第43話 一任(いちにん)
戸が閉まり、小さな足音が階段を下りていった。
サリナは窓の脇に立ったまま、その音が途切れるのを聞いていた。オグマは机の端へ寄せた書類に手を戻さず、組んだ指もほどかなかった。
「二人で待っていた、と言っていましたね。あの子が帰る頃に合わせて」
「言ったな」
「魔境側の大門の、詰所の帳面を見せてもらったわけではないと思います。あの子は毎日、だいたい同じ頃に同じ通りを帰ってきます。角に立っていれば、いずれ会えます」
誰かが漏らしたのではない。見ていれば分かることだった。そこまで考えて、サリナの頭に窓口の台の脇が浮かんだ。
あの子は毎朝、その日に入る区域と入らない区域を紙に書いて置いていく。ミオが端に日付を書き入れて、台の脇に積む。台の脇は、台の外に立つ者の手が届く場所だった。
「帰る頃は、見ていれば分かります。でも、どこへ入るかは見ていても分かりません。それが分かるのは、区域の書き付けだけです。……積んである場所は、台の外からでも手が届きます。今日まで、気にしたこともありませんでした」
オグマは少し考えてから、首を横に振った。
「書かせるのは、やめん。あの子が戻らなかった日に、どこから捜しに入ればいいかが分かるのは、あの紙だけだ。やめれば、こちらの打てる手が一つ減る」
「はい」
「置き場所を変えればいい。受け取ったら、すぐ台の内側の引き出しへ入れさせろ。外から見える所に積まなければ、それで足りる」
オグマは組んでいた指をほどき、両手を机の上に置いた。
「それで、行けばどうなる」
サリナは、さっきから頭の中で並べていたことを口にした。
「もう一度、量られます。判定の石は、一年前と同じで何も示さないでしょう。グレイヴォルフの首の話は、もう市場に出ています。タレントも無いと言われた子が、首を落とした。そこへもう一度、何も出なかったとなれば」
「神から出た力ではない、という話になるな」
「はい」
「行かなければ」
「穢れが神の前を避けた、と言われるでしょう」
オグマはしばらく黙っていた。
「司祭のほうは、何を考えている。やり直したいと言っただけで、理由は言わなかったそうだが」
「分かりません。孤児院長が寄進の話をしかけたのを、遮ったそうです。聖堂の中も、一枚岩ではないのかもしれません。でも、それが味方だという意味にはなりません」
オグマは短く息を吐いた。
「隠す手は、もう無い。首の話は、こちらが何かする前に通りへ出た。行かせずに支部へ閉じ込めておけば、今度は支部が穢れを匿っている、という話になる。……残っているのは、どう見せるかだけだ」
どう見せるか、とサリナは胸の中で繰り返した。
一年前、あの子は荷車で運ばれてきた。受付の机で孤児院長と手数料の話をしながら、サリナは荷台の上の子供を見ていた。骨の形が分かるほど痩せて、自分で起き上がることもできずにいた。あの姿になるまでには、一日や二日では足りない。
サリナはその場で斡旋の届け出を書いた。受け入れた者の様子を書く欄には、見たとおりを書き入れた。孤児院長はその紙に署名して、帰っていった。
「ギルド長。斡旋の届け出を、覚えていらっしゃいますか」
「本部へ出したものだな。監査員が読み上げていた」
「様子の欄を書いたのは、私です。歩けない。重度の栄養失調。同じものが本部にも出ていて、ここにも控えがあります。孤児院長の署名が入ったものが」
オグマの目が、サリナの顔の上で止まった。
「孤児院の建物は、領のものです。子供を預かる分のお金も、寄付とは別に領から出ています。領から預かった子供を、預かっているあいだにあの姿にした。それが、孤児院長の署名の入った紙に書いてあるんです」
「問われるのは、あの子ではなく孤児院のほうだ、ということか」
「問えるのは、領だけですけれど」
オグマは組みかけた指を止めた。
「閣下は、教会の側が動いたときは特にだ、と言っていたな」
サリナもその場で聞いていた。あの子に何かあったら、うちの役所より先に、私のところへ上げろ。辺境伯はそう言い置いて帰っていった。
「教会が動いた。上げるなら、今だ」
オグマは胸元の内側から鍵を出し、机の引き出しを開けた。紙の束の中から一枚を抜き出す。届け出の写しだった。右下に、崩れた癖のある署名が入っている。
便箋を引き寄せて、オグマはペンを走らせた。長い手紙ではなかった。
「お前が持っていってくれ。俺が城へ行けば、ギルド長が泣きつきに来たことになる。副ギルド長が紙を届けるなら、ただの報告で済む」
書き終えた手紙を二つに折り、写しと重ねて差し出す。サリナが受け取ると、オグマは一言だけ添えた。
「頼みはするな。あったことだけを伝えてこい」
階段を下りると、ホールの灯りは半分に落としてあった。冒険者の姿はもう無く、窓口の台の内側でミオが台帳を閉じたところだった。台の脇には、区域の書き付けの束が積んである。
「ミオ。明日から、区域の書き付けは受け取ったらすぐ、台の内側の引き出しへしまってちょうだい」
