第40話 迎え(むかえ)
その日の浅層は、変わったこともなく済んだ。採集袋の口を締めて浅層の境を跨ぎ、表へ向かう。門灯までの余裕も、ふだんと同じだけ残っていた。
外縁部の森では、幹と低木の枝が重なり合って、十数歩先で目が塞がる。この層で当てになるのは、目よりも『空識』の下絵だった。
その下絵に、ゴブリンが一体乗っていた。
三十メートルほど先で、倒木の脇を背を丸めて歩いている。向きはこちらではない。リナムーアは足を緩めずに、横目で見ながら通り過ぎようとした。ゴブリンの目に、自分は景色としてしか映らない。
下絵の縁から別の影が入ってきたのは、そのときだった。
奥の日陰側から、地面に張りつくほど低く、まっすぐ伸びてくる。ゴブリンの走りとも、コボルトの駆け足とも違った。四つ足で、速い。
影がゴブリンに重なった。小さな体が横へ跳ね飛ばされ、短い声が一度だけ上がって途切れる。倒れた体は縁から黒い霧になって薄れ、あとには小さな魔石が一つ残った。
影は頭を下げた。鼻先で下草を分け、落ちた魔石を口へ入れる。顎が二度動いた。
魔石を食べ終えても、影はその場を離れなかった。
リナムーアは足を止め、下絵の狙いを影へ絞った。
輪郭だけだったものに、中身が乗っていく。鼻先から尻までは、大人の背丈に近い。毛はところどころ抜け落ち、細い尾が地面へ垂れたままになっている。脇腹には、あばらが一本ずつ浮いていた。
前に資料室で読んだ記録に、似たものが載っていた。灰色の毛を持つ、狼の形をした魔獣。グレイヴォルフだ。ただ、記録には群れで狩るとあったのに、下絵のどこを探しても、ほかの一頭が見当たらない。体も、記録にあった大きさよりひと回り小さかった。
頭が上がった。
鼻先が、空気を探るように動く。それから顔がこちらへ向き、そこで止まった。
ゴブリンの目なら、顔の上を素通りしていく。この目は、通り過ぎなかった。
森へ通い始めたばかりの頃に、一度だけ考えたことがある。魔力ではなく、匂いや動きで獲物を追う種がいれば、景色でいられる理屈は成り立たない、と。
(……これが、そうか)
この相手にとって、自分は獲物だった。
グレイヴォルフが倒木を回り込み、こちらへ寄ってきた。
リナムーアは腰の革ベルトからスリングショットを外し、左手で又を起こした。弾入れから弾を一つ取って革の当てへ包み、帯を頬まで引く。
最初の一度は、まっすぐ来た。
二十メートルを切ったところで、指を離した。
弾は額に当たったが、そこで止まらなかった。鼻筋から額までが平たく、後ろへ寝ている。弾はその上を滑って、肩の毛の中へ抜けていった。コボルトの額は丸く立ち上がっていて、正面から入った弾は一発で相手を止める。違うのは、額の形だった。
獣は前へつんのめって転がり、すぐに起き上がった。首を一度振って、下がっていく。
二十メートルの外で、止まった。
そこからは、まっすぐ来なくなった。弾の届くところを、一度で覚えたらしい。その外に留まったまま、幹から幹へ移り、下草の陰を伝って、こちらの周りを回り始めた。
ある幹の裏から、身を低くして出てくる。寄ってくる。
本気なのか見せかけなのかを、下絵は教えてくれない。下絵に乗るのは形と位置と動きで、相手がこのあと何をするかは乗らない。本気で来られれば、二十メートルは一息で詰まる。
撃つしかなかった。
弾は幹の根元を打って跳ね、獣は陰へ戻った。次の一発は脇腹へ入ったが、毛と肉の厚いところで止まり、獣はわずかに怯んだだけだった。下がり、回り、また別の幹の陰から出てくる。撃てば弾が一つ減る。撃たずにいれば、いつかの一度が本気になる。
退く道も考えた。
走れば追いつかれる。背を向ければ、それがそのまま狩られる形になる。樹縁を抜けて草原へ出れば、あいだに挟める幹が一本も無くなる。サリナと決めた条件は、浅層の境を跨いでコボルトの群れから離れるためのものだった。この相手からは、跨いで離れられる境が無い。
幹を背にしながら、少しずつ樹縁へ寄っていくしかなかった。
幹から幹へ移る。背を幹に付けて下絵を読み、次の幹を選ぶ。影は二十メートルの外を、同じように幹から幹へ渡ってついてくる。寄ってくるたびに、帯を引いた。
木々のあいだの光が、灰色から暗いほうへ沈んでいった。ふだんなら、とうに大門をくぐっている頃だった。
獣が、また幹の陰から出てきた。
弾入れへ入れた指が、何にも触れずに戻ってきた。
