第35話 誂え(あつらえ)
朝の納品窓口は、まだ人がまばらだった。
リナムーアは台の縁に両手を掛けて、内側のミオを見上げた。
「預け入れから、五千ムーアを下ろしたいです」
ミオの手が、台帳の上で一拍だけ止まった。
何に使うのかは、聞かれなかった。昨日の夕方、工房の場所と値を教えてくれたのはこの人だ。額を聞けば、用途はミオにも分かるはずだった。
ミオは台帳の行を指でたどってから、奥の棚へ立った。戻ってきた手が、台の上に銀貨を一枚ずつ置いていく。
「五千ムーアです。お確かめください」
台の上に、五枚の銀貨が並んだ。
納品のたびに額を告げられ、預け入れの欄へ数字が書き足される。それを毎日、この台の前で聞いてきた。数字は増えていくものだった。減らしたことは、一度もない。
稼いだ金を、自分の手で動かす。ここへ来てから、それをするのは初めてだった。
リナムーアは五枚を順に摘み上げて、腰の硬貨入れへ落とした。革の内側で、硬貨の重なる小さな音がした。
「何を買うのかしら」
声は、受付の側から来た。帳面を抱えたサリナが、こちらを見ていた。
「整形の器です。東側の通りの工房で、誂えてもらいます」
サリナは、すぐには返事をしなかった。帳面の角を指で押さえたまま、視線が一度だけリナムーアの腰へ下りる。弾入れの下がっているあたりだった。
「……弾にするの」
「はい」
サリナは小さく頷いて、それきり何も足さなかった。二又の枠と固い帯を選んで、撃ち方を教えてくれたのは、この人だった。
▽ ▽ ▽
区画の門を抜けて、東側の通りに入った。
朝の通りは荷車の行き来が多く、軒先の看板が頭の上を次々に過ぎていく。ミオに言われた目印は、看板ではなかった。
樽を積んだ店の隣で、リナムーアは足を止めた。戸の高いところに、掌ほどの木の板が打ち付けてある。板の面には、細い線が幾筋も刻まれていた。
図書館の作例集や職人の手引きで見たのと、同じ種類の線だった。何の魔術式かまでは分からない。それでも、ここで何を作っているのかは、それだけで分かった。
戸を押すと、油と金物と、石の粉の混じった匂いがした。
土間の奥に作業台があり、女が一人、背を丸めて屈み込んでいた。片手に持った水晶を、顔の片側へ当てている。台を照らす灯りは手元だけに寄せてあって、明るい部分は板一枚ぶんほどの広さしかない。
「誂えなら、先に名前を聞いてる」
顔を上げないまま、早口の声が返ってきた。
「リナムーアです。冒険者ギルドのミオに、ここを教わりました」
水晶が下りた。
女は椅子ごとこちらへ向き直りかけて、そこで目を止めた。白い髪に一度、赤い目にもう一度。
二拍ほど、何も言わなかった。
それから椅子の向きを変え終えて、作業台に肘を置いた。
「ウェスカだ。ここは、あたし一人でやってる。ミオの紹介なら、話は聞く。何が要る」
髪のことも目のことも、ウェスカは口にしなかった。見たものは見たうえで、商売の話の外へ置いたのだと分かった。
「石を入れると、揃った玉にして出す魔道具が欲しいです」
「整形の器か。よく組む型だ。煉瓦も瓦も、土をあれで抜いてる」
「値は、どれくらいですか」
「銀貨五枚」
リナムーアは頷いた。
ウェスカの眉が、少しだけ上がった。
「驚かないね。値を聞いてきたのかい」
「はい。ミオから」
「なら、何に払うのかも言っておく」
ウェスカは作業台の端から、線の彫られた板を一枚取って、こちらへ向けた。
「魔術式集に載ってる働きを、客の注文どおりに動く形へ組む。組んだら、板へ彫る。いちばん手が掛かるのは、魔石に触れる汲み口だ。髪より細く彫らなきゃ、魔石から汲めない。組むのも彫るのも、あたしの手間だ。整形の器なら、それで五枚になる」
指の腹が、板の線を横へなぞった。
