第45話 名前(なまえ)
祭壇の前で、動くものが一つも無くなっていた。
判定の石の台座の前に、白い髪の子供が立っている。その脇で、痩せた司祭が大司教のほうへ向き直ったまま止まり、通路では孤児院長が、腰を折った姿勢のまま固まっていた。大司教は椅子の前に立ち、何も言わない。
前列の長椅子から、ユーフェミアはそれを見ていた。左手の中で、弟の手が汗ばんでいる。通路の両側では、胸の前へ上がった腕がまだいくつも下りずにいた。揃えた二本の指が上から下へ、それから横へ動く。城の中では見ることの無い手つきだった。
何に向けた印なのかは、ユーフェミアも知っている。けれど、あの小さな子供のどこにそれを向けるのかは、見ていても分からなかった。
「見ておけ」
隣で、父が言った。顔は前へ向けたままで、声はユーフェミアにしか届かないほど低かった。
「はい、お父様」
洗礼式が済んで立ちかけたところを、まだ座っていろと止められたのは、このためだったのだと思った。
大司教の目が、動いた。薄い茶の目は、まず前列へ来た。父のほうへ一度だけ向き、すぐに司祭のほうへ移った。
「ネストル。いま、何と言った」
「量れない、と申し上げました。判定の石が拾えないのであって、何も無いということではございません」
ネストルは頭を下げなかった。
大司教は長く息を吐き、広間へ向き直った。
「穢れとは、言わぬ」
通路の脇で、上がりかけていた腕が何本か宙で止まった。孤児院長が腰を折ったまま顔だけを上げ、大司教と子供とを見比べた。
「だが、量れぬままにしておくこともできぬ」
大司教の目が、子供の上で止まった。
ユーフェミアは、その目が一人の上で動かなくなるのを初めて見た。洗礼式の始まりに「始めよ」とだけ言った人だ。あのとき広間を渡っていった目は、どの列の上にも留まらず、父の上さえ素通りしていった。
「三つ、申し付ける」
大司教は右手を上げ、指を一本ずつ折っていった。
「七日ごとに、朝の祈りに参れ。迎えは聖堂から出す。付き添いは要らぬ」
「浄めを受けよ。私が、自ら行う」
「名を改めよ。その名から、ムーアを外せ。新しい名は、聖堂で授ける」
申し付けにしては言葉が多い、とユーフェミアは思った。迎えを出す。自ら行う。聖堂で授ける。どれも、問われる前に答えを置いていく言い方だった。三つ目を言い終えても、大司教は折った指を戻さなかった。
なぜなのかは、分からなかった。
握っていた手が、ユーフェミアの手を下へ引いた。
「……なまえ、かえるの?」
イグナティウスが、祭壇の前を見上げたまま言った。ユーフェミアは答えず、握った手に少し力を込めた。
子供は、大司教を見上げていた。三つを並べられるあいだ、目は一度も逸れなかった。言い終えられてからも、すぐには口を開かない。息を一つ吸うほどの間を置いて、それから話しはじめた。
「三つ、うかがいました。順にお答えします」
高く細い、子供の声だった。それでいて、広間の後ろの壁まで揺れずに届いた。
「一つ目です。わたしのいる場所は、冒険者ギルドの支部です。祈りは、言いつけられてするものではないと思います。祈りたいことができたら、そこから自分で参ります。いまは、ありません」
大司教は黙っていた。
「二つ目です。司祭様がおっしゃったのは、量れない、ということでした。大司教様も、穢れとは言わないとおっしゃいました。ですから、浄めは要りません」
前のほうの列で、誰かが小さく息をのんだ。
「三つ目です」
子供は、そこで一度だけ言葉を区切った。
「名前は、変えません。誰が付けてくれた名なのか、わたしは知りません。でも、付けた人は、こうあってほしいと願って付けたはずです。言われたから変える、ということはできません」
知らない、と子供は言った。顔も知らない誰かの願いを、手放さないと言っているのだった。
通路の向こうの長椅子で、白い上着の子を連れた母親が、胸の前に立てたままだった二本の指を解いた。空いたその手で、隣に座る子の肩を引き寄せた。
「ですから、どれも、お受けしません」
大司教の肩掛けの金糸が、高窓からの光の中でかすかに揺れた。
「名だけでよい」
低い声だった。
「ほかは問わぬ。名だけを改めよ」
