第38話 冥線(めいせん)
魔境側の大門は、まだ大扉を閉ざしていた。
脇のくぐり戸の前で、門兵がギルドカードに目を落とし、戻り帳へ名前を書き入れた。毎朝のことで、言葉はほとんど要らない。
戸が開くのを待つあいだ、リナムーアは今日の順を考えていた。
『冥識』を外へ向けるのは、今日が初めてになる。何をする力かは分かっている。自分と、識ったものとのあいだの因果を辿る力だ。ただ、どこまで辿れるのかは、まだ一つも分かっていない。何に返って、何に返らないのか。一度にいくつまで、一日に何度まで向けられるのか。
前の生では、新しい道具を手にしたら、まず仕様書を読んだ。できることと、できないこと。使える範囲と、その外。読まずに使い始めて困るのは、たいてい自分だった。
この力には、読む仕様書が無い。それなら、一つずつ当てて、自分で書き出していくしかない。
『空識』の下絵の、いちばん手前に門兵が乗っていた。戻り帳から顔を上げて、閂へ手を伸ばすところまで返ってくる。
リナムーアは、そちらへ『冥識』を向けかけた。
手前で、やめた。
この人と自分とのあいだの因果を辿る理由は、どこにも無かった。毎朝この戸を開けて、名前を書き留めてくれる人だ。用も無いのに、人へ能力を向けるものではない。
「気をつけてな」
門兵が閂を外して、戸を押し開けた。リナムーアは頭を下げて、くぐり戸を抜けた。
▽ ▽ ▽
最初に向けたのは、草原の道ばたに転がっていた石だった。
何も返らない。向けた先で、手応えがすっと抜けていく。樹縁の木の幹へ向けても、同じだった。
(……関わりの無いものには、何も返らない)
頭の中の仕様に、一行目を書いた。
浅層の境を跨いで、ミド草の株のある一帯へ入った。葉を落とす手は先に動き、意識は下絵に置いたままにする。
日陰側へ寄ったところで、ホーンラビットが一つ跳ねていた。
『冥識』を向ける。
何も返らない。石と同じ抜け方だった。跳ねていようと、息をしていようと、自分とのあいだに何も無ければ、返るものも無い。
(……生きているかどうかでは、ない)
昼の手前に、下絵の奥の縁へ影が三つ乗った。コボルトの群れだった。
リナムーアはミド草の株のそばを離れ、低木の陰で膝を落とした。先頭の一体へ向ける。
今度は、抜けなかった。
この一体は、こちらを知っている。そのうえで、知ったのはこの一体自身ではなかった。どこかから渡されて、知っている。渡ってきた元のほうへ、手触りが一本延びていた。言葉ではない。下絵が森の形を返すのと同じやり方で、方角と隔たりが返る。表の日陰側へ、下絵の縁よりもまだ先へ延びている。
(……線だ)
その手触りが返るのと一緒に、頭の芯がわずかに重くなった。
今朝、自分へ向けたときには、こうはならなかった。石や幹や獣へ向けたときにも、重さは無かった。自分の中で閉じている因果と、何も返らないものには、重さが掛からない。外へ向けて因果が返れば、そのぶんが頭に載る。
(……冥線とでも、呼んでおくか)
冥線を掴んだまま、隣の一体へも向けようとした。掴みかけたところで、先の一本が指から落ちた。持っていられるのは、一つだけらしい。
隣の一体へ向け直す。——知っている。冥線は、やはり表の日陰側へ延びていた。頭の重さが、もう一段増した。
先頭の一体が鼻を上げた。三つが揃って、こちらへ向き直る。
リナムーアは弾入れの口を開けた。群れが寄りきる前に、三つとも撃ち、倒した。
黒い霧へほどけていく一体へ、『冥識』を向けた。
何も返らない。さっきまで表の日陰側へ延びていた冥線は、どこにも無い。
(……死んだものには、返らない)
頭は重くならなかった。
