第48話 試し(ためし)
魔境側の大門をくぐって大通りへ出ると、日はもう低く傾いていた。
大門の内側は、城へ向かう大通りの始まりになっている。真ん中を荷車が、両脇を人が行き交い、門から少し入ったところに乗合馬車の乗り場がある。標柱の脇では、何人かが馬車を待っていた。
リナムーアは歩きながら、『空識』の下絵を読んだ。
帰りのこのあたりだけは、気をつけて読むようにしている。前に、帰り道の通りの角で待たれていたことがあった。毎日だいたい同じ頃に戻るのだから、待つつもりの者には、どこで待てばよいかが分かる。
下絵には、人の影がいくつも乗っていた。荷車を押す影、乗合馬車へ急ぐ影、大門の外へ出ていく影。どれも動いていて、川の水のように一方へ流れては入れ替わっていく。
その中に、一つだけ流れない影があった。
標柱から少し離れた、区画の壁の際だった。立ったまま、足の位置が変わらない。乗合馬車を待つ人なら、馬車の来るほうへ体を向けるはずだった。その影は、大門のほうを向いていた。
大通りの端を進むと、影の向きが、こちらの歩みに合わせてわずかに回った。
振り向けば、見ていることを相手に知らせることになる。リナムーアは前を向いたまま、区画の門のほうへ歩いた。影との隔たりは、いちばん近いところで三十メートルほどだった。
区画の門に差しかかる手前で、影は壁の際を離れた。標柱の脇へ戻り、馬車を待つ人の中へ紛れていく。
(……待っていた、のか)
たまたま足を止めていただけかもしれない。一度だけでは、どちらとも決められなかった。
▽ ▽ ▽
翌日も、同じ頃に大門をくぐった。
下絵を読むと、同じ影があった。標柱から少し離れた区画の壁の際で、足の位置を変えずに大門のほうを向いている。リナムーアが大通りへ出ると、向きだけがこちらへ回った。
一度なら、たまたまということもある。だが、同じ頃に同じ場所で、同じ向きに二日続けて立っているのなら、それは待っているのだ。
リナムーアは歩きながら、一度だけ顔をそちらへ向けた。
傾いた日が、大通りの石畳を斜めに照らしていた。壁の際に、女が一人立っている。灰色の長衣に、白の肩掛け。栗色の髪を、肩の上で切り揃えている。背はサリナより少し高いくらいで、長衣の上からでも線の細さが分かった。
十日あまり前の聖堂で、似た形の服を何人も見ている。神官服だった。
女は近づいてこなかった。街で振り返る人たちの中には、胸の前で印を切りかけて手を止める人もいる。この女の両手は、長衣の前で重ねられたまま動かなかった。
目が合う前に、リナムーアは顔を前へ戻した。
(……聖堂の人か)
大司教に名を変えろと言われたのも、その聖堂でのことだった。そこまで思って、考えを先へ進めるのはやめた。分かっていることが、まだ少なすぎる。
区画の門へ向かうと、女は壁の際を離れて標柱の脇へ戻っていった。
背中のほうで、詰所の窓の開く音がした。
「おい。あの神官服の、昨日もあそこに立ってたな」
振り返ると、若い門兵が窓から標柱のほうへ顎を振っていた。
「門の外へは出ない。お前が通ると、帰っていく」
「……はい。昨日も、いました」
「そうか」
門兵はそれだけ言って、窓を閉めた。
区画の門をくぐり、支部へ戻る道で、リナムーアは門兵の言葉を考えた。
自分が通ると、帰っていく。それなら、女は刻限に合わせて立っているのか、自分に合わせて立っているのか。いつもの刻限に立っているだけなら、刻限を過ぎれば帰るはずだった。誰の目にも分かる区切りを越えても立っていれば、待っているのは自分だと言い切れる。
その区切りは、門灯だ。
門灯までには戻ると約束している。越えるのなら、先に言っておけば済む。
