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第51話 閂(かんぬき)

 聖堂の奥の部屋には、午後の光が高い窓から差し込んでいた。


 マクシミリアンは机に向かい、書き付けの束に目を通していた。深紅の肩掛けは外してあり、白い長衣(ちょうい)だけになっている。紙を繰る右手の中指で、聖堂の紋を刻んだ指輪が光を拾った。


 机の端には、封をした手紙が一通置いてあった。縁に細い深紅の線が巡る厚い便箋で、合わせ目の封蝋(ふうろう)には二重の輪の跡が残っている。洗礼式の夜に封をしてから、半月近くそこを動いていない。


 出せば、上は動く。動けば、いずれ死んだと報せてきた者のほうへも目が向く。そのとき報せの出どころがどういう話なのかを、こちらが知らずにいるわけにはいかなかった。偽りなのか、取り違えなのか。偽りならば、掘ればどこまで出てくるのか。それを先に確かめておくために、あの女を呼んだ。


 戸を叩く音がした。


「大司教様。北の外れの教会の、シルヴェーヌ様がお見えです」


 若い侍祭(じさい)の声だった。


「通せ」


 戸が開いて、灰色の長衣の女が入ってきた。肩に白い肩掛けを掛けた、小さな教会を預かる者の装いだった。年は二十九になるはずだった。背は高くも低くもないが、長衣の上からでも線の細さが分かる。肩の上で切り揃えた栗色の髪の下で、頬がこけていた。緑がかった灰色の目の下には薄い隈(くま)が浮き、左の目尻に小さなほくろが一つある。


 女は戸口から数歩入ったところで足を止め、深く頭を下げた。


「お呼びと、伺いましたので……」


 マクシミリアンは書き付けの束を脇へ寄せた。椅子は勧めなかった。女を机の前に立たせたまま、机の上で両手の指を組んだ。


「四年前、あの子は死んだと報せてきたな」


 顔を伏せた女の肩が、わずかに上がった。


「……はい。孤児院へ入れて間もなく、と。孤児院からは、そう聞いております」


 マクシミリアンは、組んだ指を解かなかった。四年前の報せには、あの子は死んだとだけあった。孤児院の名は、どこにも書かれていなかった。


「報せに、孤児院の名は無かった」

「ええ……。書くまでもないことかと、思ったものですから」

「死んだところを、見たのか」

「いえ……見てはおりません。孤児院長様が、そう申しておりましたので、そのまま、お報せを」


 答えに詰まるところは無かった。用向きを書かずに呼んでも、女には思い当たることがあったはずだ。ここへ来るまでに、答えを整えてきたのだろう。


「あの子は、去年まで孤児院にいた。孤児院は、死んだ子を三年養っていたことになる」


 女は、すぐには答えなかった。窓の光の中で、長衣の袖口がかすかに震えていた。


「……私の、聞き違いだったのかもしれません。あのとき孤児院で何を聞いたのか、今となっては、はっきりとは……」


 今度の答えは、整えてきたものには聞こえなかった。それでも、崩しようのない答えだった。聞き違いかどうかを確かめられるのは、聞いた本人と、言った相手だけだ。


 言った相手は、孤児院長だという。だが洗礼式の日、辺境伯はあの男に、その三年のことは城で聞くと告げた。あの男の扱いは、もう領の側へ移っている。聖堂へ呼んで四年前のことを問えば、死んだという報せがあったことまで、城の耳へ入れることになる。


 マクシミリアンが黙っていると、女のほうが先に口を開いた。


「すべては、神のお導きのままに」


 聖職者なら誰でも口にする言葉だった。マクシミリアン自身も、説教の結びに幾度となく使ってきた。それが伏せた顔から差し出されると、問いの前に下ろされた閂(かんぬき)のように聞こえた。この先は何を聞いても、同じところで止まる。


 それで、勘定はついた。


 自分に崩せない話は、上の誰にも崩せない。城は、死んだという報せがあったことさえ知らない。いつか上から出どころを問われても、差し出す答えはこの女がもう用意している。孤児院からそう聞いた。聞き違いだったのかもしれない。それで足りた。


「下がれ」


 女はもう一度深く頭を下げ、戸口へ向かった。戸が閉まり、廊下の足音が遠ざかっていった。


 偽りなのか、聞き違いなのかは、分からないままだった。偽りだったとすれば、自分の足元で四年のあいだ欺かれていたことになる。それは上へ上げる話ではない。この聖堂の中で片を付ければよい。


 マクシミリアンは机の端の手紙を取り上げ、戸の外へ声を掛けた。


 入ってきたのは、先ほどの侍祭だった。領の外へ宛てる便は、いつもならネストルに手配させている。マクシミリアンは、その名を呼ばなかった。


「これを、王都へ」


 侍祭は両手で手紙を受け取り、封蝋に目を落とした。二重の輪を見て取ると、指先に力がこもった。胸の前に抱えるようにして一礼し、部屋を出ていった。


 マクシミリアンは書き付けの束を引き寄せ、ペンを取った。手紙の置いてあった机の端には、午後の光だけが落ちていた。


 ▽ ▽ ▽


 北の外れの教会へ戻ったときには、日はもう西へ傾いていた。


 シルヴェーヌは礼拝堂へ入り、戸を後ろ手に閉めた。長椅子の並ぶ堂の中には、誰もいなかった。窓から差し込んだ光が、正面の祭壇の前まで床の上に長く伸びている。


 師に付いていた頃、祭壇の前に一人で膝をつく師の背中を、幾度も見てきた。


 誰かのために手を尽くし、それでも届かなかった日のことだった。人のいなくなった堂へ戻ると、師は誰にも聞かせない低い声で、すべては神のお導きのままに、と一度だけ口にした。その先を神へ委ねる言葉であり、届かなかった自分を戒める言葉でもあった。堂の後ろに控えていたシルヴェーヌのほかに、それを聞いた者はいない。


 その言葉を、今日は大司教の前で使った。何一つ手を尽くさないまま、問いを終わらせるためだけに使った。


 口にしたのは、それだけではなかった。孤児院から聞いた、と言った。孤児院長は、名前だけを告げられて赤子を引き受けた人だ。死んだなどと言ったことは一度も無いし、言えるはずもない。自分で書いた嘘を、その人の口から出たことにした。


 大司教は、大門のことを一度も口にしなかった。


 知らなかったからなのか。知っていて、言わずにおいたのか。下がれという一言からは、どちらとも読み取れなかった。


 シルヴェーヌは祭壇の脇の戸を開け、奥の部屋へ入った。


 机の上は、出たときのままだった。師の便りの上に、二つに折った便箋が重ねてある。師への返事として書いた一枚で、あの子のことは、また人から聞いた形にしてあった。


 シルヴェーヌは便箋に手を伸ばしかけて、やめた。肩掛けを外して椅子の背に掛け、礼拝堂へ戻った。


 堂の中の光は、さっきより赤みを帯びていた。シルヴェーヌは戸の前に立ち、内側の閂に両手を掛けた。重い木の棒を受け金(がね)へ落とすと、木の触れ合う音が一度だけ、誰もいない長椅子のあいだに響いた。


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