第39話 標(しるべ)
浅層の境を跨ぐと、リナムーアはまっすぐ奥の日陰側へ向かった。
倒木が二本、根のほうを重ねて倒れている。その表側に、背の低い岩が一つある。昨日、四体の群れを見つけた場所だった。
岩の手前で足を止めて、『空識』の下絵を読んだ。
何もいない。梢の高さで鳥が二羽動き、下草の間を小さいものが渡っていくだけだった。
(……やはり、いない)
群れは毎日、歩く場所を変える。昨日ここにいたことは、今日ここにいる理由にならない。それを承知のうえで来た。探し直すなら、ここから始めるのがいちばん近い。
手順は昨日までと同じになる。下絵に乗った群れの一体へ『冥識』を向け、冥線の延びる先を取って歩く。一度向けるごとに頭の芯が重くなり、一日に向けられるのは三度か四度までだ。見つけたあとで目が滲んでいては、昨日と同じことになる。探すほうへ回す数は、絞らなければならなかった。
どの方角から当たるかを決めかけたところで、気づいた。
冥線が、一本ある。
『冥識』は、まだどこへも向けていない。下絵に乗っているのは鳥と小さいものだけで、どれへも意識を回していなかった。それなのに、自分の側から冥線が延びている。
(……出ている)
これまでの冥線は、向けた先から返ってくるものだった。向けなければ、何も無い。今朝のこれは、向ける前からそこにあった。
冥線の先は、下絵の縁より遠かった。『冥識』を向けられるのは下絵に乗ったものだけで、縁の外には届かない。それなのに、方角と隔たりが返ってくる。形は返らなかった。それでも、何に繋がっているのかは分かった。
昨日の一体だった。
意識を外してみると、冥線は消えた。もう一度そちらへ回すと、戻った。
頭は重くならなかった。額の裏にも、目の端にも、何も起きない。向けて掴みにいくときとは、手応えがまるで違う。既に自分の側にあるものを、見るか見ないかというだけだった。
なぜ出ているのかは、分からなかった。考えるのは後にした。今日は、倒しに来ている。
リナムーアは、冥線の延びるほうへ歩き出した。
方角は奥の日陰側だった。下絵に影が乗れば脇へ避け、通り過ぎるのを待って元の向きへ戻る。昨日までは、一度向けるたびに立ち止まり、頭の重さを抱えたまま次の群れが下絵に乗るのを待った。今日は、歩けばそのぶん隔たりが縮んでいく。迷うところが、一つも無かった。
日が高くなりかけた頃、下絵の奥の縁に影が四つ乗った。
一つが先を行き、二つがその後ろに横並びで、残る一つがさらに後ろを歩いている。昨日と同じ並びだった。冥線は、その四つの中へ入っている。
リナムーアは低木の陰で膝を落とし、『空識』の狙いを先頭へ寄せた。
輪郭だけだった影に、中身が乗る。肩の毛は揃っていた。二つ目、三つ目へ狙いを移しても、抜けた跡は無い。
最後の一つへ寄せた。
左の肩から前腕にかけて、毛が抜けていた。抜けた下の皮が引き攣れて、歪んだまま固まっている。冥線は、その一体で終わっていた。
昨日は先頭を歩いていたものが、今日はいちばん後ろにいる。並びのほうが、入れ替わっていた。
下草の先の揺れ方で、風を読んだ。風は奥から表へ、低いところを流れている。においは、群れのほうからこちらへ流れてくる。
膝を落としたまま、奥へ詰めた。藪の斑を選び、足を置くたびに一度止まる。風は頬に当たって、後ろへ抜けていった。
弾の届くところまで詰めて、足を止めた。低木の枝の向こうに、四つの背が並んでいる。どれも、こちらを向いていない。
一発目で、見られずに落とす。昨日、決めてきたのはそれだけだった。
弾入れの口を開け、革の当てに弾を包んで、スリングショットの帯を頬まで引いた。
狙いの上を、枝が二本横切っている。風が枝を揺らして、その間が空くのを待った。
空いた。
指を離した。
弾は、毛の抜けた肩の上を越えて、側頭部へ入った。膝が折れて、体が横へ落ちる。声は出なかった。
前の三つが、揃って足を止めた。
