第36話 暗がり(くらがり)
門灯が点ってしばらくすると、訓練場の四隅の柱に灯りが入る。サリナが受付の帳面を閉じて下りていくと、リナムーアはいつも先に来て待っていた。
サリナは壁際の武器掛けから木剣を二本抜き、短いほうを渡した。
その一本は、サリナが自分で削ったものである。リナムーアが背負う剣と同じ長さに揃え、重さも手で確かめながら近づけてあった。葉を切る鉄のナイフしか持たなかったころの打ち合いとは、稽古の中身が変わっている。いまは、背の剣をどう扱うかを確かめる時間だった。
リナムーアは木剣を背の入れ物へ上から落とし込み、留め金を閉じた。
「いつでもいいわ」
「はい」
小さな右手が、肩越しに上がった。柄を握って前へ引くと、留め金が続けて外れ、合わせ目が開いて木剣が横へ抜ける。手が柄に触れてから切っ先が前を向くまで、どこにも引っかかりが無かった。
振り下ろした木剣が、土の手前で止まる。そこから切り返して、同じ高さでもう一度止まった。戻すときも、上から落とし込んで留め金を閉じるまでが一息で済む。
抜く、止める、戻す。どれにも、サリナが手を添えるところは残っていなかった。直すところを探して見ていても、見つからない夜が続いている。
「次は、打ち合いね」
サリナは木剣を下ろしたまま、正面に立った。
リナムーアが踏み込んでくる。速さだけなら、もう子供のものではない。サリナは一歩引いて斜めへ体を外し、振り下ろされた木剣の外側から、細い腕を軽く打った。
三度繰り返して、三度とも同じところを打った。
身体強化は、稽古を始めた晩に一段上げたきり変えていない。それで、まだ足りている。
「今夜は、ここまでにしましょう」
「はい」
サリナは足元の土に目を落とした。
小さな靴の跡が三つ、並んで付いている。踏み込んだ足のつま先が深く沈み、踵のほうは浅い。
この跡を、サリナは毎晩見てきた。稽古を始めたころは、晩ごとにわずかずつ前へ出ていった。剣に替わった直後には、間合いが変わったぶん、一度に大きく前へ移った。そこからまた少しずつ出ていくものと思っていた。
跡は、ひと月前と同じところに付いている。
前にも、似たことがあった。裏庭の走路で、走れる本数が三日で伸びて、そこで止まった。伸びが止まるのは悪いことじゃない、体のほうが追いつくのを待っているの、とあのときは言って聞かせた。言ったとおり、ほどなくまた伸びた。
同じ言葉は、今度は出てこなかった。ひと月は、待っていればいいと言える長さではない。しかも、持つものが替わったばかりの体である。いちばん動いていいはずのときに、足だけが止まっている。
理由を探しても、サリナの知っていることでは何も説明がつかなかった。
リナムーアは木剣をサリナへ返すと、訓練場の端へ歩いていった。
走路で止まったときでさえ、あと四本走らせてください、と食い下がった子である。今夜は、もう一本とは言わなかった。かといって、焦っている様子も無い。
小さな背は、柱の灯りが届くところを過ぎて、木立の手前で止まった。その先は、幹と夜の区別もつかない暗がりである。リナムーアはそちらへ顔を向けたまま、しばらく動かなかった。
このところ、稽古の終わりには決まってこうしている。
サリナは声を掛けなかった。木剣を二本とも武器掛けへ戻して、背が振り返るのを待った。
やがてリナムーアは振り返り、頭を下げて、宿舎のほうへ戻っていった。
▽ ▽ ▽
ギルド長室の窓は、もう暗かった。
机の上に、紙の束が置かれている。ミオが窓口から運んできた、区域の書き付けだった。毎朝リナムーアが出していく一枚で、その日に入る区域と、使わない区域に印が付けてある。溜まった束は、指の幅ほどの厚みになっていた。
「ひと月になるな」
オグマが、束の端を指で揃えた。サリナとミオは、机の手前に並んで立っている。
「書かせると決めたのは俺だ。書かせた以上、いざというときに役に立つかどうかは、確かめておかなきゃならん」
オグマは、上から一枚ずつ机に並べていった。