三つのうち二つを、大司教は自分から手放していた。残したのは、名だけだった。
「名前は、変えません」
子供は、一度目と同じ言葉で返した。
ユーフェミアは、自分の喉が乾いていることに気付いた。
人の前で言葉に詰まるのを、ユーフェミアは何よりも恥じてきた。問われそうなことには、前もって答えを用意しておく。用意の無いことには、口を開かない。そうしてきたから、城の大人たちの前で言葉を探して立ち尽くしたことは一度も無かった。
あそこに立っていたのが自分なら、と考えた。一つ目には、何か返せただろう。二つ目で、大司教の申し付けを退ける言い方を探しはじめる。探しているうちに三つ目が来て、そこで何も言えなくなる。
あの子は、一度も詰まらなかった。三つを最後まで聞いてから、一つずつ返した。二度目に来た同じ言葉には、同じ言葉を置いた。
ユーフェミアの腰にも届かない子供だった。いま手を握っている弟よりも、まだ背が低い。
隣で、父が立ち上がった。
「大司教」
声は大きくなかった。それでも広間の奥まで通り、通路で上がっていた腕が残らず下りた。
「本人が断った。話は終わりだ」
大司教が父のほうへ顔を向けた。口元の深い皺が一度動いたが、言葉にはならなかった。
「教えに口を出すつもりはない。何を説こうと、それはそちらのことだ」
父は、祭壇の前の子供へ目をやった。
「だが、あの子がいた孤児院は、領の建物だ。領の建物から出た子の行く先に、聖堂の条件は付けさせん」
大司教は、しばらく父を見ていた。瞬きの少ない目だった。
「……閣下の、仰せのとおりに」
それだけを言って、大司教は背の高い椅子へ腰を下ろした。肘掛けに右手を置いたとき、指輪が木を一度、硬く打った。前列まではっきりと届く音だった。
父の目は、もう通路のほうへ移っていた。
「孤児院長」
「は、はい、閣下」
孤児院長が、折っていた腰をあわてて伸ばした。
「三年、この手で、と言ったな」
「さようでございます。手前どもとしましては、できる限りのことを……」
「支部が出した斡旋の届け出の写しを、城で預かっている。この子が支部へ届いたときの様子が書いてある。歩けず、重度の栄養失調、とあった」
孤児院長の口が、開いたまま閉じなくなった。
「その三年のことは、城で聞く」
孤児院長の頬から、見る間に血の気が引いていった。垂れた頬が灰色がかり、唇が何度か動いたが、声にはならなかった。
祭壇の脇では、ネストルが両手を体の前で組んで立っていた。大司教のほうへは、一度も顔を向けなかった。この先に何が来るにせよ、それを待っている人の静けさだった。
後ろの列から、女が一人、中央の通路を歩いてきた。淡い茶色の髪を頭の後ろの高いところで束ね、冒険者ギルドの制服を着ている。女は祭壇の前まで来て膝をつき、子供と目の高さを合わせた。
「帰りましょう、リナムーア」
「はい」
子供は女の手を取った。二人は向きを変え、中央の通路をこちらへ戻ってくる。前列の脇まで来たところで、子供は足を止め、立ったままの父を見上げた。
「辺境伯閣下。失礼します」
「ああ」
父の返事は、それだけだった。
子供がもう一度頭を下げ、ユーフェミアの前を通り過ぎようとした。
「……あなた」
声が出ていた。何を言うつもりなのか、自分でも決めていなかった。
「いくつ」
子供が足を止めて、ユーフェミアを見上げた。赤い目が、まっすぐこちらへ向いていた。
「四つです」
次の言葉が、どこにも無かった。ユーフェミアは唇を開き、そのまま閉じた。用意の無いことに口を開いたのは、これが初めてだった。
子供は、ユーフェミアが何も言わないのを待ってから、小さく頭を下げた。女に手を引かれて、大扉のほうへ遠ざかっていく。
袖が、くいと引かれた。
「……リナムーア」
イグナティウスが、小さくなっていく白い背を目で追っていた。
「ユーフェミア。行くぞ」
父の声で、ユーフェミアは自分がまだ座ったままでいることに気付いた。
「……はい、お父様」
立ち上がると、膝の裏が長椅子の縁に当たった。喉は、まだ乾いたままだった。
▽ ▽ ▽
夜の聖堂には、足音一つ残っていなかった。
奥の部屋で、マクシミリアンは机に向かって座っていた。儀式用の肩掛けは外して壁に掛け、白い長衣だけになっている。この聖堂を預かる大司教であり、ネストルも侍祭たちも、みなこの人の下にいる。六十四になる体は肉付きがよく、背を椅子のどこにも預けていなかった。