一つが首を回して、倒れたもののほうを見た。もう一つは反対側の藪へ鼻先を突っ込み、下生えを掻き分け始める。三つ目はその場で二度回って、また止まった。どれも風上の奥へ鼻を向けて嗅いでいて、風下にいるこちらへは顔を向けない。
倒れたもののそばへ寄った一つが、喉を鳴らした。短い音が一度上がって、それきりになった。
リナムーアは次の弾を指に挟んだまま、動かなかった。声は尾を引かず、下絵の縁の外へは届いていない。
四つが並んでいた下草の上に、倒れた体が横たわっていた。毛の抜けた左の肩が、こちらを向いている。抜けた下の皮は色が薄く、引き攣れた筋が肘の手前まで伸びていた。下絵で見たとおりの場所に、見たとおりの形で付いている。目で見るのは、初めてだった。
ひと月のあいだ、毎晩頭の中の地図を重ねて探していたものが、そこに倒れている。毛の抜けた肩のほかは、どこにでもいるコボルトの一体だった。
それだけのものだった。
体の縁が崩れて、黒い霧へほどけていく。毛の抜けた肩も、引き攣れた皮も、同じ黒さになって薄れた。そばの一つが鼻先を寄せたときには、もう何も残っていなかった。
三つは、誰に倒されたのかを知らない。こちらの形も匂いも、拾っていない。見られていない以上、この三つから新しい起点は生まれなかった。声で渡されて覚えているこちらのことも、五日で抜ける。撃っても、片付くものが増えるわけではない。
やがて一つが奥へ走り出し、残りの二つがそのあとへ付いた。三つの背は木の間を抜け、下絵の中で小さくなって、縁の外へ出ていった。
リナムーアは膝を伸ばして、倒れていた場所へ歩いた。下草の上に、粒魔石が一つ残っていた。
拾って、掌に乗せた。灰色で、小指の先ほどの大きさだった。これまでに拾ってきたコボルトの粒魔石と、色も濁り方も変わらない。特別なものは、何も入っていなかった。
粒魔石を握ったまま、意識を回した。
冥線が、無かった。
朝からずっと自分の側に延びていたものが、どこにも見当たらない。意識を外したときのように消えているのではなかった。回した先に、繋がる相手が無い。
(……死んだものには、返らない)
初めて外へ向けた日に、霧へほどけていく一体で確かめたことだ。今日は向けもしないうちに、それが切れていた。
粒魔石を魔石入れの底へ落として、リナムーアは表へ歩き出した。
▽ ▽ ▽
その夜、訓練場の四隅の柱に灯りが入ると、サリナは木剣を二本、武器掛けから取った。
リナムーアは、受け取る前に口を開いた。
「サリナ。昨日お話しした一体を、倒しました」
差し出しかけた木剣が、途中で止まった。
「……確かめたのね」
「はい」
どうやって確かめたのかは、聞かれなかった。
「声は、上がっていません。一発目で落としました。群れのほかの三体は、こちらを見ないまま離れていきました」
サリナは小さく頷いた。木剣を持つ肩から、力が一つ抜けたように見えた。
「それなら、今夜はいつもどおりにしましょう」
改めて差し出された木剣を、リナムーアは両手で受け取った。
打ち合いは、いつもの長さで続いた。最後の一本を終えて木剣を武器掛けへ戻すと、リナムーアは頭を下げ、訓練場の端へ歩いた。
灯りの外の暗がりへ顔を向けて、今日の下絵を頭の中でたどり直す。昨日までの地図と重ねると、駄目になった区域の印は、まだ残っていた。渡された群れが忘れるまでには、日が掛かる。今夜は、それを確かめるだけで足りた。
▽ ▽ ▽
宿舎の部屋へ戻ると、リナムーアは灯りを点けたまま寝台に上がった。
朝のことを、順に並べ直した。
昨日、あの一体へ『冥識』を向けた。今朝は向けていないのに、冥線が出ていた。倒したら、切れた。
向けた相手は、あの一体だけではない。初めて外へ向けた日から、群れの一体へ、また次の群れの一体へと、何度も向けてきた。そのどれからも、今朝のような冥線は出ていなかった。
違いは、一つしか思い当たらなかった。
