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第37話 冥識(めいしき)

 浅層(せんそう)の境を跨(また)いだのは、森の中がすっかり明るくなってからだった。


 草の株(かぶ)の固まりへ『空識(くうしき)』の狙いを寄せ、葉の内側に管の走るものを一株ずつ読んでいく。そのあいだも、『空識』の下絵から意識を外さない。前に一度、手元にのめり込んで周りの影を数え忘れ、コボルトの群れに唐突な接近を許したからだ。屈(かが)んで葉の付け根を切り、採集袋(さいしゅうぶくろ)へ落とす手のほうは、もう考えなくても動く。


 下絵の上には、影がいくつも乗っている。跳ねて移るホーンラビット、藪(やぶ)の下を這(は)う小さなもの、それから、二つ三つと寄り固まって歩くコボルトの群れ。


 昼の手前に、群れの一つがこちらへ向き直った。リナムーアは低木の陰(かげ)から撃って、三つとも倒した。黒い霧がほどけたあとの魔石(ませき)を拾い、ミド草の株の前へ戻る。向かってくる群れは撃って倒すと決めてから、これも一日のうちのことになっていた。


 手を動かしながら、リナムーアは下絵を読み続けた。


 探しているのは、一体だけだ。こちらの事を、ほかの群れへ伝えて回っている一体。どこかにいるはずのそれを、まだ一度も見分けられていない。


 初めのうちは、形で探した。狙いを絞れば、肩の幅も腰布の皺(しわ)も拾える。見れば何か分かるかと思っていたが、分からなかった。


 だから、いまは一体ずつの形を見ていない。


 見ているのは、動き方のほうだった。群れから外れて、一体だけで歩いていくもの。群れと群れのあいだを行き来するもの。一つの群れが通り過ぎたあとで、離れていた別の群れが同じほうへ寄っていくかどうか。


(……どれと、どれが繋がっているか)


 一体を見分けられないなら、その一体がほかとどう繋がっているかを見るしかない。


 この日、下絵に乗ったコボルトの群れは四つだった。一つは倒した。残りの三つは、どれも群れのまま歩き、群れのまま下絵の縁(ふち)から出ていった。一体で外れるものも、群れのあいだを渡るものもいなかった。


 決めていた刻限が来る前に、採集袋の口が締まった。


 リナムーアは浅層の境のほうへ歩き出した。下絵の縁の外にも、森は続いている。探しているものが、そちらにいないとは限らなかった。


 ▽ ▽ ▽


 訓練場(くんれんじょう)の四隅の柱に、灯(あか)りが入っていた。


 打ち合いを終えて木剣(ぼっけん)を背から外すと、サリナの目が足元の土へ落ちた。リナムーアには、そこを見なくても分かっていた。踏み込んだ足の跡は、昨夜と同じところに付いているはずだった。一昨夜とも、その前とも同じところに。


 意識を内へ回す。


——成長上限:到達

——レベル:1


 剣を受け取って数日が過ぎた朝に、この二行が初めて並んだ。それから、ひと月になる。毎朝読み、毎晩読んで、並びも中身も一度も変わっていない。


 足跡が動かない理由は、ここにあった。体のどこも、あの朝から伸びていない。地面を蹴る力も、間合いへ入る速さも、剣に持ち替えたころのままだ。サリナがどれだけ足元を見ても、跡が前へ出ることは無い。


 それを伝える言葉を、リナムーアは持っていなかった。レベルのことは、誰にも話していない。


 木剣をサリナへ返して、訓練場の端へ歩いた。


 柱の灯りが届くところを過ぎると、その先は木立(こだち)の暗がりになる。リナムーアはそちらへ顔を向けたまま、昼の下絵を頭の中でたどり直して、頭の中の地図に写した。


 浅層の境の手前に一つ。日陰側の斜面に一つ。昼の手前に倒した一つ。日向側(ひなたがわ)の倒木の向こうに一つ。どれがどこから現れて、どちらへ歩き、どこで縁から出ていったか。


 その上へ、昨日の地図を重ねる。一昨日のものも重ねる。重ねた先に、ほかと違う動き方をしたものがいないかを見る。


 いなかった。


 毎晩、ここでこうしている。暗がりに何かが見えるわけではない。目を開けていても閉じていても、することは同じだった。ただ、灯りの中にいるよりも、こちらを向いているほうが地図はよく重なった。


