第44話 洗礼式(せんれいしき)
区画の門を二つ抜けたところで、建物の並びの向こうに聖堂の屋根が見えてきた。
このあたりの建物はどれも灰白色の四角い石造りで、高さもおおよそ揃っている。その中で聖堂だけが、周りの倍ほどの高さまで屋根を持ち上げていた。支部と森を行き来する暮らしでは、見上げることの無い高さだった。
背中が軽かった。剣もスリングショットも、今朝は支部の部屋に置いてきている。
「聖堂へ刃物を提げて入る人はいないわ。置いていきましょう」
支度のときにサリナがそう言い、リナムーアは言われたとおりにした。分かっていても、歩くたびに肩の後ろが剣の重みを探した。
聖堂の前の広場は、人で埋まりかけていた。白い上着の小さな子供たちが、親に手を引かれて大扉へ入っていく。この一年のうちに三つになった子供たちだ。大扉の上の壁には、聖堂の紋が深く彫り込まれていた。
白い上着の流れの脇を、白いワンピースのリナムーアが歩いていった。
広場の何人かが、こちらに目を留めた。子の手を握っていないほうの腕が上がり、揃えて立てた二本の指が、胸の前を上から下へ、それから横へ動いた。一人の腕が下りないうちに、少し離れたところでもう一本の腕が上がった。
サリナは歩みを変えなかった。
大扉の内側は、奥へ長く延びる一つの広間だった。
左右の壁の高いところに、細長い窓が並んでいる。差し込む光は斜めに落ちて、床の上に細長い明るみをいくつも置いていた。中央の通路を挟んで、長椅子の列が奥まで続く。突き当たりの床は一段高くなっていて、祭壇が据えてあった。その脇に、背の高い椅子が一つ置かれている。
祭壇の手前の台座に、判定の石が載っていた。
大人が両腕を回してようやく抱えられるほどの、透き通った塊だった。底から細い銀の管が何本も出て、台座の中へ潜っていた。一年前は荷車に寝かされたまま光を浴びただけで、形を見ることはできなかった。
『空識』の下絵には、奥の壁までが余さず乗っていた。長椅子に腰掛けた人の影が、列ごとに詰まって並んでいる。
「後ろの席にしましょう」
サリナが言った。支部の受付の机にいるときと同じ声だった。
後ろから三列目の長椅子の端に、二人で腰を下ろした。座ると、リナムーアの靴の先は床から浮いた。
前のほうの列に、見覚えのある背中があった。くすんだ黒の上衣が、丸い肩に張りついている。孤児院長のヘルマンだった。こちらを振り返る様子は無かった。
祭壇の脇の戸から、聖職者が何人か出てきた。生成りの長衣に灰色の肩掛けを掛けた者が多い。その中の一人が、まっすぐ中央の通路を歩いてきた。額に横皺の三本入った、痩せた男だった。
ネストルは長椅子の端で足を止め、一拍置いてから口を開いた。
「来てくださって、ありがとうございます。一般の式が済みましたら、お呼びします。それまで、ここでお待ちください」
「はい」
リナムーアが答えると、ネストルはサリナとリナムーアに一度ずつ頭を下げ、祭壇のほうへ戻っていった。
前列の、祭壇にいちばん近い長椅子だけが空いていた。
広間のざわめきが引きかけた頃、祭壇の脇とは別の戸が開いて、三人が入ってきた。
先に立つのは、黒に近い濃い茶の上衣を着た男だった。襟を留め金で閉じ、黒い髪を短く刈っている。辺境伯だった。前に一度、言葉を交わしたことのある相手だった。
あとに続いたのは、背の高い娘だった。濃紺の外出着の襟元を銀の留め金で閉じ、長い黒髪を背でひとつに編んでいる。その手に、白い上着の小さな男の子が引かれていた。
三人が前列に座ると、広間のあちこちで背中がまっすぐになった。
最後に、祭壇の脇の背の高い椅子へ、一人が腰を下ろした。
白い長衣の上に、金糸で縁取った深紅の肩掛けを掛けている。顎の張った顔は、ほとんど表情を動かさなかった。右の中指で、指輪が高窓の光を返した。その目は広間をゆっくりと渡っていったが、どの列の上にも留まらなかった。