「新しい紋様や魔法文字を探すのは、王都の連中の仕事だ。あたしは探さない。あるものを組んで、注文どおりに動くようにする。それが、あたしの仕事さ」
リナムーアが本で読んできた魔術式も、この人の手を通って、初めて動く物になる。
「数と大きさは、こっちで魔術式へ組む。あとからは変えられないから、いま決めな」
「出す数は、二十。大きさは、直径で二センチです」
ウェスカの手が、板の上で止まった。
「二十で、二センチ」
確かめるように繰り返してから、ウェスカはもう一度こちらを見た。今度の目は、髪にも目にも行かなかった。
「たいていの客は、数も大きさも言わない。そっちで適当に、で済ませる」
「揃っていないと、当たりません」
何に当てるのかを、ウェスカは聞かなかった。鼻から短く息を抜いて、作業台の木炭を取る。板を裏返し、何も彫られていない面に数字を二つ書いた。口の端が、わずかに上がっていた。
「使い方を言っとく。石を入れて、蓋をして、石座に魔石を嵌める。それで、入れたものがまとめて二十の玉になる。済めば、勝手に止まる」
「石は、一つでなくていいのですか」
「欠片でも砂利でも構わない。量さえ足りればね。足りなければ数が揃わないし、余れば粉になって底に残る」
「魔石は、どれくらい保ちますか」
「ゴブリンの魔石一つで、百回は動く」
リナムーアは、そこで言葉に詰まった。
ゴブリンの魔石で灯せるのは、小さな光を一分ほどだと、ミオから聞いている。百回では、桁が合わない。
「……灯りなら、一分だと聞きました」
「ああ、そこが気になるのかい」
ウェスカは木炭を置いた。値の話をしていたときより、口が速くなった。
「灯りってのは、そこに無かった光を出してるんだ。しかも点けてるあいだは、ずっと出し続けてる。無いものを出し続けるのが、いちばん魔石を食う」
指先が、作業台を軽く叩いた。
「こいつは逆だ。石はもう、そこにある。やるのは形を変えることだけで、それも瞬きひとつのあいだに終わる。変わったあとの形を保ってるのは、石のほうだ。だから、ほとんど食わない」
無いものを出すのか、あるものを変えるだけなのか。働き続けるのか、一瞬で終わるのか。灯りはどちらも高くつく側にいて、整形の器はどちらも安く済む側にいる。
「分かりました。お願いします」
「四日か五日で仕上げる。代金は先に置いていきな」
リナムーアは硬貨入れから銀貨を出して、作業台へ一枚ずつ並べた。台の高さに腕が届ききらず、置くたびに指先が板の縁を擦った。
ウェスカは、五枚が並び終わるまで黙って見ていた。それから五枚を指でまとめて寄せ、作業台の引き出しへ落とした。
「受け取った。五日目の夕方なら、まず済んでる」
▽ ▽ ▽
仕上がりを待つあいだも、森へは出た。
撃つ日が続き、弾入れは日ごとに軽くなった。採集袋が満ちないうちに口を閉じる日もあった。
五日目の帰り道、リナムーアは草原の窪みの縁で膝を落とした。
腰には、今朝から袋をもう一つ下げている。弾入れとは別の、整形の器に入れる石を集めるための石入れだった。
窪みの底へ手を入れて、触れたものを掴んだ。丸いかどうかは見なかった。重心も確かめない。指の間からこぼれる砂ごと、石入れへ落とす。もう一度掴んで、また落とす。
五か月のあいだ、ここで屈むたびに、底の石を一つずつ確かめて選んできた。その手が、今日は選ぶ前に石入れへ戻っていた。
立ち上がるまでに、いくらもかからなかった。
魔境側の大門をくぐって納品を済ませてから、区画の門を抜けて、東側の通りへ回った。
工房の戸を押すと、ウェスカが作業台の上の布を取った。
「できてる。持てるかい」
リナムーアは両手で抱えて持ち上げた。水を満たした桶ほどの重さが、腕に掛かる。抱えて歩けないことはない。それでも、背負って森を行く物ではなかった。