 サリナは少し後ろに立っていた。昨夜は隣まで来て、同じほうを見ていた。今夜は声も掛けずに、こちらが振り返るのを待っている。何を、と聞かれたことは一度も無い。


 リナムーアは振り返って頭を下げ、宿舎へ戻った。


 寝台に上がってから、眠る前の練り込みに移った。


 稽古で裂けたところへ狙いを置き、『顕識(けんしき)』で繕う。繕った先を、もう一段固く撚(よ)るように書き込む。書き込んだという手応えは返ってくる。それなのに、筋の中身は元の詰まり方へ押し戻されていった。満ちた器(うつわ)へ注ぎ足しても、注いだぶんが外へ零(こぼ)れるだけなのと同じだった。


 前にも、こうなったことがある。


 あのときは、何を積めばいいのか分からないまま、鍛錬と練り込みを続けた。図書館の古い序文に、格は育ちきった先でなお積み重ねたものによって上がる、とあったからだ。三晩目の眠りのあいだに上がり、翌朝には二行の数字が変わっていた。


 だから、今度も同じことをしている。昼は森を歩き通し、夜は稽古で体を使いきり、眠る前には必ず練り込む。一日も欠かしていない。


 それで、ひと月だった。


 まだ足りないのか、別の何かが要るのか。『己識(こしき)』は、状態なら返す。上限に達していることも、レベルが1であることも返す。なぜ上がらないのかだけは、どこにも出てこない。


 リナムーアは灯りを消して、目を閉じた。


 ▽ ▽ ▽


 寝台から体を起こす前に、意識を内へ回した。


 稽古で裂けたところは塞がっていた。そして、繕った筋は、昨日までのように縁から零れていない。


——成長上限:未到達

——レベル:2


 並びは、見慣れたものと同じだった。中身だけが変わっている。


 リナムーアは寝台の上で、自分の手を開いて閉じた。見た目には、何も変わっていない。


 腿(もも)の筋へ、もう一段撚るように書き込んでみる。今度は押し戻されなかった。書き込んだぶんが筋の中に収まり、その奥にまだ入る余地がある。どこで行き止まるのかは、探っても分からなかった。


 そこで、四つ目が目を覚ました。


 目に映るものに、変わりは無かった。動いたのは意識の奥の、それまで何も置かれていなかったところだった。


(『冥識(めいしき)』——)


 名前は、今度も『己識』が返した。『自己認識』の四つ目の派生だった。


 『己識』が自分の内を、『空識』が自分の外を識(し)る力で、『顕識』が識った自分へ手を入れる力だった。これは、自分と、識ったものとのあいだの因果を辿(たど)る力だった。それが自分とどこで繋がり、その繋がりが何から来ているのか。目には見えないその繋がりを、元のほうへ追っていける。


 使い方は、名前と一緒に分かっていた。リナムーアは『己識』と同じ手つきで、それを自分へ向けた。


 返ってきたのは、状態ではなかった。


 頭の中で行が並ぶのとも違う。レベルが一つ上がったことから、それを運んできたもののほうへ、いくつかの手触りが延びていた。


 一つは、毎日の討伐へ延びていた。撃って倒した群れの一つずつが、そこに積まれている。


 一つは、毎晩の地図へ延びていた。見えない一体を、見つけると決めて探し続けたこと。森で下絵を読み、夜に地図を重ね、見つからないまま翌日もまた探したこと。その一日ずつが、積まれていた。


 それだけだった。


 上限を押し続けた鍛錬と練り込み。それには一切、因果が記されていなかった。


 そして、因果を辿れるものが、もう一つあった。いま目を覚ましたばかりの、『冥識』そのものだった。


 『冥識』が目を覚ますのに足りるだけのものは、しばらく前から満ちていた。ただ、レベル1の器には、収まる場所が残っていなかった。眠っているあいだに器が広がり、空いたところへそのまま入った。


 読めたのは、そこまでだった。リナムーアは『冥識』を自分から外して、寝台を下りた。


 支度は、いつもと同じ順で済んだ。階段の足音は、昨日と同じだった。


 宿舎を出ると、通りはまだ青い影の中にあった。


 魔境側(まきょうがわ)の大門(だいもん)へ向かって、西へ歩く。背中のほうで、外周壁(がいしゅうへき)の上の空が少しずつ白んでいく。店の戸はどこも閉じたままで、石畳を踏む音は自分のものしか無かった。


 通りの先に、大門が黒く立っていた。リナムーアはいつもの歩幅で、そちらへ歩いていった。


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