第42話 問い(とい)
魔境側の大門をくぐったとき、門灯が点るまでには、まだ間があった。
大門から支部へは、市場の脇を抜ける通りを帰る。店じまいの荷を片付ける者と、仕事を終えて酒場へ向かう者とで、この時刻の通りは朝よりずっと混んでいた。
すれ違いざまに、荷を担いだ男が胸の前へ手を上げた。人差し指と中指を揃えて立て、腕ごと上から下へ、それから横へ動かす。序理創神教の信徒が、穢れを見たときに切る印だ。
ひと月前までは、目を逸らす者はいても、印まで切る者はめったにいなかった。それが、通りを半分も来ないうちに三人目だった。
切る前に、どの目も同じところへ行った。髪ではなく、背の剣の柄頭だった。
二つ目の角が近づいていた。
『空識』の下絵には、通りを行き交う影が絶え間なく流れている。その流れの中に、二つだけ動かない影があった。角の脇に並んで立ち、どちらも大門のほうを向いている。
リナムーアは足を緩めずに、角を折れた。
「この子です」
太い指が、まっすぐこちらをさしていた。
角で動かずにいた二つの影は、自分を待っていたのだった。毎日、だいたい同じ頃にこの通りを帰る。待っていれば、会えることになる。
指の主は、腹を前へ突き出した年寄りだった。くすんだ黒の上衣は、孤児院の子供たちの服よりずっと布が良い。頬が垂れて、目の下がたるんでいる。顎の左に、ほくろが一つあった。
孤児院長だった。
記憶にあるより、ずっと小さく見えた。あの頃は荷台に寝かされて、垂れた頬を真下から見上げていた。いまも見上げていることに変わりはないのに、小さかった。
「ネストル様。間違いございません。この髪に、この目でございます。この色の子供は、領都にほかにおりません」
頭の上の髪は茶が褪せて、地肌が透けている。この白い髪に赤い目だ、と荷台の脇で言った男の髪は、年を取っても白くはならないのだった。
隣に立っていたのは、痩せた男だった。生成の長衣に、灰色の肩掛けを掛けている。肩が前へ落ちていて、額には横に三本、深い皺が刻まれていた。
その皺に、覚えがあった。
一年前、孤児院の儀式の間で、台座の前に立っていた聖職者だった。台座の上のものが何も示さなかったとき、そちらへ手を伸ばしかけて、孤児院長の声に止められた。そのまま、手を下ろした人だった。
男はすぐには話さなかった。一度、隣の孤児院長へ目をやった。それから、リナムーアの顔を見た。何かを確かめるような目だった。
細い目は、髪のほうへは一度も逸れなかった。
「聖堂の司祭、ネストルと申します。昨年、孤児院であなたの洗礼を進めたのは、私です」
ネストルは、一つずつ言葉を選ぶように続けた。
「昨年の洗礼式を、やり直させていただきたいのです。七日後が、今年の洗礼式です。その日、一般の子供たちが済んでから、もう一度量ります。聖堂へ来なさい」
周りで、足を止める者が出はじめていた。荷車を引いていた男が立ち止まり、店先で戸板を抱えていた女が手を止める。
「いやはや、立派になったものだ」
孤児院長が、ネストルの言葉の終わりに重ねるように口を開いた。目は、背の剣と腰のスリングショットのあいだを行き来していた。
「剣まで背負って、ずいぶん稼いでいるそうじゃないか。ええ? 三年だぞ。三年、私が食べさせて、着せて、寝かせてやったのだ」
孤児院長は、一人で頷いた。
「名にしても、どこの誰が付けたものか知らんが……まあ、いい。これだけ稼ぐようになったのなら、生まれも名も、どうでもよろしい」
それから、口の中で何かをぶつぶつと呟いた。寄進、という語だけが聞き取れた。
「ヘルマン殿」
ネストルが、短く遮った。
「今日は、その話をしに来たのではありません」
「は。……ごもっともでございます」
ヘルマン、というのが孤児院長の名らしかった。名で呼ばれるのを聞いたのは、初めてだった。
ヘルマンはネストルへ頭を下げた。下げたまま、目だけがまた剣のほうへ戻っていた。
量ったところで何も変わらないことを、リナムーアは知っている。
魔力はある。ただ、量るものに拾えないほど少ないだけだ。一年前に台座の上のものが何も示さなかったのは、量り違えたからではなかった。もう一度量っても、同じように何も示さない。
直すものは、何も無い。
それなのに、一度洗礼式を進めただけの司祭が、一年たって、自分の帰る道の角で待っていた。ほかの誰でもなく、自分を待っていた。