支部のホールは、森から戻った冒険者で混み合っていた。
納品窓口でミド草を判別機へ流し終えると、ミオが台帳に預け入れを書き入れた。リナムーアは、書き終えるのを待ってから言った。
「明日の納品は、門灯のあとになります」
ミオはペンを置いて、顔を上げた。
「はい。窓口は開けておきますので、いつでもどうぞ」
ミオはそれだけ言って、台帳へ目を戻した。
ホールの正面奥の受付の机では、サリナが依頼票の束をめくっていた。リナムーアが机の前に立つと、サリナは束を置いた。
「明日は、門灯を過ぎてから戻ります。大門の外で、少し待ちます」
サリナは、すぐには答えなかった。リナムーアの顔をしばらく見てから、机の上で指を一度組み直した。
「分かったわ」
サリナは、わけを聞かなかった。
「待つのが済んだら、まっすぐ戻ってきてね」
「はい」
リナムーアは頭を下げて、受付の机を離れた。
▽ ▽ ▽
三日目の朝、出がけの記帳のときに、門兵へ伝えてあった。今日は門灯を過ぎてから戻る。大門の外で、少し待つ。門兵は顔を上げて一度こちらを見たが、「そうか」と言っただけで、何も聞かなかった。
森の仕事は、いつもどおりに済ませた。いつもの頃に草原を戻り、大門の外まで来たところで、リナムーアは門をくぐらずに外周壁の根元へ寄った。
下絵の縁の内側に、壁の向こうの大通りが入っている。標柱から少し離れた区画の壁の際に、動かない影が一つあった。今日も、大門のほうを向いている。
草原の道からは、戻ってくる組が次々に大門へ入っていった。担いだ荷の重さに肩を落とす者もいれば、笑い合う者もいる。壁の根元に立つ子供へ目を向ける者はいたが、足を止める者はいなかった。
いつもの刻限が過ぎた。
壁の際の影は動かなかった。標柱の脇に乗合馬車が着き、人を乗せて出ていく。それでも、影はその場を離れない。
日が草原の向こうへ落ちきって、門の上の門灯が点った。
下絵の上の影は、まだ大門のほうを向いて立っていた。
これで、決まった。あの女が待っているのは刻限ではなく、自分だ。
どうするかは、待つあいだに考えてあった。
近づいて聞けば、こちらが気づいていることを相手に知らせることになる。聞いたところで、本当のことが返ってくるとは限らない。
人へは『冥識』を向けないと決めていた。自分が一番されたくないことを、人にする道具だからだ。その決めを、聖堂で一度破っている。あのときは、向けずにいられなかっただけだった。
今度は違う。
相手は、自分が毎日いつ戻るかを知っている。そのうえで、門灯を過ぎても待っている。何を知っていて、何のためにそこへ立っているのかが分からないまま、明日もこの門をくぐることになる。
リナムーアは壁の根元を離れて、大門をくぐった。
詰所の窓は開いていた。門兵が帳面から目を上げ、大通りのほうへ顎を振った。
「まだいるぞ」
「はい」
大通りの端を歩き出すと、壁の際の影が、こちらへ向き直った。
(……二度目だ)
リナムーアは、その影へ『冥識』を向けた。
女から自分へ、冥線が一本返ってきた。
太かった。聖堂でヘルマンから返った冥線は、髪と目と名の分だけの細いものだった。これは違う。この女は、自分に深く関わっている。
関わりの中身は、一つだった。
赤子だった自分を、孤児院長の手へ渡したのは、この女だ。
リナムーアは歩みを変えなかった。孤児院長は、ヘルマンだ。聖堂でヘルマンの影から先へ延びていた、あの少し太い冥線を思い出した。辿った先は北で、下絵の縁で見えなくなっていた。
(……この人だったのか)
あの冥線は、この女へ延びていたのだ。
女の影からも、もう一本、冥線が先へ延びていた。
