第46話 振り出し(ふりだし)
階段を下りるあいだ、背の剣が一段ごとに肩甲骨のあいだで小さく揺れた。昨日は、この重さを部屋に置いていった。聖堂の行き帰りは、肩の後ろがずっと頼りなかった。今朝は、背に戻った重さでそこが落ち着いた。
窓口の台の内側では、ミオが台帳を開いていた。表の窓はまだ暗く、日の出には少し間がある。リナムーアが区域の書き付けを台へ置くと、ミオはそれを受け取ってから、目をリナムーアの肩に掛かった採集袋へ移した。
「採集袋の口の紐が、一本ほつれています。帰りに替えましょう」
「はい。お願いします」
受付の机では、サリナが受付の帳面をめくっていた。顔を上げて、いつもの朝と同じ声で言った。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
聖堂のことは、二人のどちらの口からも出なかった。ミオが口にしたのは、採集袋の紐のことだけだった。サリナも、昨日は広間にいたのに、いつもの挨拶をしただけだった。何も聞かれないまま表の扉へ向かえることが、いつもの朝に戻ったということだった。
表の扉を出て、石畳の通りを歩きだした。
角の店先では、女が戸板を外していた。リナムーアに気づくと、揃えた二本の指を胸の前で上から下へ、それから横へ動かした。
印を切ったのは、その一人だけだった。代わりに、振り返る顔があった。
荷車を押していた男が、すれ違ってから首だけをこちらへ回した。戸口を掃いていた女が二人、話をやめて目だけでリナムーアを追った。次の角を折れると、店の奥から出てきた若い男が、戸口に立ったまま動かなくなった。前から向けられる目は、背の柄頭には留まらなかった。髪でもない。顔のところで止まっていた。
二つ目の角の手前で、老人が一人、胸の前へ右手を上げた。
揃えた指が上から下へ動きかけて、途中で止まった。老人はその手を胸の前に置いたまま、リナムーアの顔を見ていた。やがて指を解き、口の中で何か言いながら腕を下ろした。
この通りでは、ここしばらく印を切る手を数えてきた。それが今朝は、角を一つ折れるたびに、振り返る顔のほうが増えていった。
(……数えるなら、こっちか)
何が変わったのかは、分からなかった。昨日の広間に、三つの子供を連れた家族が大勢いたことは知っている。分かるのは、そこまでだった。
魔境側の大門をくぐって草原へ出ると、振り返る顔はどこにも無くなった。
▽ ▽ ▽
浅層から戻る外縁部の木立に、日が斜めに差していた。採集袋は、もう一杯になっている。門灯までには、まだ間があった。
根の浮いた倒木が、行く手に見えてきた。
回り込んだ先に、苔をかぶった岩がある。あの日、はぐれのグレイヴォルフが倒れたところだった。死骸はもう運び出されていて、運びに入った大人たちの踏み跡も見当たらない。下草は一晩ごとにそっくり入れ替わる。岩の根元に茂っているのも、あの日とは別の草だった。
『空識』の下絵に、四つ足の影は乗っていなかった。リナムーアは足を止めずに、あの日のことを初めから並べ直した。
撃ち続けたのは、間違っていなかった。獣が寄ってくるたびに、それが本気なのか見せかけなのかを、下絵は返さない。撃たずに見送ったのが本気の一度なら、そこで終わっていた。
ただ、弾では止まらなかった。額に当てた一発は、平たく寝た額の上を滑っていった。脇腹へ入れた一発は、獣を怯ませただけだった。持って出る弾を増やしても、尽きるまでの時が延びるだけで、止められないことは変わらない。
残るのは、剣だった。
抜くところまでは、稽古のとおりに出た。合わなかったのは、その先だった。獣が跳んだとき、振り出しが早かった。刃が下りた先に首はまだ来ておらず、切り返したときには、獣はもう内側にいた。