「始めよ」
大司教が言うと、広間の咳払いが途絶えた。
子供たちが親の手を離れ、中央の通路へ出て並びはじめた。前列の男の子も娘の手を放し、列の後ろのほうへ歩いていく。列は祭壇の前から延びて、後ろから三列目のそばまで来た。
長椅子の脇に立った子供の顔は、座っているリナムーアの顔とほとんど同じ高さにあった。立って並べば、リナムーアの目はその子の口元までしか届かないだろう。下絵で列を端から端まで読んでも、リナムーアより低い頭は一つも無かった。
(……並べると、よく分かる)
この一年で、体は一センチも伸びていない。知っていたことを、三つの子供たちの列が目に見える形にしただけだった。
隣で、サリナの目が列とリナムーアのあいだを一度行き来した。サリナは口を開かなかった。
列の後ろのほうで、白い上着の男の子が一人、こちらを振り返っていた。
前列から歩いていった子だった。丸い顔に赤い頬をして、額に癖のある柔らかい黒髪が掛かっている。口が半分開いていた。手は体の脇に下がったままで、胸の前へは上がってこない。
男の子は、リナムーアを見ていた。
髪を見て指を立てる目なら、広場でいくつも見た。すぐに逸らす目も、背の剣へ先に行く目も知っている。この子の目は、そのどれとも重ならなかった。どう違うのかを、リナムーアは言葉にしようとしなかった。
「……しろい」
男の子の口から、息のような声がこぼれた。
「イグナティウス。前を向きなさい」
前列の娘が振り返り、よく通る声で言った。叱る調子ではなかった。男の子は前へ向き直った。それでも列が一人ぶん進むたびに、肩越しにまたこちらを見た。
名を呼ばれた子供から、判定の石の前へ進んでいった。
ネストルが子供の肩に手を添えて、判定の石の前に立たせる。透き通った奥に、光が灯った。強い光もあれば、ほのかな光もある。ネストルはそれを読み取って名簿に書き付け、それから長椅子の親のもとまで歩いていって、身をかがめて何かを告げた。後ろの席までは、一言も届かなかった。
届かなくても、聞いた親の顔は見えた。子を抱き寄せて肩の力を抜く親がいた。子の頭に手を置いたまま、しばらく動かない親もいた。
一年前の儀式の間では、結果は孤児院長の大声で告げられた。部屋にいた誰の耳にも届く声だった。
「イグナティウス・アーヴェスト」
ネストルが名簿から読み上げた。男の子が判定の石の前に立つと、奥に光が灯った。ネストルは前列まで歩き、辺境伯のそばで身をかがめた。辺境伯は前を向いたまま、一度だけ頷いた。席へ戻った男の子は、娘の隣に座ってからも、また振り返った。
最後の子供が親のもとへ戻ると、ネストルは名簿を閉じた。
広間の空気がほどけた。親たちが子の上着の裾を直し、長椅子から腰を浮かせはじめる。前列の娘も、男の子の手を取って立ちかけた。
「ユーフェミア。まだ座っていろ」
辺境伯は前を向いたまま言った。大きな声ではなかったが、後ろの席まで届いた。
「……はい、お父様」
娘は座り直した。男の子の手は放さなかった。
ネストルが祭壇の前へ出た。
「これより、量り直しを行います。昨年、孤児院の式で量った子供を、もう一度量ります」
立ちかけていた者の多くが、腰を戻した。大扉から出ていったのは、ほんの数組だった。前の列から後ろへ、囁きが伝わってくる。狼の、首を、という切れ端が混じっていた。
ネストルが名簿を脇へ置き、別に抱えていた帳面を開いた。
「リナムーア」
名だけが呼ばれた。
一年前の儀式の間では、この名には不遜だという言葉が付いてきた。今日は、名のあとに何も付いてこなかった。
リナムーアの目は、祭壇の前のネストルにあった。同じとき、下絵の中で、背の高い椅子に座る影が、動きを止めた。肘掛けの上にあった右手が、指を浮かせたまま止まっている。
