第50話 共鳴(きょうめい)
魔境側の大門の内側に、あの女が来なくなって二日目の夕方だった。
大門をくぐって、『空識』の下絵で乗り場のほうを読む。区画の壁の際に、止まっている影は無かった。人の影はいくつも乗っているが、どれも標柱のあたりで向きを変えて流れていく。昨日の夕方も、同じだった。
詰所の窓が開いて、若い門兵が顔を出した。
「今日もいないな。あの神官服」
「はい。昨日から、来ていません」
「そうか」
門兵は短く言って、窓を閉めた。
胸の奥は、この二日、北へ引かれたままだった。
壁の際の女へ『冥識』を向けたあの夕方から、ずっとそうだ。森でミド草の株の前にしゃがんでいても、帰り道で体の向きを変えても、引かれる先は一つところから少しも動かない。冥線は、どこにも残っていなかった。辿る当ては何も無いのに、意識をよそへ移そうとすると、移したそばから引き戻される。
あの女は、北へ向かう乗合馬車で帰っていった。女の影から先へ延びていた太い冥線も、外周壁に沿って北へ向かい、下絵の縁の向こうで見えなくなった。
三日続けて立っていた人が、二日続けて来ない。ここで待っていても、もう会えないのかもしれなかった。
それなら、こちらから行くしかない。
区画の門のほうへ歩き出しても、胸の奥は北を指したままだった。
▽ ▽ ▽
その夜の稽古でも、背に納めたまま待つ形は合わなかった。
留め金を閉じて両手を下ろし、サリナが入ってくるのを待つ。今夜は、抜くのが早すぎた。サリナの足が土を離れる前に刃が背から出て、誰もいない宙を払った。振り切った腕を引き戻すより先に、サリナの木剣が肩の上で止まっていた。
「今夜は、ここまでにしましょう」
「はい。ありがとうございました」
サリナが木剣を下ろした。武器掛けのほうへ向かいかけたところで、リナムーアは声を掛けた。
「サリナ。話があります」
サリナは足を止めて、こちらへ向き直った。
「大門の内側で、神官服の女の人に見られていました。夕方に三日続けて、乗り場の脇の壁の際に立っていました」
「神官服の人ね。門の人から、聞いていたわ」
サリナの顔に、驚いた色は無かった。
「この二日は、来ていません」
「そう」
「明日、あの人が帰っていったほうへ、行ってみます。北の外れのほうです」
サリナは木剣の先を土へ向けたまま、少しのあいだリナムーアを見ていた。
「場所は、分かっているの?」
「行けば、分かると思います」
サリナはそれ以上聞かなかった。どうして行けば分かるのかも、問わなかった。
「門灯までには、戻ります」
「ええ。気をつけて」
サリナは武器掛けへ木剣を戻しに行った。リナムーアは、握ったままだった木剣を背へ納めた。
▽ ▽ ▽
夜明けの前に宿舎を出て、大門の内側の乗り場から、始発の乗合馬車に乗った。
馬車は大通りを少し進んでから、外周壁に沿った通りへ折れて北へ向かった。三日目の夕方、あの女を乗せた馬車が折れていった道だった。
窓の外が白んでいくあいだ、リナムーアは胸の奥の向きだけを追っていた。初めは馬車の行く手の少し脇にあった向きが、壁に沿って道が曲がっていくにつれて、横の窓のほうへ回っていく。その向きが窓の真横に来たところで、次の乗り場で降りた。
乗り場の脇に、小さな教会が建っていた。
戸口は開いていて、石段は掃いたばかりのように白い。下絵には、中の長椅子のあたりに影がいくつか乗っていた。朝の祈りに来た人たちだろう。教会なら、神官服のあの女がいてもおかしくはない。けれど、この中にいたとしても、下絵の影には顔が無かった。
胸の奥の向きは、教会を越えて、まだ北を指していた。リナムーアは教会の前を通り過ぎた。
区画の門を抜けると、家並みが切れた。
その先は畑だった。外周壁の内側に広がる北の農地で、畝に沿って、膝ほどの丈の青い芽が低く並んでいる。道は畑のあいだをまっすぐ北へ延びていた。朝の早い農夫が、遠くで腰をかがめている。
しばらく歩くと、畑の真ん中に建物が一つだけ見えてきた。
近づくにつれて、周りを囲む石の塀が分かるようになった。塀は大人の背の倍ほどもあり、上から屋根が二つ覗いている。そばにほかの家は無い。畑の向こうには、外周壁が低く横たわっていた。門の脇に小さな石柱が据えてあり、修道院と刻んである。
胸の奥の向きは、塀の内側を指していた。
リナムーアは門の前を避けて、塀に沿って回った。
下絵に、塀の内側の影が乗ってくる。畑の手入れでもしているのか、ゆっくり動いている影がいくつかあった。建物の中で止まっている影も、いくつかある。引かれる向きが指しているのは、その中の一つだけだった。奥の建物の、日の当たる側の部屋にいる影だ。座っているのか、ほとんど動かない。
塀の石に、手のひらを当てた。
リナムーアは、その影へ『冥識』を向けた。
冥線が返った。辿ってきたものの、続きだった。