毎晩の訓練場で、踏み込むのはいつも自分のほうだった。サリナとのあいだの間合いを、どう越えるか。確かめてきたのは、こちらから詰めていく足だった。向こうから入ってくる相手に合わせて振ったことは、一度も無かった。
(弾のほうをいじっても、仕方がない)
変えるなら、剣のほうだった。
それに、あの日に抜いて待てたのは、弾が尽きてから獣が寄ってくるまでに、間があったからだ。獣は初め、下絵の縁からゴブリンのところまで一息に寄ってきた。あの速さでいきなり入られれば、剣は背に納めたままになる。確かめるなら、抜いて待つ形と、納めたまま入られる形の両方だった。
それなら、毎晩の打ち合いの役を入れ替えてもらえばいい。今夜は、サリナのほうから入ってきてもらおう。
倒木と岩が、背のほうへ遠ざかっていった。木立の先に草原の明るさが見えはじめるまで、下絵に四つ足の影は一度も乗らなかった。
▽ ▽ ▽
その夜も、訓練場の四隅の柱に灯りが入った。
サリナが武器掛けから木剣を二本取り、短いほうを渡してきた。リナムーアはそれを背の入れ物へ落とし込み、留め金を三つとも閉じた。
「いつでもいいわ」
「はい」
右手を肩越しに上げ、柄を握って前へ引く。留め金が続けて外れ、横へ抜けた木剣を振り下ろして、土の手前で止める。切り返して、同じ高さでもう一度止める。戻すときも、落とし込んで留め金を閉じるまでが一息だった。
ここまでは、毎晩変わらない。このあとは打ち合いで、リナムーアのほうから踏み込み、サリナがそれを叩く。剣を背負うようになってから、ずっとその形で続いてきた。
サリナが正面へ回った。打ち合いの声が掛かる前に、リナムーアは言った。
「サリナ。今夜は、サリナのほうから入ってきてください。わたしは待ちます。抜いて待つ形と、背に納めたまま待つ形の、両方です」
サリナの口が、開きかけたところで止まった。
稽古の中身をこちらから頼んだことは、これまで一度も無かった。何をどう確かめるかは、いつもサリナが決めてきた。
「……どうして」
「グレイヴォルフのとき、振るのが早すぎました。切り返したときには、もう内側にいました。あのときは、抜いてから待てました。次もそうだとは限りません」
サリナは少しのあいだ黙っていた。目が一度、足元の土へ落ちた。
「そう。合わなかったのね」
それ以上は、何も聞かれなかった。サリナは木剣を右手に持ち直し、大人の三歩ほど離れたところまで下がった。
「抜いたほうからにしましょう。構えて」
「はい」
「速さは、グレイヴォルフの跳びに寄せるわ」
リナムーアは木剣を抜き、両手で握って切っ先を前へ向けた。踏み込みはしない。待つ。
「いくわよ」
サリナが来た。
いつもの夜の速さではなかった。子供の相手をするときに絞っていた身体強化を、はっきり上げてある。間合いを詰めてくる速さは、あの日の獣とさほど変わらなかった。
下絵の狙いをサリナ一人へ絞ると、後ろの足の踵が土を離れるのが先に分かった。そこで振った。
刃が下りた先に、サリナはまだいなかった。空を切った木剣を切り返そうとしたときには、サリナの木剣が肩口の手前で止まっていた。
「もう一度」
「はい」
二度目も同じだった。三度目は振り出しを遅らせようとして、今度はサリナの足が土に着くまで手が出なかった。下りかけた刃より先に、サリナの木剣がまた肩口で止まった。
踵が浮くのは、動き出しの印だ。そこで振れば、振りはいつも早い。間を置いてみても、どれだけ置けばいいのかが分からなかった。置いた間は、長すぎるか短すぎるかのどちらかだった。
前世で、野球の中継を見ていたことがある。打者は、投手が投げるのを見てからバットを振る。球は見えているのだから、来たところへ振ればいい。見ているだけのときは、そう思えた。それでも打者は、よく空を切った。
サリナの踵が浮くのも、踏み込んでくる足も、全部見えている。見えていて、合わない。
「次は、納めて」