獣は、出てきたところで動きを止めた。帯を引く腕が上がらないのを、しばらく眺めていた。それから、幹の陰へは戻らずに、下草を割ってまっすぐ出てきた。
リナムーアはスリングショットを腰の革ベルトへ差し込み、右手を肩越しに上げた。
柄を握って前へ引く。留め金が三つ続けて外れ、刃がホルダーから横へ抜けた。毎晩、訓練場で繰り返してきた動きで、どこにも引っかかりは無かった。切っ先を前へ向け、空いた左手を柄の下へ添える。
剣は、当たるところまで近づかなければ当たらない。この相手は、向こうから近づいてくる。
踏み込まずに、待った。
▽ ▽ ▽
門灯には、まだ間があった。
ホールの受付の机で、サリナは明日の依頼票を揃えていた。納品窓口の前には、クレイルたち三人が並んでいる。ミオが判別機に葉を通し、秤へ移して、台帳に数字を書き入れていた。クレイルは左手を台の縁に添えて待っている。薬指と小指は、半ば開いたままだった。
支払いを受け取っても、三人は扉のほうへ向かわなかった。ホールを横切って、受付の机の前まで来る。
「あいつは、今日も浅層か」
クレイルが聞いた。名前は出なかったが、誰のことかは聞き返すまでもない。サリナは頷いた。
クレイルは少し間を置いてから、続けた。
「ゴブリンが、いつもの半分も出なかった。それと、森が静かだった。いつもより、ずっと」
「静かだった」
ノエが、同じことを短く言い足した。ハーゲンスは黙って頷いただけだった。それ以上は何も言わずに、三人はホールを出ていった。
サリナは依頼票を揃える手を止めて、扉のほうを見ていた。
ゴブリンが減って、森が静まる。冒険者だった頃に、そういう日には何度か行き当たった。小さいものが鳴りを潜めるとき、もっと大きなものが下りてきていたことがあった。ただ、何も出ないまま、翌日には元へ戻っていることのほうが多かった。外縁部は広く、三人の歩いたところと、あの子の帰り道が重なっているとも限らない。
サリナは依頼票へ目を戻した。
あの子がいつも納品窓口へ来る刻限が過ぎた。扉は開かなかった。
それから少しして、ミオが台の内側から出てきた。受付の机の前で足を止める。手には、今朝あの子が置いていった区域の書き付けが一枚あった。
「サリナ。……まだ、来ません」
声は落ち着いていた。それでも、書き付けを先に持ってきたのはミオのほうだった。
サリナは書き付けを受け取った。使う区域と、使わない区域が書いてある。
引き出しの書面のことが、頭をよぎった。ギルド長に言われて、自分で詰めた手順だった。誰を出し、どこから入って、どこで引き返すか。あの子が戻らなかった日のために、一つずつ決めておいたものだった。
決めたのは、自分だった。
それでも、人を集めて行き先を割り振るあいだ、ここに座っていることはできそうになかった。
サリナは立ち上がった。
「ギルド長に伝えて。私が先に出たって」
「はい」
奥から弓と、手当ての道具を入れた袋を取ってくる。ミオはもう、階段のほうへ歩き出していた。
魔境側の大門を抜けて、草原へ出た。身体強化を惜しまずに回すと、草原が足の下を流れていった。
樹縁の手前で足を止め、書き付けを開く。今日使った区域は、奥の日陰側に寄っていた。そこから樹縁へ戻るなら、通る道筋はおおよそ決まる。サリナはそれを、樹縁の側から逆にたどった。
外縁部の森は、もう暗くなりかけていた。十数歩先で、幹と枝が目を遮る。
耳が、下草を割る音を拾った。
一度では終わらない。重いものが下草の上を引きずられていく音と、荒い息が続いている。
サリナは音のほうへ駆けた。幹を二本回り込んだところで、見えた。
灰色の獣が、何かを咥えて振り回していた。振られているものに、白い髪があった。
サリナは駆けながら矢を番え、足を止めると同時に引き絞った。
獣の頭へ狙いを置く。だが、あの子が振られるたびに、頭はその陰へ入る。いま放てば、どちらに当たるか分からなかった。
弦を引いたまま、頭が出てくるのを待った。
▽ ▽ ▽
十メートルのところで、獣が身を沈めた。
跳んだ。
刃を振り出すのが、早すぎた。下りていった先に、まだ首が来ていない。切っ先は背の上を抜け、毛の先を掠めただけだった。
止めて、切り返す。そこまでは、訓練で体に入れたとおりに動いた。だが、刃が上へ返るときには、獣はもう内側へ入っていた。
