第49話 見送り(みおくり)
洗礼式から、まだ幾日も経たない朝だった。
北の外れの教会では、朝の祈りに来る信徒は多くない。長椅子の前のほうに座った数人へ原典の一節を読み、祈りの言葉を唱えて送り出せば、朝の務めは終わる。
シルヴェーヌは戸口に立って、帰っていく信徒を一人ずつ見送っていた。石段を下りかけた年配の女が、足を止めて振り返った。
「司祭様。聖堂の洗礼式のこと、もうお聞きになりました?」
「ええ……いえ。何か、ございましたか」
女は孫の洗礼式に付き添って、聖堂の広間まで行ってきたのだという。石段の上へ戻ってくると、周りに人のいないのを確かめるように一度振り返ってから、声を落とした。
「白い髪の子がいたんですよ。冒険者ギルドにいるっていう、あの子です。大司教様がね、その子の名前からムーアを外せって、おっしゃって」
「……ええ」
「そうしたらあの子、変えませんって。大司教様に二度言われて、二度ともですよ」
シルヴェーヌは、長衣の前で重ねていた指を組み直した。
「誰が付けた名前かは知らないけど、付けた人はそう願って付けたはずだから、言われたから変えることはできないって。あんな小さな子がねえ。広間の親たちまで、うなずいちゃって。付けた親の願いだって言われたら、ねえ」
「ええ……そう、でしたか」
女は、まだ話し足りないようだった。去年、孤児院から荷車で運び出された子だということ。いまは毎日一人で魔境の森へ入っていること。市場では、もっと大きな話も聞いたこと。シルヴェーヌは初めのうち「ええ」とだけ返していたが、そのうち相づちも出なくなった。
「司祭様?」
「……いえ。存じませんでした。そういうことも、あるのでしょうね」
女はもう一度うなずいて、石段を下りていった。
戸口に残って、シルヴェーヌはしばらく動けなかった。
白い髪の子供で、名にムーアが入っていて、孤児院にいた。当てはまる子は、一人しかいない。四年前、シルヴェーヌが孤児院長へ告げたのは、その子の名前だけだった。
名前は、そのままだったのだ。孤児院で変えられることもなく、あの子は大司教の前で、それを手放さなかった。
そして、生きていた。
付けた人の願い、とあの子は言ったという。その願いの込もった名前一つだけを持たせて、シルヴェーヌはあの子を孤児院へ置いてきた。
どれも、人の口から聞いた話だった。自分の目で見たものは、一つも無い。
それから幾日か、シルヴェーヌは迷った。噂を拾っていくと、あの子は毎日、門灯の点る前に魔境側の大門から戻ってくるらしかった。行って何をするのかは、自分でも分からない。声を掛けるつもりは無かった。掛けられる立場でもなかった。
ある日の昼過ぎ、シルヴェーヌは教会の戸に鍵を掛けて、壁沿いの乗り場から大門のほうへ向かう乗合馬車に乗った。
▽ ▽ ▽
三日目も、シルヴェーヌは区画の壁の際に立っていた。
大門の内側の乗り場から、少し離れたところだった。両手は長衣の前で重ねていた。街には、あの子が通ると胸の前で印を切る人もいるという。シルヴェーヌは切らなかった。切れば、あの子へ向けて切ったことになる。
二日目に、あの子は一度だけこちらへ顔を向けた。目が合う前に、その顔は前へ戻った。気づかれたのかもしれない。それでも今日も、昼過ぎには馬車に乗っていた。
あの子が大門をくぐる刻限は、二日ともほとんど同じだった。今日は、その刻限を過ぎても白い髪が見えない。
森から戻る冒険者の組が、次々に大門をくぐってきた。荷を担いだ者、笑い合う者、片足を引きずる者がいる。どれも大人ばかりだった。乗合馬車が標柱の脇に着いては、人を乗せて出ていく。帰りに乗るはずの便を、シルヴェーヌは一台ずつ見送った。