リナムーアは木剣を背へ落とし込み、留め金を閉じた。両手を体の脇へ下ろして立つ。
「いくわよ」
踵が浮いたところで、右手を肩越しに上げた。留め金が鳴り、抜けた木剣がそのまま斜めに下りていく。刃が下りきるより先に、サリナの木剣が肩口で止まっていた。
二度目は、振り出しを早めた。刃はサリナが入りきる前に下りきって、空を切った。切っ先を返すより先に、サリナの木剣が同じところで止まった。
抜いたまま待てば、振り出してから刃が下りきるまでは短い。背に納めたまま待つと、抜くぶんだけそれが長くなる。長い振りは、そのぶん手前で振り出さなければならない。サリナの入ってくる先が見えきらないうちに決めるのだから、遅れもすれば、早すぎて空を切りもした。
『顕識』の超制御は、出す力の割合を思いどおりに決めさせる。振りを止める位置も、狙いどおりに置ける。けれど、いつ振り出すかまでは決めてくれなかった。
「今夜はここまでにしましょう」
「はい。ありがとうございました」
▽ ▽ ▽
次の夜も、同じ稽古を頼んだ。サリナは、もう理由を聞かなかった。
その次の夜からは、サリナが受付の帳面を閉じて下りてくるまでのあいだ、一人で木剣を振った。抜いたまま構えて振り下ろすのと、背から抜いてそのまま振り下ろすのと、二通りだった。振り出してから刃が下りきるまでの長さを、一振りごとに体へ入れていった。
サリナが来れば、型を一度確かめてから、同じことを繰り返した。抜いて待つ形では、踵が浮いてから置く間を少しずつ変えてみた。合う間はどこかにあるはずなのに、細かすぎて刻めない。早すぎる一振りと遅れる一振りが、交互に続いた。納めたまま待つ形は、そのどちらにも外れた。サリナの木剣は、毎晩同じ肩口で止まった。
サリナの入り方は、一度も変わらなかった。同じところから、同じ長さの一歩で、同じ速さで入ってくる。
四晩目の夜も、初めの何度かは合わなかった。
構え直したとき、訓練場の隅の藁の人形が目に入った。初めてスリングショットを握った日、サリナはあれを木立の枝へ吊るして、横へ大きく振った。
動くものは、当てたい場所ではなく、そこへ来る場所を撃つ。あのとき、サリナはそう言った。弾でなら、ずっとそうしてきた。そして、来る場所は、来るまでを見ていなければ分からない。
踵が浮くのは、始まりの合図でしかなかった。合図を拾ったところで、目はもう間を数えるほうへ移っていた。
「いくわよ」
踵が浮いた。そこからも、リナムーアはサリナから目を離さなかった。前へ出てくる足の向きも、膝の高さも、下絵が拾い続けている。その足が土に着くとき、サリナの体はこちらの刃の届くところにある。そこへ刃が下りきるように、体に入れてきた振りの長さのぶんだけ手前で、振り出した。
乾いた音が、一つ鳴った。
下りてきた刃を、サリナの木剣が肩の高さで受けていた。この稽古で、木剣と木剣が当たったのは初めてだった。
サリナは一歩下がった。受けた木剣を、しばらく下ろさなかった。
「……もう一度」
サリナは同じところへ戻り、同じ長さの一歩で入ってきた。
二度目は、合わなかった。三度目も合わなかった。入ってくるサリナは、最後まで見えていた。それでも振り出しはわずかに早く、わずかに遅れた。見えていることと、そこへ振りを置くことは、まだ一つになっていなかった。
納めたまま待つ形も、二度確かめた。背から抜くぶん長い振りは、見えきる前に振り出さなければならない。一度は遅れ、一度は空を切った。
「今夜はここまでにしましょう」
「はい。ありがとうございました」
サリナは自分の木剣を武器掛けへ戻しに歩いていった。リナムーアは、サリナがいつも入りはじめるところへ目を落とした。
柱の灯りの下で、大人の靴の跡がいくつも重なっていた。今夜の踏み出しは、どれも同じ向きで、同じところに残っていた。