そのまま、さきほど冥線が延びていた先へ向けてみた。下絵の縁の外である。掴むものが無かった。向けられるのは、下絵に乗っているものだけだった。
昼を過ぎて、日向側に影が二つ乗った。その一つへ向ける。——知っている。冥線は表の日陰側ではなく、表へ延びていた。
三度目だった。額の裏が痛んだ。奥のほうへ細い楔を一本打ち込まれたような痛み方をする。
続けて、同じ一つが次にどちらへ歩くのかを掴もうとした。
何も乗ってこなかった。返るのは、生まれた因果だけだ。辿れるのは、そこまでだった。
その一度で、視界の端が滲んだ。白いものが目の端へ薄く寄って、瞬きをしても取れない。
仕様の終わりの一行は、そこで書いた。一日に向けられるのは、三度か四度までだ。
ミド草の株を回る足は、途中から鈍っていた。決めていた刻限が来て、採集袋は満ちないまま口を閉じた。門灯にまだ間のあるうちに、大門をくぐった。
▽ ▽ ▽
翌日から、冥線を遡った。
手順は一つしか無い。下絵に乗った群れの一体へ向けて、冥線の延びる先を取る。その方角へ歩き、次に下絵へ乗った群れの一体へ、また向ける。一度向けるごとに、冥線の元へ一つぶん近づく。一日に向けられる数が決まっているから、一日に近づけるのも、そのぶんだけだった。
三日のうちに、分かったことが二つある。
一つは、冥線が枝分かれしていることだった。別々の群れへ向けても、冥線が同じところへ寄っていくことがある。一つの元から、幾つもの群れへ渡っている。
遡るほど、冥線は寄り集まっていった。初めはばらばらの向きから来ていたものが、一つ先へ進むたびに同じ先を指すようになり、まとまって、本数を減らしていく。
(……枝の先から、幹へ辿っている)
どの枝の先から入っても、辿っていけば幹へ出る。幹は、一本しかない。
もう一つは、冥線の指す先が、日ごとに奥へ寄っていくことだった。
覚えがあった。こちらを数に入れた群れが忘れても、忘れた区域の隣がまた駄目になる。頭の中の地図の印でそれを読んで、こちらのことを伝え歩きながら動いているものがいる、と見当を付けた。見当を付けただけで、確かめる手立ては無かった。
いま、冥線が一つのところへ寄り集まり、そのところが奥へ動いている。
見当だったものに、初めて裏づけが付いた。
探した日は、採集袋が満ちなかった。『冥識』を一度向けるごとに頭の芯が重くなり、ミド草の株から株へ移る足も、屈む動きも、葉を落とす手も、少しずつ遅れる。その遅れが一日ぶん積もって、決めた刻限に口を閉じるときには、いつもの嵩に届いていない。
納品窓口で、ミオは額を告げて、台帳へ書き入れた。数字の落ちた日の字も、落ちる前の日の字も、同じ太さで並んでいた。
サリナには、まだ何も言っていなかった。見つけたら、そのときに話す。見つかっていないうちは、話すことが無い。
▽ ▽ ▽
五日目は、浅層の境を跨いでから、ずっと奥へ寄り続けていた。
その日の三度で、冥線はもう一本にまとまっていた。どの群れへ向けても、同じ先を指している。隔たりも、前の日よりずっと短い。
額の裏には、三度目の楔がまだ残っていた。
下絵の奥の縁に、影が四つ乗った。一つが先を行き、二つがその後ろに横並びで、残る一つがさらに後ろを歩いている。間隔は動かない。
リナムーアは低木の陰で膝を落とし、先頭の一体へ四度目を向けた。
——知っている。
冥線の先を追う。
——そこで、終わっていた。
方角が乗らない。隔たりも乗らない。この一体は、誰からも渡されていなかった。自分の目でこちらを見て、知った一体だ。
(……いた)
それだけだった。ひと月探していたものが、下絵の上の一点として乗っている。ほかには、何も起きなかった。
視界の端が、白く滲み始めていた。
『空識』の狙いを、その一体へ絞った。輪郭だけだった影に、中身が乗る。