森で、何かあったのではないか。
四つの子供が、毎日一人で魔境の森へ入っているのだという。噂の中のあの子は、どんな獣も退けていた。それでも、噂は噂だ。日が暮れても戻らない子供を置いて帰る気には、どうしてもなれなかった。
日が大門の向こうへ落ちきって、門灯が点った。
白い髪が明かりの中へ入ってきたのは、それからいくらも経たないうちだった。
剣を背負い、肩に採集袋を担いでいる。門の脇の詰所の窓へ一度顔を向けてから、あの子は大通りの端を歩き出した。
胸の奥で固く結んでいたものが、ほどけた。
無事だった。そう思ってすぐに、シルヴェーヌは重ねた手に力を込めた。
無事を喜ぶ資格が、自分のどこにあるのか。あの子を孤児院へ置いてきたのは、自分だ。それきり、一度も様子を見に行かなかった。案じるのなら、四年前に案じるべきだった。
大通りの端を来るあの子との隔たりが、少しずつ縮まっていく。いちばん近いところを過ぎていくとき、ようやく背丈が見て取れた。
小さかった。四つになるはずの子供の頭が、大人の腰にも届いていない。剣と採集袋を担いでいるせいで、なおさら小さく見えた。孤児院でどう過ごせば、あの背丈になるのか。シルヴェーヌは知らなかった。知ろうとしてこなかった。
あの子は歩みを緩めずに、前を向いたまま過ぎていった。こちらへ顔を向けることは、一度もなかった。
区画の門のほうへ遠ざかる背中を見送ってから、シルヴェーヌは壁の際を離れた。標柱の脇には、北回りの乗合馬車が一台、まだ停まっていた。
乗り込むと、御者が御者台から振り返った。
「神官様、今日はずいぶん遅くまででしたね」
「ええ……人を、待っていたものですから」
「会えましたか」
「そう、ですね。見ることは、できましたので」
御者はそれ以上聞かずに、馬へ声を掛けた。馬車は大通りを少し進んでから外周壁に沿った通りへ折れ、北へ向かった。
窓の外で、門灯の明かりが見えなくなった。シルヴェーヌは長衣の膝の上で、両手を重ね直した。
あの子は最後まで、こちらを見なかった。それで良かったのだと、シルヴェーヌは思った。
▽ ▽ ▽
教会へ帰り着いたときには、すっかり夜になっていた。
鍵を開け、長椅子の並ぶ礼拝堂を抜けて、祭壇の脇の戸から奥の部屋へ入る。机の灯りを点けると、端に置いた便りが目に入った。
師からの便りだった。修道院の下働きの者が、月に一度ほど、畑の物と一緒に届けてくる。師のイレーネは、ここから畑の道を少し行った先の修道院にいた。大司教の咎めを受けて、表向きは静養ということで、そこに留め置かれている身だった。
便りには、修道院の畑のことと、原典の一節について師の考えたことが書いてある。終わりは、いつも同じ問いだった。あの子は、どうしているか。便りが重なるにつれて、その一行の字にだけ、震えが混じるようになっていた。
シルヴェーヌは便りの隣に新しい便箋を広げ、ペンを取った。師への挨拶と、教会のことは書ける。書けないのは、終わりの問いへの返事だけだった。
ペン先が、紙の上で止まった。
四年前の朝、シルヴェーヌは師に呼ばれて、修道院の戸口に立った。
師は、布にくるんだ赤子を抱いていた。何も説明しないまま、その子をシルヴェーヌの腕へ渡した。生まれて間もない赤子は驚くほど軽く、布の端から白い髪が覗いていた。
寝顔を見下ろして、シルヴェーヌは動けなくなった。見覚えのある面差しだった。誰に似ているのかに思い当たりかけて、そこで考えるのをやめた。師は、誰の子とも言わなかった。シルヴェーヌも、何も聞かなかった。
師は手を伸ばし、赤子の額に一度だけ掌を当てた。それから、シルヴェーヌの目を見た。