何かが、この人のところまで届いたのだ。断った役所の話か。通りの噂か。商業ギルドの誰かが、どこかで口にしたのかもしれない。目で見ているだけでは、どれとも決まらなかった。
下絵には、二人の影が並んで乗っている。『冥識』を向ければ、この人と自分とのあいだの関わりが冥線になって返ってくる。この人が自分のことをどこから知ったのかも、冥線の来た先で分かる。
リナムーアは、司祭の影へ向けかけた。
人垣の中で、囁く声がした。
「あれだろう。グレイヴォルフの首を落としたっていう」
「去年、孤児院から運ばれていった子だ。タレントも無いって言われた」
「それで、あの力はどこから来たんだ」
一人が、二本の指を揃えて胸の前で印を切った。それを見て、隣の者も切った。
どこから来たのか、と人垣は言っていた。
いま自分が司祭へ向けようとしているのも、同じ問いだった。この人は、自分のことをどこから知ったのか。
窓口で、誰に採ってもらったのかと問い詰められたこともある。問う側には、いつも知りたいわけがあった。わけがあるのは、覗く側の誰にとっても同じだ。
人垣が囁くのは、外から見た噂だけだった。自分のは、相手が気づきもしないうちに、中まで届く。自分がいちばんされたくないことを、いちばん深いやり方で人にすることになる。
手前で、止めた。
人へは『冥識』を向けない。リナムーアは、そこで決めた。
それに、向ければ、その人へ延びる冥線が自分の側に残るのかもしれなかった。残れば、取り消せるかどうかも分からない。
ネストルは答えを待っていた。ヘルマンも、周りの人垣も、待っていた。
「ギルド長に、伝えます」
それだけ言って、リナムーアは頭を下げた。
「ギルド長、だと?」
ヘルマンの眉が寄った。垂れた頬が、赤くなる。
「司祭様が直々にお出ましなのだぞ。拾われた子供が、勝手な口を……」
ネストルが片手を上げた。ヘルマンは口を閉じたが、口の中ではまだ何かを呟いていた。
ネストルは何かを言いかけて、唇を結んだ。
「……お待ちしております」
リナムーアは二人の脇を抜けて、支部のほうへ歩いた。人垣が、前だけ割れた。
▽ ▽ ▽
支部の表の扉をくぐると、ホールにはもう灯りが入っていた。
窓口でミオに採集袋を渡し、預け入れを済ませる。台帳の欄に数字を書き終えたところで、リナムーアは口を開いた。
「ギルド長は、上にいますか」
ミオのペンが止まった。リナムーアのほうから上の部屋のことを聞くのは、めったにないことだった。
「ええ。サリナも一緒です」
ギルド長室の戸を叩くと、中から「入れ」と返事があった。
オグマは机の向こうで書類をめくっていた。サリナは窓の脇に立っていて、戸口の小さな背丈を見ると、壁から背を離した。
「どうした」
「報告があります」
リナムーアは机の前まで歩いてから話した。
「戻る途中、市場の脇の通りの角で、呼び止められました。聖堂の司祭のネストルという人と、孤児院長のヘルマンです。わたしが帰る頃に合わせて、二人で待っていました」
オグマは書類をめくる手を止めた。
「何の用だった」
リナムーアは、聞いたとおりに伝えた。七日後の洗礼式の日に、聖堂でもう一度量られること。孤児院長が寄進の話をしかけて、司祭がそれを遮ったこと。
「なんと答えた」
「ギルド長に、伝えます、と」
「それだけか」
「はい」
孤児院長、と聞いたところで、サリナの手が窓の桟から離れていた。
一年前、リナムーアは荷台の上で聞いていた。受付の机の前で孤児院長と斡旋の手数料をやり取りしていたのは、サリナの声だった。
「……あの人が、角で待っていたのね」
サリナの声は柔らかいままだった。終わりのほうだけが、わずかに低かった。
オグマはしばらく黙っていた。書類を机の端へ寄せて、指を組む。
「今度は、聖堂か」
窓の脇で、サリナが顔を上げた。オグマはそちらを見ずに、リナムーアへ目を戻した。
「今夜のうちに考えておく。明日の朝、森へ出る前に、もう一度ここへ来い」
「はい」
リナムーアは頭を下げて、ギルド長室を出た。
廊下は灯りが落ちていて、階段の下からホールの明かりが上がってくるだけだった。
階段を下りながら、リナムーアは背へ手を回した。指先が、剣の柄頭に触れる。
通りで、いくつもの目が最初に留まったところだった。
手を離して、残りの段を下りた。