柄から離れた左手が、とっさに顔の前へ上がった。そこへ、咬みつかれた。
前腕に歯が食い込む。引かれて、体が浮いた。足が土を離れて横へ振られ、肩から下草へ叩きつけられる。落ちたところを、また引かれた。相手は六十キロを超え、こちらはその三分の一にも届かない。足を置こうとする前に、体ごと持っていかれた。
振られるたびに、歯が腕の奥へ沈んでいく。その奥で、何かがぷつりと切れた。
(……このままでは、腕が保たない)
体の栓を、最後まで抜いた。
いつも残しているぶんを外す。止めるための力も、次に動くための力も残さなかった。
構えも型も無かった。咬まれたまま、引き倒されたまま、右手に残っていた剣を相手の首へ振り下ろした。
刃に、重さはほとんど返ってこなかった。
首を抜けた刃は、そのまま土へ入った。毎晩、地面の手前で止めては切り返してきた刃が、止まらずに半ばまで埋まった。
獣の体から、力が抜けた。
歯は、まだ腕に掛かっていた。首が落ちても、顎は閉じたまま開かない。
腰のナイフへ手を伸ばしかけたところで、下絵に人の影が一つ乗っているのに気づいた。十数歩先の、幹のそばだった。いつから乗っていたのかは分からなかった。首だけを見ていて、下絵を読んでいなかった。
顔を上げると、サリナが弓を引き絞っていた。
鏃は、落ちた首のほうを向いている。サリナはしばらくそのまま動かずにいて、それから弦をゆっくりと戻した。矢は放たれなかった。
サリナは弓を肩へ掛けて、歩いてきた。何も言わずに膝をつき、獣の顎へ両手を掛ける。指を歯のあいだへ差し入れ、一息にこじ開けた。
腕が抜けた。
歯の跡が、上と下から二列、深く刻まれていた。血が手首のほうへ流れていく。サリナは傷の上へ掌をかざし、水魔法で水を流した。血と一緒に、傷へ入り込んだ土と獣の唾が洗い落とされていく。それから手当ての袋から布を出し、傷へ当てて強く押さえ、その上から巻いていく。肘の下は、紐で固く縛った。
流れていた血が、それで細くなった。
押さえられたまま、リナムーアは左手の指を動かそうとした。親指と人差し指と中指は曲がる。薬指と小指は、応えなかった。
中の筋が、断たれている。
『顕識』を発動すれば、塞げる傷だった。だが、布を巻いたこの腕は、このあと大門を通り、ホールを通る。見る者の目には、咬まれて帰ってきた子供の腕でなければならない。目の前のサリナに、消えた傷のわけを話すこともできない。塞ぐのは、ミオの手当てを受けてからでいい。
サリナは布を巻き終えると、倒れた獣へ目を移した。
毛の抜けた細い尾が、下草の上に垂れている。
「……はぐれね」
「はぐれ」
「群れを追い出された個体のことよ。浅層にいられなくなって、外縁部まで流れてくるの。めったに下りてはこないけれど」
記録と特徴が合わなかったのは、この獣が群れの外にいたからだった。
サリナはそれ以上を言わなかった。首の先の土に走った溝へ一度目をやり、それから周りを見回した。根の浮いた倒木があり、その先に苔をかぶった岩がある。
リナムーアは柄を握って、剣を土から抜いた。刃には、土と血がこびりついている。拭おうとして、手が止まった。左の腕は布の中にあり、剣を持ったまま拭うには、手が一本足りない。
サリナが黙って手を伸ばし、柄を受け取った。手当ての袋から布をもう一枚出して、鍔の手前から切っ先まで、手早く拭っていく。
リナムーアは、布の下から出てくる刃を目で追った。
欠けは無かった。
刃が入ったのは柔らかい土だけで、その下に石も根も無かった。止めるつもりの無い一振りだった。止めるための力を残していれば、首までは届かなかった。欠けずに済んだのは、運が良かったからにすぎない。
不細工だった。
サリナが、柄をこちらへ向けて剣を返した。リナムーアは右手で受け取り、背のホルダーへ上から落とし込んで、留め金を三つ閉じた。
「歩ける?」
「歩けます」
サリナは採集袋を取り上げて、自分の肩に掛けた。リナムーアは、樹縁のほうへ歩き出したその背を追った。
▽ ▽ ▽
ミオがギルド長室の戸を叩いたのは、門灯の少し前だった。
「リナムーアが、いつもの刻限を過ぎても戻っていません。サリナが、先に出ました」
オグマは書類から顔を上げた。
「先に、か」
「弓と、手当ての道具と、今朝の区域の書き付けを持っていきました」
オグマの目が、机の引き出しへ向いた。