「リナムーアだよ」
師が口にしたのは、名前だけだった。
その少し前に、師は大司教の咎めを受けていた。聖職者のあいだでは、名の件もあってのことだと噂されていた。白い髪の子の名に、創造神の名を入れるよう勧めたのは師だ、と。その名を持つ赤子が、いま自分の腕の中にいる。大司教の目がこちらへ向けば、次は自分の番だった。
だから、いくらも経たないうちに孤児院へ連れていった。孤児院長には何も話さず、師から受け取った名前だけを告げて渡した。それから、大司教へ報せを書いた。あの子は死んだ、と。どこで死んだのかは、書かなかった。
大司教は、それで片が付いたと見たようだった。シルヴェーヌは咎めを免れ、位も一つ上がった。与えられたのが、聖堂からも孤児院からも遠い、この北の外れの教会だった。
死んだことにすれば、大司教はあの名を追わない。あの子は孤児院で、ただの孤児として育っていく。あの子を大司教から遠ざけるためでもあったのだと、シルヴェーヌはずっと思おうとしてきた。
(仕方がなかった)
師へは、別の嘘を書いてきた。
師は、託した赤子が元気に育っていると信じている。そう信じさせたのは、自分の便りだ。確かめもしないまま、書き続けてきた。書くときはいつも、人から聞いた話の形にした。そうすれば、嘘を言ったのは自分ではないような気がした。
修道院までは、畑の道を歩いてもいくらも掛からない。会いに行くことを禁じられてもいない。それでも一度も、その戸を叩かなかった。師の前に立てば、その目に見られながら言い切らなければならない。便りなら、顔を見せずに済んだ。
近くにいる師には会いに行かず、遠い大門へは三日続けて通った。
今なら、書けることがある。白い髪の子供が、自分の足で大門をくぐって歩いていた。それを、この目で見た。
だが、見たと書けば、どこで見たのかを書かなければならない。孤児院を出されたことも、魔境の森へ入っていることも、聖堂で大司教の前に立たされたことも、書かずには済まなくなる。
止まっていたペン先が、また動いた。
「あの子は元気に過ごしていると、聞いております」
書き上がった一文は、これまでの便りと少しも変わらなかった。
シルヴェーヌはペンを置き、便箋を二つに折って、師の便りの上へ重ねた。
▽ ▽ ▽
翌朝の祈りにも、信徒は何人か来た。
最後の一人が石段を下りていくと、入れ違いに若い男が上がってきた。白い長衣の襟に、聖堂の紋が小さく縫い取ってある。聖堂の侍祭だった。
「シルヴェーヌ様で、いらっしゃいますか」
「ええ……そうですが」
「大司教様より、これをお預かりしてまいりました」
侍祭が差し出したのは、二つに折った書き付けだった。合わせ目に、大司教の指輪の印が押してある。
印を確かめてから開くと、三日後の午後に聖堂へ参るように、とだけあった。用向きは、どこにも書かれていない。
「お返事は要らぬ、とのことでした」
「ええ……承りました」
侍祭は一礼して、石段を下りていった。
用向きが無くても、思い当たることは一つしかなかった。洗礼式の広間で、大司教はあの子を自分の目で見ている。死んだと書いたのは、自分だ。大門の乗り場に三日立っていたことまで聖堂に知られたのかどうかは、分からなかった。
書き付けを畳み直して、長衣の袖へ入れた。
戸口の脇に立て掛けてあった箒を取り、石段を上から一段ずつ掃いていく。信徒たちの靴が運んできた土が、段の端へ寄っていった。
壁沿いの通りを、乗合馬車がやってきた。乗り場で人を乗せ、大門のほうへ遠ざかっていく。三日のあいだ、昼過ぎに乗っていたのと同じ向きの便だった。
車輪の音が遠くなるまで、シルヴェーヌは石段から顔を上げなかった。