聖堂でヘルマンの影から先へ延びていた冥線は、大門の内側の女へ届いていた。その女の影から、さらに先へ延びていた冥線が、この影まで来ている。
影そのものの関わりも、太かった。女のものよりも、さらに太い。この影から先へは、どこへも延びていなかった。
ここが、終わりだった。
そう分かったとき、冥線の終わったところから、何かがこちらへ流れ込んできた。
あの夕方に胸の奥へ触れたものとは違っていた。細くも遠くもなく、一度に胸まで届いた。
「リナムーアをお願い」
声だった。誰の声なのかは、分からない。いつ、どこで言われたのかも分からない。分かるのは、その声が誰かに、自分を託していることだけだった。
声は、それきり途絶えた。
頬を伝っていくものがあった。
指で触れると、濡れていた。泣いている。けれど、なぜ泣いているのかが分からなかった。悲しいのでも、嬉しいのでもなかった。胸の奥の、ずっと引かれていたところが、内側から熱く押し広げられていく。
膝が折れて、塀の根元に座り込んだ。背に当たる石が冷たい。涙は、手の甲で拭っても止まらなかった。畑の遠くで農夫が腰を伸ばしたが、こちらへ顔を向ける様子は無かった。
どれほどそうしていたのか、覚えていない。
涙が引いたとき、胸の奥は静かだった。
北へ引かれていたものが、無くなっていた。意識を回しても、どの向きも指していない。
代わりに、冥線が一本、手前へ寄ってきていた。こちらから向けなくても、塀の向こうの影の方角と隔たりが分かる。浅層で探し続けたコボルトのときと同じだった。あの夕方から、この先を探し続けてきたからだろう。
取り消せないかもしれないと恐れていたものが、人とのあいだに一つ付いた。
塀の向こうの影は、さっきと同じ部屋で、ほとんど動かずにいた。
▽ ▽ ▽
あの子が支部の戸をくぐってきたのは、門灯にはまだ間のある頃だった。
受付の机で明日の依頼票を揃えていたサリナは、顔を上げた。あの子の肩の採集袋は、口のあたりがしぼんで軽そうに揺れている。あの子はまっすぐ納品窓口へ向かい、ミオの前で採集袋を下ろした。葉が判別機へ流され、ミオが何か告げると、あの子は頭を下げて窓口を離れた。
こちらへは来なかった。来る用も無い。門灯までに戻ると言ったとおりに、戻ってきた。
サリナは机を立って、窓口へ回った。
ミオは台帳に書き入れたところだった。上の行には、ふだんの数字が並んでいる。その下に、半分に届かない数字が一つ入っていた。
入った分の中でどう分けるかは考える。ゼルハイムにそう答えたまま、まだ答えを出していなかった。
「ゼルハイムさんの頁、開いてもらえる?」
「はい」
ミオが手控えを繰って、台の上に開いた。研究所の注文、ミド草をできる限り多く。ゼルハイムの来た日に、ミオが書き留めた頁だった。
「治癒魔法の届かないところ、でしたね」
ミオは頁から目を上げずに、それだけ言った。
応えたい理由は、あった。
研究所は、治癒魔法の届かないところに効く薬を作ろうとしているという。形になるのは何年も先でも、実れば、治癒魔法では戻らなかった傷を抱えた冒険者にも届く。前に領の役所が頼んできたのは、討伐に出る隊の分を先に回せということだった。この注文の先には、それとは違って、支部の冒険者の得になるものが見えている。
では、研究所の分を厚くできるか。
棚から先の葉は、前から決めた仲買人の店へ、決めた割合で卸している。研究所へ回る分を厚くすれば、ほかのどこかの店の分を削ることになる。どの店を削るのかを、支部が選ぶことになる。選ばずに済むように、割合を決めてあるのだった。
それに、研究所は領の抱えているところだ。前に役所の文官が来た日、オグマは、入った品をどこへ流すかはうちで決めると言って、その頼みを断った。いま研究所の分だけを厚くすれば、断った話を、研究所の名で呑むことになる。
それでも例外を立てるなら、なぜ研究所だけなのかを、ほかの店にも役所にも言えなければならない。
手元にあるのは、ゼルハイムから聞いた見込みだけだった。研究所がそう言うのを、支部の誰も聞いていない。どこまで進んでいるのかも、本当に実るのかも、確かめる手立てが無い。研究所のほうからは、頼む言葉一つ、支部へ届いていなかった。
道を探しても、筋を通すための材料が、どこにも足りなかった。
「ミオ。前と同じ割合で、分けてちょうだい」
「はい」
ミオは手控えを閉じずに、台の端へ寄せた。
退けたのではない。応えるための材料が、いまの支部には揃っていないのだった。
門灯の少し前になって、仲買人の店の者たちが、一人ずつ窓口へやってきた。
ミオは今日の葉を、店ごとに決まった割合で分けていった。分け方は、いつもと少しも変わらない。それでも、台の上に並んだ包みは、どれもいつもより薄かった。
サリナは受付の机へ戻らずに、包みが一つずつ運ばれていくのを見ていた。