並べるたびに、使わない区域の印が違うところに付いている。日陰側に寄った日があり、浅層の境のすぐ近くまで下りてきた日があり、離れた二か所に印のある日もあった。
十枚ほど並べたところで、オグマの手が止まった。
「一つところに居座る相手なら、紙の上で線を引いて囲っておけばいい。その内側には入らない。それで話は済む」
太い指が、印から印へ移っていく。
「だが、これは毎日動いている。昨日引いた線は、今日はもう役に立たん。……動くものは、囲めん」
オグマは並べた紙から顔を上げた。
「ミオ。怪我のほうは、どうだ」
「一度もありません」
答えに、間は無かった。
「納品を受けるときに、袖から出た腕と、首のあたりを見ています。擦り傷もありません」
ミオは、品を数えるより先に体を見る。浅層へ通うようになる前から変えていない手順で、そのミオが、一度も無いと言っている。
サリナは、窓口の台帳の余白を思い浮かべた。依頼を受けずに倒した魔物を、ミオは欄の外へ横向きに書き入れている。コボルトの行は頁の端を縦に埋めるほどになっていた。
額のほうは、取るに足りない。全部を足しても、ミド草の一日の納品に届かない。
怖いのは、数のほうだった。前衛と弓を揃えた三人でさえ、浅層で怪我人を出している。同じ場所で、三つの子供が一人で群れを相手にし、擦り傷一つ無く戻ってくる。
オグマはしばらく、並べた紙を眺めていた。
「あの子が探しているのは、あれだろう。忘れない一体だ」
サリナは答えなかった。答えられるだけのことを、聞いていない。
ただ、訓練場の端で暗がりへ顔を向けていた背中が、頭に浮かんだ。あの子が見ていたのは、木立ではないのかもしれない。そう考えれば、毎晩のことにも筋が通る。
オグマは並べた紙を一枚ずつ重ねて、束に戻した。
「この紙は、あの子が戻らなかった日のために書かせている。子供が一人で浅層へ通っていると知っていて、毎日その納品を受けているのは、うちの支部だ。戻らなかったときに何も備えていなかったでは、済まん」
声の調子は、さっきと変わらなかった。
「サリナ。この紙だけで、捜しに出られるか」
サリナは束を見た。区域の印はある。だが、浅層の境から日陰側と日向側へ広がる範囲は、印の付いた一つに絞っても、人を入れて歩かせれば一日では足りない。誰を出すのか。どこから入り、どこまで確かめて引き返すのか。そこは、どの紙にも書かれていない。
「足りません」
「なら、足りるようにしておいてくれ。誰を出し、どこから入って、どこで引き返すか。ほかの者が区域を届けてきたときにも、そのまま使える形でいい」
「分かりました」
オグマは、それ以上は言わなかった。
ミオが束を受け取って、胸の前に抱えた。
▽ ▽ ▽
翌日の夜も、柱に灯りが入った。
抜いて、止めて、戻す。打ち合いは三度で終わり、三度ともサリナの木剣が同じところを打った。リナムーアは木剣をサリナへ返すと、昨夜と同じように訓練場の端へ歩いていった。
サリナは木剣を二本とも武器掛けへ戻してから、そのあとを追った。
隣に並んでも、リナムーアは振り向かなかった。サリナも何も言わずに、同じほうへ目を向けた。
灯りの届く縁の先には、木立が黒く重なっているだけだった。風が少しあって、どこかで葉の擦れる音がした。ほかには、何も無い。
しばらくして、腰のあたりの高さから、小さな声がした。
「……数えています。まだ、見つからないものを」
それきり、言葉は続かなかった。
何を、とサリナは聞かなかった。聞かなくても、見当はついている。紙の上で、印を動かし続けているもの。昨夜、ギルド長が名指ししたものだ。
「そう」
それだけを返した。
リナムーアは、まだ暗がりのほうを向いている。
やがて小さな背が向きを変え、頭を下げて、宿舎のほうへ戻っていった。
サリナは、その場に残った。
さっきまでリナムーアが見ていたほうへ、もう一度目を凝らす。灯りの縁で、木立の幹が途切れている。その先は、どれだけ見ていても、暗がりのままだった。