女自身のものより、さらに太い。辿ると、外周壁に沿うように北へ延びていき、下絵の縁まで来たところで見えなくなった。誰へ延びているのかは、返ってこなかった。先の相手は、下絵の外にいる。
(……この人の先にも、まだ続いている)
なぜ女がここに立っているのかも、返ってこなかった。
代わりに、何かが胸の奥に触れた。
北へ延びる冥線の、見えなくなった先のほうから、細く届いたものだった。言葉ではない。形でも、方角でもない。『冥識』がこれまで返してきたのは、自分との関わりと、その出どころだった。そのどちらでもないものが、確かにあった。何なのかを確かめようとしたときには、もう残っていなかった。
頭の芯が、重くなった。
リナムーアは顔色を変えずに、区画の門のほうへ歩いた。壁の際の影が離れていく。標柱の脇へ戻り、止まっていた乗合馬車の中へ消えた。
馬車が動き出した。大通りを城のほうへは向かわず、外周壁に沿った通りへ折れて、北へ進んでいく。女の影を乗せた馬車が、下絵の上を遠ざかった。
リナムーアは振り返らなかった。影が下絵の縁を越えて消えるまで、歩く速さも変えなかった。
▽ ▽ ▽
その夜も、訓練場の四隅の柱に灯りが入った。
短い木剣を背の黒革へ落とし込み、留め金を三つ閉じる。向かいに立ったサリナは、自分の木剣を下げたまま言った。
「いくわよ」
踵が浮いてからも、サリナから目を離さなかった。入ってくるのは見えている。背から抜いた刃が下りきらないうちに、サリナの木剣が二の腕へ触れていた。背に納めたまま待つ形は、今夜も一度も間に合わなかった。
「今夜はここまでにしましょう」
「はい。ありがとうございました」
門灯を過ぎて戻ったことについて、サリナは何も言わなかった。大門の外で何を待っていたのかも、聞かなかった。リナムーアも、話さなかった。
部屋へ戻って、寝台の端に腰を下ろした。
自分を孤児院へ渡した人が、三日続けて大門の内側に立っていた。それが分かっても、近づいてこない理由は分からない。孤児院にいたあいだ一度も顔を見せなかった人が、なぜいまになって来たのかも分からなかった。冥線が返したのは、昔のことだけだった。
確かめておくことが一つある。
浅層で探し続けたコボルトに向けたときは、冥線が残った。こちらから向けなくても、下絵の外にいても、方角と隔たりが手前へ寄ってきた。倒したあの日に切れるまで、ずっとそうだった。
ヘルマンへ向けた冥線は、聖堂を出てから一度も寄ってきていない。あれは細かった。今日の女のものは、比べものにならないほど太い。関わりがこれほど深ければ、一度向けただけでも残るのかもしれなかった。
夕方の女は、もう下絵の外にいる。北へ向かう乗合馬車に乗って、外周壁に沿った通りを進んでいったはずだった。
冥線のほうへ、意識を回してみた。
何も寄ってこなかった。どの方角からも、冥線は返らない。
(……残って、いない)
太さでは、残らないのだ。探し続けた相手でなければ、残らないのだろう。
それでも、夕方に胸の奥へ触れたものは、まだそこにあった。
『冥識』を向けた日の夜は、頭に重さが残る。そのせいだと思おうとした。だが重さは頭にあって、これは別の場所にある。胸の奥の、どこと言えないところが、北のほうへ細く引かれていた。冥線は残っていないのに、向きだけが分かる。
北は、まだ一度も足を向けたことの無いほうだった。
確かめようとしても、何も返ってこない。リナムーアは手を伸ばして、卓の上の灯りを落とした。
部屋が暗くなった。目を開けていても閉じていても変わらない暗さの中で、胸の奥の引かれる向きだけが、少しも動かずに北を指していた。