中には、サリナがまとめた書面が入っている。誰を出し、どこから入って、どこで引き返すか。あの子が戻らなかった日のために、詰めておけと言ったのは自分だった。詰めたのはサリナだ。
(その本人が、真っ先に飛ばしたか)
口の端が、わずかに緩んだ。
(……そういうやつだったな)
オグマは引き出しを開けずに、席を立った。
ホールへ下りたところで、門灯が点った。間もなく、魔境側の大門の詰所から若い門兵が駆けてきた。
「戻りの欄が、一つ空いたままです。いつもの子の行です」
「サリナは、もう出ています」
ミオが答えると、門兵は思い当たったように息を吐いた。
「さっき、走って出ていかれたのは……」
「そうだ。迎えに出た」
オグマが言葉を継いだ。
「門の筒で、樹縁を見ていてくれ。誰か出てきたら、また報せてほしい」
「分かりました」
二度目の報せが来たのは、ホールの灯りの下に人がまばらになった頃だった。
「樹縁から、二人出てきました。大きいほうが前で、小さいほうがあとに続いています。……二人とも、自分の足で歩いています」
オグマはミオのほうを向いた。
「歩いているなら、担架は要らん。療養室を一つ空けておいてくれ」
「はい」
しばらくして、扉が開いた。
サリナが先に入ってきた。肩に、あの子の採集袋を掛けている。そのあとから、リナムーアが入ってきた。左の前腕に白い布が巻かれ、肘の下を紐で縛ってある。布の内側から、血が滲んでいた。
オグマは二人の前まで歩いていった。
「何があった」
「グレイヴォルフです。はぐれでした。この子が倒しました」
サリナはそれだけ言ってから、言い足した。
「死骸は、外縁部に置いてきました。浅層の境から樹縁へ戻る途中です。根の浮いた倒木があって、その先に苔をかぶった岩があります」
オグマは受付の机から紙を一枚取って、聞いたとおりに書きつけた。
「明日、人を出す。……ミオ、奥へ連れていってやれ」
ミオがリナムーアの右の肩に手を添えて、廊下の奥へ向かった。
▽ ▽ ▽
療養室は、窓口の奥の廊下を曲がった先に並んでいる。ミオが戸を開けたのは、あの子が初めて支部へ運び込まれた日に寝かされていた部屋だった。
寝台の端へ座らせ、サリナの巻いた布を解いていく。傷に当てられていた布を外すと、咬み跡が出てきた。前腕の上と下から二列、歯の形がそのまま並んでいる。
ミオは右の掌を、傷の上へ当てた。
魔力を、傷の奥から順に通していく。滲んでいた血が細くなって止まり、開いていた縁が寄り合って閉じた。手を離すと、皮膚に赤い線が二列残っていた。
「指を、動かしてみてください」
リナムーアの左手が、拳を作ろうとした。
親指と人差し指と中指が曲がる。薬指と小指は、半ば開いた形のまま止まっていた。
ミオの目が、その二本から離れなくなった。
夕方、窓口の台の縁に添えられていた手を思い出す。クレイルの左手だ。あの腕を塞いだのも、自分だった。皮膚は閉じ、血も止まったのに、中で断たれた筋まではつなげなかった。二か月が経っても、あの二本は半分開いた形のまま戻っていない。
同じ左腕の、同じ二本だった。
「動きません」
リナムーアが言った。痛いとも、困ったとも言わなかった。目の前にあることを、そのまま口にしただけだった。
ミオは、何も返せなかった。
新しい布を取り、赤い線の上から腕を巻き直す。
「明日の朝、もう一度見せてください」
「はい」
▽ ▽ ▽
翌朝、リナムーアは大門へ向かう前に療養室へ来た。
ミオは布の端を解き、一巻きずつ外していった。最後の一巻きを外したところで、手が止まった。
赤い線が、無かった。
昨夜、二列に並んでいたところには、周りと同じ色の皮膚があるだけだった。指先でなぞっても、盛り上がりも窪みも触れない。
言われる前に、リナムーアが左手を握った。五本の指が揃って曲がる。開いて、もう一度握る。薬指も小指も、ほかの三本と遅れずに動いた。
昨夜、魔法を掛けたのはミオである。自分の魔法がどこまで届き、どこから先へ届かないのかは、誰よりもよく知っていた。
「……動きますね」
「はい」
ミオは、それ以上を聞かなかった。外した布を畳み、寝台の端に置く。
リナムーアは一度頭を下げて、廊下へ出ていった。背の柄頭が戸口の陰に入って、見えなくなった。
足音が遠ざかってから、ミオは自分の右手を見下ろした。昨夜、あの腕に当てた手だ。
掌を上へ返して、ゆっくりと握った。




