第52話 茶碗(ちゃわん)
夜、サリナが訓練場へ下りていくと、リナムーアはもう一人で木剣を振っていた。
型を一度確かめてから、いつもの稽古に入った。サリナが同じところから、同じ長さの一歩で入っていく。リナムーアは抜いた木剣を構えたまま、それを待つ。
一度目は、リナムーアの刃が下りきる前に、サリナの木剣が肩口へ届いた。二度目は、刃が先に下りて空を切った。三度目に、乾いた音が鳴った。振り下ろされた木剣の腹が、入ってきたサリナの木剣をまっすぐ受け止めていた。
サリナは木剣を引き、元の位置へ戻った。
三度に一度は、こうして受けるようになっていた。少し前までは、早すぎるか遅れるかのどちらかで、合う一振りのほうが珍しかった。
「納めたほうも、やりましょう」
「はい」
リナムーアが木剣を背の鞘へ納め、留め金を閉じた。両手を下ろして、サリナを待つ。
サリナは同じように入った。踵が土を離れても、リナムーアの右手はまだ肩の上へ上がっていなかった。刃が背から出かかったところで、サリナの木剣は肩口に届いて止まった。
遅れた、とサリナは思った。何夜か前には、同じ形で早すぎて、刃が誰もいない宙を払っていた。その夜は先に出て、今夜は後になった。どちらへ外れるかは、夜ごとに違った。
サリナは入り方を変えなかった。同じところから、同じ一歩で、もう二度入った。二度とも、刃は間に合わなかった。
「今夜は、ここまでにしましょう」
「はい。ありがとうございました」
リナムーアは木剣を武器掛けへ戻しに行った。
▽ ▽ ▽
辺境伯家の先触れが支部へ着いたのは、それから三日後の夕方だった。
告げられたのは、主がまもなく着く、ということだけだった。サリナはミオと二階へ上がり、廊下の突き当たりの貴人の間を開けた。ミオが窓を開け、卓を布で拭いていく。
上がってきたオグマが、戸口から部屋を見回した。ミオが手を止めた。
「茶は、お出ししますか」
「出しておけ。今日は、飲まれるはずだ」
前の来訪で、辺境伯は置かれた茶に一度も手を付けなかった。廊下へ出る前に振り返り、茶は次に来たときにもらう、と言って帰った。オグマはそれを、約束として受け取っていたらしい。
馬車が二台、敷地へ入ってきた。騎馬の護衛四騎は入り口で止まり、そこから先へは進まない。前と同じ形だった。
オグマとサリナは、表の扉の外で出迎えた。
先の馬車から辺境伯が降り、そのあとに黒髪を背で編んだ娘が続いた。娘が振り返って手を差し出すと、その手につかまって、小さな男の子が段を降りてくる。洗礼式の日、聖堂の前列に並んでいた二人だった。
「上の娘と、末の子だ」
辺境伯はそれだけを言った。オグマが頭を下げ、先に立って扉の内へ入った。
一行が階段を上がっていくのを見送ってから、サリナは階段の下で待っていたミオに言った。
「茶碗を、二つ足してちょうだい」
「はい」
ミオが盆を持って上がっていく。茶を注ぎ足すために、今日はそのまま部屋に残ることになっていた。
サリナは窓口へ戻った。門灯が近づき、森から戻った冒険者が台の前に並びはじめている。一人ずつ品を受けていくうちに、列の最後に白い髪が見えた。
リナムーアの採集袋の葉を判別機に流し、台帳に今日の分を書き入れてから、サリナは顔を上げた。
「上に、お客様がお見えよ。お子さんが二人、一緒」
「辺境伯閣下ですか」
「ええ」
サリナは台の内側から出て、階段の下までリナムーアと並んで歩いた。
「行ってらっしゃい」
「はい」
白い髪が、一段ずつ上がっていった。
▽ ▽ ▽
父は席に着くと、置かれた茶碗にすぐ手を伸ばした。
ひと口含んで、卓へ戻す。向かいのギルド長が、その手元へ一度だけ目を落とした。口の端がわずかに動いたように、ユーフェミアには見えた。何のやり取りなのかは分からなかった。
黒髪の職員が、ユーフェミアと弟の前にも茶碗を置いていった。
「熱いので、少し置いてからお飲みください」
「……うん」
ユーフェミアは礼を言い、ひと口だけ含んで茶碗を置いた。
ここへ来たいと言ったのは、ユーフェミアのほうだった。
洗礼式の日、前列の脇を通り過ぎようとした白い子供に、思わず声を掛けて年を聞いた。四つです、と返ってきた。そのあとに続ける言葉が、どこにも無かった。唇を開いて、閉じた。子供は少し待ってから頭を下げ、行ってしまった。城へ戻ってからも、ユーフェミアはあの一瞬を何度も思い返した。
人の前で詰まらずにいられたのは、問われそうなことには、いつも先に答えを用意してきたからだ。用意の無いことには、口を開かずにきた。あの日だけは、用意の無いまま声が出てしまった。
だから今日は、聞くことを用意してきた。何から言い、どう続けるかを決め、言い終えるところまで、胸の中で何度もなぞってある。
扉が叩かれた。職員が開けると、白い子供が立っていた。
腰まである白い髪に、赤い目。白いワンピースの裾に、乾いた土の色が少し残っている。頭のてっぺんは、扉の取っ手よりずっと下にあった。
「リナムーアです。遅くなりました」
「遅くはない。こちらが合わせて来た」
