく見えていたらしい。
「おい、受付のお二人さんが子守してるぞ」
少し離れた席で革鎧を着込んだ大柄な男が仲間を肘でつついた。
「新入りか? ずいぶんちびっこいな」
「白い髪に赤い目……珍しいガキだ」
悪意のある声ではなかった。ただ物珍しいものを見た、という程度の口ぶりだ。一人が面白半分に声を張った。
「サリナさんの隠し子じゃねえのか?」
「違うわよ。減らず口叩いてないで、明日の依頼票ちゃんと出しなさい」
サリナが振り向きもせずに返すと、男たちはどっと笑った。
「おお、怖え。『流星』に睨まれちゃ、頭の上から矢の雨が降ってくらあ」
首をすくめてみせたのを最後に、男たちは自分たちの酒に戻っていった。ミオが軽く睨みを利かせたのも効いたのかもしれない。
リナムーアが首を傾げると、ミオが耳元へ顔を寄せた。
「サリナは冒険者だった頃に、いちばん上のAランクまで上がったんです。放った矢が、星の雨みたいに空いっぱいから降りそそぐので、『流星』と呼ばれているんですよ」
「もう、ミオ。そういうのはいいの。ほら、魚が冷めるわ」
サリナは骨を外し終えた魚の皿を、リナムーアの前へ押し出した。
リナムーアは汁物をすすりながら、その一部始終を観察していた。
(乱暴な連中だが、絡んできたわけじゃない。ただの好奇心だ)
白い髪と赤い瞳を見て投げられるのが、侮蔑の言葉ではなく軽口で済む。それだけでこの場所は孤児院とはまるで違った。リナムーアは少しだけ肩の力を抜いた。
▽ ▽ ▽
翌日から、ミオによる薬草の講義が始まった。
ギルドの隅の一角、乾いた見本の草を並べた机を前に、ミオが口を開いた。
「まず、覚えてほしい薬草が二つあります。ボド草と、ミド草」
ミオが最初に手に取ったのはボド草の見本だった。色も形もヨモギによく似た草で、見分けの決め手は葉の裏側にある、とミオは言った。
「主脈——葉の真ん中を走る太い筋。そこから波紋みたいに広がる葉脈。これがあればボド草。無ければ、よく似た別の草です。混じって生えていますから、必ず裏を確かめてください」
「うら、をみる。……おぼえました」
「採り方は、葉だけをナイフで切り取る。薬になるのは葉だけですから、茎も根も要りません」
「はっぱ、だけ。……くきも、ねも、いらない」
小さな声で復唱するリナムーアに、ミオは短く頷き、机の見本を脇へ寄せた。
「採集袋の小さい方を一杯にすれば四十ムーア、大きい方なら四百ムーア。重さを量って、ギルドが買い取ります」
リナムーアは頷きながら、頭の中で数字を並べた。地道だが、続ければ確実に積み上がる額だ。
ミオはもう一種類、濃い緑の草の見本を指し示した。茎から等間隔に、縦に潰したハートのような形の葉が並んでいる。
「これはミド草。ボド草の上位で、魔力を回復させる効果があります。値も十倍つきます。……でも、あなたが採るのはボド草だけ」
ミド草が生えるのは魔境の外縁部の一歩内側——浅層と呼ばれる区域なのだとミオは言った。外縁部より魔物が濃く、弱いものばかりとは言えない場所だ。
「ギルド長は、ボド草もミド草もと言っていましたけど、浅層はあなたにはまだ早すぎます。まずはボド草で、外縁部に慣れてから。ミド草は、姿と名前だけ覚えておいてください。見かけても、絶対に奥へ追いかけないこと」
「はい。……ボド草、だけ。おくには、いかない」
「ひとつ、めんどうなことがあります」
ミオが少し声を落とした。
「魔境の薬草は、生える場所が毎日変わります。昨日そこにあっても、今日は無い。だから、いい場所を覚えても意味がないんです。毎回、一から探し歩くしかありません」
(なるほど。それで手間の割に稼げない。人気がないわけだ)
最後に、ミオはひときわ真剣な顔になった。
「あなたが採り歩くのは、その外縁部だけ。魔物も、弱いものがほとんどです。でも——弱いものが多い、というだけです。魔境である以上、危ないものが出ないとは、誰にも言えません」
ミオは指を折りながら、外縁部で出くわす魔物を挙げていった。
「ゴブリンは、背丈があなたより少し高いくらいで、群れで動きます。ホーンラビットは額に角のある兎で、見つけた相手へまっすぐ突っ込んできます。それから、ごく稀にですが、奥からグレイヴォルフという大きな狼の形をした魔獣が、何頭かで下りてくることがあります。……どれに出くわしても、あなた一人では、まず助かりません」