「……リナムーア」
静まった広間に、前列から幼い声が上がった。娘が、男の子の手を軽く引いた。
「私は、ここにいるから」
サリナが言った。リナムーアは長椅子から滑り降りた。
中央の通路を、祭壇へ向かって歩いた。両側の長椅子で、腕がいくつも上がった。前の列へ近づくほど、印を切る腕は隠そうとしなくなった。
台座の前に立つと、判定の石はリナムーアの頭よりずっと高いところにあった。見上げても、透き通った塊の底が見えるだけだった。骨の目立つ長い指が、肩に載った。ネストルの手だった。
判定の石は、光らなかった。
奥がわずかに曇ったまま、何も浮かばない。魔力の量も、タレントの名も出てこなかった。自分の魔力が、あるかどうかも分からないほど少ないことは知っている。判定の石がそれを拾えないことも、一年前に知った。だから、驚きはしなかった。
「……判定の石は、魔力の量を示しません」
ネストルの声が、広間の奥まで通った。
背の高い椅子から、大司教が立ち上がった。
「示さぬか」
低い声だった。広間の顔が、一斉にそちらへ向いた。
「聞け。昨年も、今年も、判定の石はこの子に何も示さなかった。神が何一つ与えなかった子が、魔獣の首を落としたという。神から出たものでない力を——」
「大司教様のおっしゃるとおりでございます」
前のほうの列から、ヘルマンが通路へ出てきていた。突き出た腹を折るようにして、大司教へ深く頭を下げる。
「あの子のことは、私が一番よく知っております。三年、この手で……」
この手で、と言った。
何も口に入らない日を決めていたのは、この男だった。一年前の儀式の間で、怒りは頭の中で煮え立つだけで、指一本も動かせなかった。その男が判定の石の前に立ち、広間じゅうに聞こえる声で、一番よく知っていると言っている。
(……なら、見せてもらう)
下絵に乗ったヘルマンの影へ、『冥識』を向けた。
体はどこも動かなかった。顔にも、何も出なかった。
この男と自分とのあいだにあるものが、冥線になって返ってきた。
細かった。三年のあいだ同じ建物の中にいた相手のものとは思えないほど、頼りない冥線だった。この男が関わってきたのは、白い髪と赤い目と、ムーアの入った名だけだ。その奥にあるものには、どこにも触れていなかった。
何も知らないのだ、と分かった。分かったところで、こみ上げていたものには、ぶつける先が無かった。
ヘルマンの影から、もう一本、冥線が先へ延びていた。
こちらは少し太かった。ヘルマンのものではない。群れのコボルトから、こちらを知った元の一体へ冥線が遡ったときと同じだった。辿ると、その先は聖堂の壁を抜けて、壁内の北へ延びていく。下絵の縁まで来たところで、冥線は見えなくなった。
(……どこへ繋がっている?)
答えは、返ってこなかった。胸の中にあった憤りは、いつの間にか薄れていた。
頭の芯が、一段重くなった。
「——穢れと」
大司教の声が、続きを言いかけた。
「大司教様」
ネストルだった。間を置かずに出た声だった。
「量れない、のです。無い、のではありません」
ネストルは大司教のほうへ向き直った。頭は下げなかった。痩せた肩が前へ落ちたまま、そこから動かない。
一年前の儀式の間で、この人は判定の石へ手を伸ばしかけ、孤児院長の大声にその手を止められた。そして、止められたまま式を通した。その人がいま、自分より上の者の言葉を遮っている。
市場の脇の通りで、この人はやり直す理由を言わなかった。理由は、あのとき確かめずに通した、この人自身にあったのだ。
ヘルマンは頭を下げた姿勢のまま、口を半ば開けて固まっていた。大司教は立ったまま、何も言わなかった。肘掛けを離れた右手が、体の脇で止まっている。
高窓からの光が、指輪の上をゆっくりと移っていった。
広間のどこからも、長椅子の軋む音一つ聞こえなかった。