父が答えたとき、隣で椅子が鳴った。弟が茶碗を置いて椅子から滑り降り、扉のほうへ歩いていく。
「……リナムーア」
弟は白い子供の前で止まり、それから隣へ回って並んだ。自分の頭のてっぺんに手のひらを載せ、その手をまっすぐ横へ動かす。手のひらは、白い髪の上を何にも触れずに越えていった。
「ぼくのほうが、おおきい」
「イグナティウス」
名を呼ぶと、弟は手を下ろした。けれど、白い子供の隣からは動かなかった。
白い子供は、わずかに顎を上げて弟の顔を見た。
「はい。大きいです」
それだけだった。気にした様子は、どこにも無かった。
弟は三つで、この子は四つだった。洗礼式の日、この子は三つの子供たちの誰よりも低かった。その列を、ユーフェミアは前列の長椅子から見ていた。
ユーフェミアは椅子から立ち、卓の脇へ出た。座ったままでは、卓の縁に隠れて、あの子の顔が見えない。
「リナムーア。聞きたいことがあって、来ました」
赤い目が、こちらへ向いた。
「聖堂で、大司教様は条件を三つ並べました。あなたは三つ目まで聞き終えてから、一つずつ順に返して、それから断りました。一度も詰まらずに」
用意してきた言葉は、ここまで一つも崩れていなかった。
「あの答えは、先に用意してあったのですか」
子供はすぐには答えなかった。ゆっくりと瞬きを一つした。
「用意は、していませんでした。聖堂へは、量り直しのために来るように、とだけ言われていました」
そこで一度、言葉が切れた。
「聞かれたのは、わたしのことでした。わたしのことなら、わたしが考えれば答えられます」
ユーフェミアは、次に言うつもりでいた言葉を探した。この子はきっと、ああ聞かれればこう答えるつもりでいたのだろう、と思っていた。その先の問いまで、用意してあった。どれも、もう使えなかった。
用意が無かったのは、あの日の自分と同じだった。この子にも、何を言われるかは分かっていなかった。それでも、この子は詰まらなかった。
自分は、人の前で詰まらずにいるために、答えを用意してきた。用意するときに思い浮かべていたのは、こう答えれば間違いにはならない、という形のほうだった。自分がどう考えるかを、先に確かめたことがあっただろうか。
物の見方は父と同じだと、城の者たちは言う。話し方も父譲りだと言われる。それを嫌だと思ったことは無かったし、今も思わない。ただ、父と同じ答えを持っていることと、自分で考えて答えることは、同じではなかった。
「……分かりました。ありがとう」
ユーフェミアは椅子に戻った。
父は何も言わなかった。茶碗を持ち上げてひと口飲み、ユーフェミアから白い子供のほうへ、ゆっくりと目を移しただけだった。
▽ ▽ ▽
辺境伯の茶碗が空になると、ミオが茶器を持って近づいた。
「もう一杯、お注ぎしましょうか」
「いや。十分にもらった」
辺境伯は椅子を引いて立ち上がり、それからリナムーアを見下ろした。
「帰る前に、一つ知らせておく。城が抱えている研究所が、お前の草で薬を試し始めた。王都の研究院ではない。うちのだ」
王都の研究院という名は、図書館で司書の老人の口から一度聞いたことがあった。それとは別に、この領が自分で抱えている場所があるらしい。
「治癒魔法の届かんところに効く薬だそうだ。何年先の話かは知らん。……試せるところまで来たのは、お前がここにいるからだ」
辺境伯はそこで少し間を置いた。
「研究所は、もっと寄越せと言ってきている。私は寄越せとは言わん」
治癒魔法の届かないところ、という言葉が、胸の中に残った。
クレイルの左手が浮かんだ。窓口の台の縁に添えられた手の、薬指と小指が半ば開いたままになっていた。治癒魔法で傷は塞がったのに、あの二本は今も閉じきらない。
「……はい」
辺境伯は、それ以上の返事を求めなかった。子供たちのほうへ向き直る。
「ユーフェミア。イグナティウス。行くぞ」
「はい、お父様」
ユーフェミアが立ち上がり、弟の手を取った。イグナティウスは手を引かれながら、リナムーアのほうを振り返った。
「……またね」
リナムーアが頭を下げると、イグナティウスは満足したように前を向いた。オグマが先に立って、廊下へ出ていく。
ユーフェミアは戸口で足を止め、振り返った。深い青の目が、リナムーアの上で止まる。唇が開いて、一度閉じた。聖堂で年を聞いてきたあとにも、この人は同じように唇を閉じていた。
今度は、続きがあった。
「……聖堂では、何も言えませんでした。今日は、話せて、よかったです」
聞きたいことを告げたときの、まっすぐな声ではなかった。声は小さく、終わりが少し揺れていた。それでも、それはこの人自身の言葉だと、リナムーアには思えた。
「はい」
ユーフェミアは小さく頷き、弟の手を引いて廊下へ出ていった。足音が、階段のほうへ遠ざかっていく。
部屋には、リナムーアとミオが残った。
ミオは卓の上を片付けはじめた。子供たちの茶碗には、どちらもまだ茶が残っている。辺境伯の席の前の茶碗だけが、底まで空になっていた。
ミオはその茶碗を両手で持ち上げ、盆の上へ静かに移した。