折った指をほどいて、ミオはリナムーアの目を覗き込んだ。
「奥に入らない。開けた場所を選ぶ。魔物を見たら、すぐにその場から離れる。……約束してください」
「はい。……ぜったいに、まもります」
リナムーアは神妙に頷いた。
(『己識』で分かるのは、あくまで自分の中のことだけだ。周りに何がいるかは、教えてくれない。目と耳で、慎重に——それしかない)
その日の夜、リナムーアは資料室に籠もり、薬草の図譜と教わった内容を突き合わせて、一つずつ確かめ直した。閲覧記録の帳面に自分の名を書き入れるのももう三度目だった。
▽ ▽ ▽
薬草の知識と入れ替わりにサリナが受け持ったのは体づくりだった。
「リナムーアは、戦えない。だったら、やることは一つよ」
ギルドの裏庭でサリナは指を一本立てた。
「魔物に見つかったら、逃げ切る。振り切って、安全な所まで走り続ける。そのための体力をつけるの」
いちばん上のランクまで上がった人だけあって、サリナの指導には無駄がなかった。全力で短く走り、歩いて息を整え、また走る。その繰り返し。木の根や小石で凸凹した地面をわざと選び、転ばずに駆け抜ける練習もした。魔境の地面は平らではないからだ。
三歳のリナムーアの身体は、まだ飢えの遅れを引きずっていた。無理をすれば、簡単に壊れる。だから走るたびに『己識』を発動し、脚の筋繊維の消耗と、心臓と肺の負担を細かく読み取りながら、負荷を調整していった。
「息が上がっても、足だけは止めないで。歩いてでも前に進む。——そう、上手よ」
サリナが並走しながら褒めると、荒い呼吸の合間にリナムーアの胸がわずかに熱くなった。
(……こんな時でも褒められると悪くないと感じるんだから、我ながら現金だな)
数日続けるうちに、短い距離なら、大人の早足に食らいついていける程度にはなった。まだまるで足りない。それでも、外縁部へ踏み出す最初の一歩としては合格だと、サリナは言ってくれた。
▽ ▽ ▽
そして、一通りの支度が整った。
療養着の代わりに真新しい白のワンピースと、くるぶし丈の白い靴下、しっかりした作りの茶色い靴。腰には革のベルトを巻き、採集袋を収めるポーチと葉を切り取るための鉄のナイフを下げる。首には、登録の印の木のギルドカードを紐で下げ、服の下へ入れる。サリナがベルトの締め具合を確かめ、緩みがないかを二度三度と引いた。
「うん、締め方はこれでいい。……走っても、ずれないわね」
ひと通り確かめ終えると、サリナはふと表情を曇らせた。
「でも、ナイフ一本だけっていうのは、やっぱり心配。何か身を守る物を——短剣くらい、持たせた方がいいんじゃない?」
その言葉にミオが小さく首を横に振った。
「私も一度は考えました。でも、やめておきましょう。今のこの子の身体では、鞘ごと腰に提げるだけで、走りの邪魔になります。振り回すどころか、抜くのもやっとです」
二人のやり取りをリナムーアは黙って聞いていた。自分の腕の細さも脚の弱さも、『己識』が示す数値で、誰よりも正確に知っていた。
(剣を振る力も、抜き打つ速さもない。半端に得物を持てば、それを当てにして、かえって逃げ遅れる。……武器は、いらない)
「だいじょうぶ。……魔物を見たら、すぐ、はなれます。それだけ、します」
リナムーアがはっきりそう言うと、サリナはまだ少し不安そうにしながらも、ゆっくりと頷いた。
「……そうね。あなたの仕事は、採ることと、逃げること。戦うことじゃないものね」
「明日は、外縁部の入口まで、私が一緒に行きます」
ミオが屈んで、目線をリナムーアに合わせた。
「そこから先の採り歩きは、あなた一人でやってみて。……ずっと近くにはいられませんから、少しずつ慣れていきましょう」
「はい。……がんばり、ます」
その夜、リナムーアは一人、部屋の窓辺に立っていた。
『己識』を発動した。栄養状態、良好。筋力、低いが機能に不足なし。免疫、回復。洗礼式の朝に読んだ、悪い値ばかりの羅列は、もうどこにもなかった。
(ここまで来た。あとは、返していくだけだ)
与えられた寝床も、食事も、二人が割いてくれた時間も、対価を示して初めて自分のものになる。リナムーアはそう考えていた。
窓の外は薄い闇に沈み、敷地の木立の向こうに外壁の黒い影が高くそびえていた。あの壁の向こうに、明日踏み込む魔境がある。
リナムーアは窓辺に立ったまま、翌朝歩く外縁部までの道のりを、頭の中でもう一度なぞった。