机の上には、明日のための書き付けが積んである。手を付ける気にはならなかった。肉の厚い顎の下で両手の指を組んだまま、広間でのことを初めから辿り直していた。
リナムーア、とネストルは読み上げた。
孤児院の子供の名を、マクシミリアンは聞かないことにしてきた。量り直しを願い出られたときも、名は聞かなかった。聞いていれば、あの名が広間で読み上げられることは無かった。
四年ほど前、この部屋で、イレーネという聖職者に処分を言い渡した。表向きは、病のための静養とした。子をイレーネの手から離すことも、そのときの条件に付けた。
あの赤子に創造神の名を、と親に勧めたのがイレーネであることも、マクシミリアンは知っていた。赤子がどういう生まれなのかを知っていたから、その名を捨て置けなかった。
赤子は、イレーネの弟子のシルヴェーヌに渡った。いくらも経たないうちに、そのシルヴェーヌから報せが来た。あの子は死んだ、とあった。マクシミリアンはそれを読み、この件は終わったと見た。
その子が、今日、判定の石の前に立っていた。
白い髪に創造神の名を持つ四つの子が、この領都に二人いるはずはない。
魔獣の首の噂をネストルから聞いたときは、量り違えられた孤児の話だとしか思わなかった。神が何も与えなかった子が、神から出たのではない力を振るっている。それなら、人の前で穢れと宣してしまえばいい。量り直しを許したのは、そのためだった。
名を聞いたとき、右手は止まった。それでも口は、決めてあったとおりに動いた。考えが追いついたのは、ネストルに遮られてからだった。
穢れと宣せば、あの子は聖堂の外へ追いやられる。追いやった先で何を知ろうと、もう手は届かない。それよりも名を外させ、七日ごとに目の前へ呼ぶほうがよかった。
どちらも、通らなかった。
名だけはと言い直しても、あの子は同じ言葉を返してきた。そのうえで、辺境伯に話は終わりだと言われた。今日の広間で、マクシミリアンの口から出たことは、何一つ形にならなかった。
組んでいた指を解いて、椅子を立った。
部屋の奥の壁に、作り付けの棚がある。その下段に、鉄の帯を巻いた小さな箱が置いてあった。普段の書き付けは机の引き出しに入れている。鍵が掛かるのは、この箱だけだった。
鍵は、長衣の内側に紐で下げてある。差し込んで回すと、錠は固く軋んでから外れた。前にこの錠を回したのは、イレーネの処分を上へ報せた夜だった。
蓋の下には、厚い便箋の束が収めてあった。普段の紙よりわずかに黄みを帯び、どの紙の縁にも、細い深紅の線が一本巡っている。束の脇に、深紅の封蝋の棒と、指輪とは別の印章が一つ。印章の面には聖堂の紋が彫られ、二重の輪がそれを囲んでいた。
この印の封を、領の中で解く者はいない。
便箋を一枚抜いて、机へ戻った。ペンを取る。
書いたのは、今日の広間で起きたことだった。死んだと報せのあった子が、生きていたこと。名は改められていないこと。今は領都の冒険者ギルドの支部に身を置いていること。判定の石が、今年もその子に何も示さなかったこと。辺境伯が広間にいて、子供の側に立ったこと。
報せを寄越した者の名に差し掛かったところで、ペンが止まった。
あの報せが偽りだったのか、取り違えだったのかは、まだ分からない。だが、どちらであっても、確かめずに死んだと上へ伝えたのは自分だ。その名を書けば、自分の手落ちを上へ見せることになる。あの女のことは、上へ上げる話ではなかった。マクシミリアンはシルヴェーヌの名を書かずに、先の行へ移った。最後に自分の名を記して、ペンを置いた。
便箋を三つに折った。引き出しから着火の魔道具を出し、封蝋の棒の先を小さな火にかざす。溶けた深紅が折り目の合わせへ落ちて丸く広がったところへ、印章を押し当てた。固まるまで、手は離さなかった。
印章を箱へ戻し、鍵を回した。手紙は、机の端へ置いた。送るのは、あの報せの出どころを確かめてからでいい。
壁の灯りを、一つずつ落としていった。最後の一つを残したとき、その光は机の端まで届いていた。深紅の封の上に、二重の輪の跡がくっきりと残っていた。