あの一体だけは、ひと月探し続けた相手だ。毎晩地図を重ね、見えないまま追った。向けたのは昨日の一度きりでも、そこまでのひと月が自分の側に積んである。
『冥識』が辿るのは、自分とのあいだの因果だ。探し続けたことで、あの一体と自分のあいだには、向ける前から太い因果ができていた。そこへ一度向けたから、冥線が自分の側に残ったのだろう。
(……こちらが、付けたんだ)
ただ、そう考えると筋が通るというだけで、確かめたわけではない。一度向けただけでも残ることがあるのかもしれない。意識して付けられるのか。何本まで持っていられるのか。どれだけ経てば薄れるのか。どれも、まだ分からなかった。
それから、もう一つあった。
人へ向けたら、人にも残るのか。
人へは、まだ向けたことが無い。魔境側の大門の門兵へ向けかけて、やめたことがあるだけだ。向ければ残るのなら、それは向けた一度では終わらない。相手の知らないところで、自分の側から冥線が延び続ける。残ってしまえば、あとから取り消すことはできないかもしれない。できるかもしれない。
リナムーアは、灯りを落とした。
▽ ▽ ▽
五日目の夜、ギルド長室の机に、区域の書き付けが五枚並んでいた。
ミオが窓口から運んできたもので、討伐の翌朝から毎朝リナムーアが出していったぶんだった。ミオは束を置いて、窓口へ戻っていった。
あの子が倒したそうです、とサリナが伝えに来たのは、五日前の夜だった。どうやって見つけたのかは聞いていません、とサリナは添えた。オグマも聞かなかった。聞いて答えが返ってくる子でもないし、聞かなければならない理由も無い。
代わりに、毎晩この紙を上げさせることにした。
オグマは、一枚目から順に目で追った。
一枚目には、使わない区域の印がまだ幾つも付いていた。二枚目で一つ減り、三枚目でまた減った。減った印はどれも、前の日に印のあったところから消えている。そして、どの紙にも、前の日に無かったところへ新しく付いた印が無い。
五枚目に残っている印は、浅層の境に近い小さな一つだけだった。
ひと月ぶんの紙を並べたときは、こうではなかった。印は毎日違うところに付き、消えたぶんだけ隣が駄目になっていた。だから囲えなかった。紙の上で線を引いても、翌日にはもう役に立たない。
(動くものは、囲めん。……そう言ったのは、俺だったな)
印が動いていたのは、印を動かすものがいたからだ。その印が、もう動かない。前からあった印が、元の場所で消えていくだけになった。
囲めなかったものが、囲まないうちに無くなっていた。
オグマは五枚を重ねて、束の端を指で揃えた。
机の引き出しには、サリナがまとめた書面が入っている。誰を出し、どこから入って、どこで引き返すか。あの子が戻らなかった日のために詰めさせたものだった。
オグマは書き付けの束をその上に重ねて、引き出しを閉めた。片付いたのは一体のことで、あの子が一人で浅層へ通っていることは変わらない。この書面は、まだ当分引き出しに入れておくことになる。
▽ ▽ ▽
討伐の翌日から五日のあいだも、向かってくる群れは、これまでどおり撃って倒した。向かってくる群れは日を追って減り、五日目には、こちらへ顔を向けても、そのまま群れの歩く道筋へ戻っていくものばかりになった。
六日目の朝も、浅層の境の手前には膝の高さの下草が揺れていた。
向こう側は、灰色の光の底に沈んでいた。下絵の中を、コボルトの群れが四つの影になって日陰側から日向側へ横切っていく。リナムーアは浅層の境の手前の幹に手を添えて、群れが下絵の縁から抜けるのを待った。
それから浅層の境を跨いだ。
足の裏へ、固い土が返ってくる。三十メートル先に、網の走った葉を持つ株が一つあった。
リナムーアはしゃがむ前に、肩を一度回した。剣の吊り紐を指一本ぶん下げると、柄頭は首の後ろに当たらなくなった。
ミド草の株の前にしゃがんで、根元に近い一枚へナイフの刃を当てた。