左の肩から前腕にかけて、毛が抜けていた。抜けた下の皮が引き攣れて、歪んだまま固まっている。
『空識』の狙いを後ろの三つへ移していく。どれにも、これといった特徴は無い。
いつの傷かは分からなかった。自分の弾かもしれないし、ほかの魔物の牙かもしれない。
見えているのに、見分けられない。ひと月、そこで止まっていた。下絵は毎日このあたりを映していながら、コボルトの形までしか返さなかった。どれへ狙いを絞ればいいかを先に教えたのは、『冥識』だった。
いま、見分けている。
リナムーアは膝を落としたまま、動かなかった。
倒すなら、この一体を一発目で、見られずに止めなければならない。外せば、この一体は逃げて、どこへ行ったのか分からなくなる。倒すところを後ろの三つに見られれば、こちらをその目で覚えたものが、また生まれる。どちらになっても、ひと月がまた始めからになる。
視界の端は、まだ滲んでいた。瞬きをしても、白いものが寄ったまま取れない。この目で、四つのうちの一つへ外さずに入れられるとは言えなかった。
明日も、ここにいるとは限らない。それでも、肩の毛の抜けた跡で見分けられる。どの群れからでも、冥線を遡れば辿り着ける。探し直すのに、一日あれば足りるだろう。今、無理をすべきではない。
リナムーアは、下絵の中の位置を覚えた。倒木が二本、根のほうを重ねて倒れている。その表側に、背の低い岩が一つある。
先頭の一体が首を回し、四つは同じ間のまま日陰側へ歩き出した。
リナムーアは膝を伸ばして、表へ戻った。
▽ ▽ ▽
その夜、訓練場の四隅の柱に灯りが入ったところで、リナムーアはサリナの前に立った。サリナは、木剣を武器掛けから取ったところだった。
「サリナ。報告があります」
サリナは木剣を下ろした。
「聞くわ」
「見つけました」
サリナの手が、一度止まった。
「……この前、灯りの外で数えていたものね」
「はい」
どうやって見つけたのかは、聞かれなかった。
「浅層の境から、奥の日陰側へ寄ったあたりです。倒木が二本、根のほうを重ねて倒れていて、その表側に背の低い岩があります。そこにいた四体の群れの、先頭でした。左の肩から前腕にかけて、毛が抜けています。ほかの三体には、ありません」
サリナは頷いた。
「明日、倒します」
サリナは、こちらの目を見た。
「前に置いた条件は、そのままよ」
「はい。群れは一つまで。仲間を呼ぶ声が上がったら、その場で浅層の境を跨ぎます」
「ええ」
それから、サリナは少し黙った。
「……私が、一緒に行きましょうか」
リナムーアは顔を上げた。
この人が森へ付いて来ると言ったのは、初めてだった。この人の腕なら、コボルトの四体など数のうちにも入らない。
それでも、答えは決まっていた。
「ありがとうございます。……でも、一人で行きます」
サリナの眉が、わずかに寄った。
「あの一体を残したのは、わたしです。三人を連れて戻った日に、数え残しました。だから、わたしが片付けます」
サリナは、しばらく答えなかった。灯りの下で、木剣の柄の先を指で一度撫でる。
「……そう」
それ以上は、言わなかった。
打ち合いは、いつもより短く終わった。リナムーアは木剣を武器掛けへ戻して、頭を下げた。
訓練場の端へは、今夜は歩かなかった。灯りの外の暗がりを背にして、そのまま食堂へ回った。
食堂の長机は、夕食どきを過ぎて人がまばらになっていた。
リナムーアは椀を五杯空けて、六杯目をもらいに立った。
炊き場の者が杓を止めて、一度こちらを見た。それから何も言わずに、椀へ注いだ。
長机へ戻って椀を置くと、木の底が板に当たって短く鳴った。湯気は、まだ立っていた。
リナムーアは、匙を取った。