ミオは台の脇の束へ目をやり、それからサリナの手の中の紙へ目を移した。
「今ある分も、ですか」
「ええ。今ある分も」
ミオはそれ以上は聞かず、束を両手で持ち上げた。引き出しの開く音を背中で聞きながら、サリナは上衣を取りに奥へ回った。
▽ ▽ ▽
城の門に着いたときには、夜はすっかり更けていた。
区画の門を三つくぐるあいだ、サリナは一度も足をゆるめなかった。上衣の下で、背中が汗ばんでいる。息を整えてから、門番に名と用向きを告げた。
「冒険者ギルドの副ギルド長、サリナと申します。ギルド長から、閣下へお届けするものがございます」
門番は奥へ人をやり、サリナを門の内側の小部屋へ通した。長椅子が一つ置いてあったが、サリナは座らずに待った。
しばらくして戸が開き、灯りを提げた老人が入ってきた。背は丸いが、足の運びに迷いが無い。
「家令を務めております。閣下へのお届け物と伺いました」
「夜分に失礼いたします。ギルド長からの手紙と、斡旋の届け出の写しです」
サリナは二つを差し出した。
あの子を守ってください。その一言が、喉の奥まで上がってきていた。サリナはそれを飲み込み、あったことだけを話した。
「今日の夕方、聖堂の司祭と孤児院長が、リナムーアの帰り道で待っていました。七日後の洗礼式の日に、聖堂でもう一度量ると告げられています」
家令は口を挟まずに聞き、手紙と写しを受け取った。
「お預かりいたします。少々お待ちください」
家令が戻ってきたのは、だいぶ経ってからだった。手には何も持っていなかった。
「閣下は、二つともお読みになりました。お言葉を、そのままお伝えいたします」
家令は一度、背を伸ばした。
「『その日は、私も聖堂にいる』」
サリナは続きを待った。家令は続けなかった。
「……それだけ、でしょうか」
「それだけでございます。写しは、こちらでお預かりするとのことです」
返答を、サリナは頭の中でもう一度なぞった。してくれることは、一つも言われていない。止められたことも無い。分かったのは、その日に辺境伯がどこにいるかだけだった。
「確かに、承りました」
頭を下げて、小部屋を出た。
帰りは、走らなかった。
▽ ▽ ▽
翌朝、ギルド長室の窓の外は、まだ暗かった。
机の灯りが一つ点いている。オグマは机の向こうに座り、サリナは机の脇に立っていた。昨夜、城から戻って返答を伝えたときも、オグマは「そうか」と言ったきりだった。
戸を叩く音がした。
「入れ」
リナムーアは剣を背負い、腰にスリングショットを提げていた。森へ出るいつもの支度だった。手には、今日の区域の書き付けを一枚持っていた。
「話は、サリナからする」
オグマはそれだけ言って、指を組んだ。
サリナはリナムーアの前へ一歩出た。この子が森へ出る刻限は、動かせない。長くは話せなかった。
「聖堂へ行けば、もう一度量られることになる。判定の石は、たぶん一年前と同じで何も示さない。グレイヴォルフの首の話と合わせて、神から出た力ではない、と言われるかもしれない」
リナムーアは瞬きもせずに聞いていた。
「行かなければ、穢れが神の前を避けた、と言われる。言いたい人には、どちらを選んでも言えてしまう」
机の灯りが、赤い瞳の中に小さく映っていた。
「昨夜、城へ行ってきたわ。閣下はその日、聖堂にいらっしゃるそうよ。言われたのは、それだけ」
届け出のことは、言わなかった。孤児院を問えるかどうかは大人の側の話で、この子に背負わせるものではない。
「行くかどうかは、あなたが決めなさい」
浅層へ入るのを許したときには、行き方を任せた。今度は、行くかどうかそのものだった。
リナムーアは手の中の区域の書き付けへ一度目を落とし、それから顔を上げた。
「行きます」
オグマの組んだ指は動かなかった。リナムーアは少し間を置いて、言い足した。
「ここへ、戻ってくるために、行きます」
サリナはすぐには返事ができなかった。
ここ、がどこを指すのかは、聞き返すまでもなかった。この子が支部をそう呼ぶのを、サリナは初めて聞いた。
「……そう」
声が、思っていたより低く出た。
「私も一緒に行くわ。その日は、隣に座らせてちょうだい」
「はい」
「俺は残る。支部を空けておくわけにはいかん」
オグマが言うと、リナムーアはそちらへ向き直って頭を下げた。
「行ってきます」
サリナが付いて階段を下りると、ホールに冒険者の姿はまだ無かった。窓口の台の内側で、ミオが待っていた。
リナムーアが区域の書き付けを台へ置いた。ミオはそれを取り上げて端に日付を書き入れ、台の内側の引き出しを開けた。昨夜移した束の上へ、今日の一枚が収まった。
リナムーアの目が、台の脇へ動いた。昨日まで束が積んであったところだ。目はそこで一度止まり、すぐに戻った。何も聞かなかった。
「行ってらっしゃい」
ミオが言うと、リナムーアは頷いて、表の扉のほうへ歩いていった。
ミオが引き出しを閉めた。少し遅れて、表の扉の閉まる音がした。
台の脇の木目には、紙の角が擦れた跡が白く残っていた。サリナはそれを指でなぞってから、受付の机へ戻った。