「持てます」
「使い終わったら、魔石は外しておきな。嵌めたままだと、次に石を落としたとたんに動き出す」
ウェスカは整形の器の縁を、指の背で軽く叩いた。
「それと、底に残った粉は捨てなくていい。次に入れた石と一緒に、また玉になる」
「はい」
リナムーアは整形の器を胸の前に抱え直して、戸を出た。宿舎に着くまで、一度も下ろさなかった。
宿舎の部屋に戻ると、卓の上に整形の器を置いた。
石入れの口を開けて、一度に使うぶんほどを、整形の器の口へ落とす。大きいもの、角の立ったもの、平たいもの。これまで拾わずに、窪みの底へ残してきた石ばかりだった。
蓋を被せた。魔石入れから魔石を一つ出して、石座へ嵌める。
ひと呼吸ほどの間があった。
中で、何かが擦れ合うような音が一度だけした。それきり、静かになった。
石座から魔石を外し、魔石入れへ戻してから、蓋を開けた。
底に、灰色の玉が寄り集まっていた。
一つ摘み上げて、指の間で転がす。どこにも引っかからない。もう一つ取って、掌に並べた。二つを入れ替えてみると、どちらがどちらだったのか、もう分からなかった。
前世では、袋に詰めて売っている物だった。ここでは、帰り道の窪みの底にあったものから出来ていた。
残りの石でもう一度動かすと、弾入れは口まで埋まった。整形の器の底には、灰色の粉が薄く残っていた。
▽ ▽ ▽
それから数日で、朝の手順が一つ減った。
大門を出る前に、弾入れの口を開けなくなった。中身は毎晩、整形の器で口まで埋めてある。数える必要が無かった。帰り道の窪みでは、屈んで掴み、立って歩き出すまでが、ひと続きの動きになった。
窓口の数字は、四千に戻った。ミオは額を告げて、台帳に書き入れた。それ以上は何も言わなかったし、リナムーアも何も言わなかった。
戻らないものも、あった。
『空識』の下絵には、毎日いくつもコボルトの影が乗る。そのどれが、三人を逃がしたあの日に藪へ消えた一体なのかは、まだ見分けがつかなかった。
その夜も、卓の上で整形の器を二度動かした。
弾入れの口を締めてから、リナムーアは椅子に膝を乗せて、蓋を閉じた整形の器に向き直った。壁の灯りは、低く落としてある。目で見るためではなかった。
下絵の狙いを、整形の器へ寄せた。
金属の内側に、線が返ってきた。
石座の窪みの底から、一本の線が出ている。魔石に触れる端だけが、ほかよりずっと細い。そこが汲み口で、線はそこから蓋の裏の側へ真っ直ぐに延びていた。途中に楔が一つある。流れは、そこから先へしか進まない。
その先で、線は幾つかに分かれていた。分かれた先が集まるところに、魔法文字が一つ置かれている。中の物を何へ変えるのかを決めている文字だった。
文字の脇に、短い刻みが二組並んでいた。一組は二十を、もう一組は二センチを示している。ウェスカが木炭で書いた二つの数が、ここに入っていた。
それで、全部だった。
リナムーアは、汲み口からもう一度たどり直した。一本の線、楔、枝分かれ、文字、刻み。どこにも、知らない紋様は無い。
難しくない、と思った。
図書館の魔術式集で読んだ灯火の魔術式も、骨組みは同じだった。流れを細め、一方へ通し、最後に何へ変わるかを文字で決める。整形の器は、そこに枝分かれと刻みが加わっただけだった。
組み方なら、読める。
難しいのは、その先だった。
汲み口のあの細さを、板へ彫る。ウェスカは水晶を顔に当て、手元だけの灯りの中でそれをしていた。人の目では、そうしなければ見えない細さだ。
リナムーアは、右の掌を灯りへかざした。
武具店の土間で、剣の刃を地面から指二本ぶんのところで止めた手だった。止めると決めたところで、刃は止まった。
細さは読める。手は止まる。紋様の意味も、覚えている。
足りないのは、彫るための道具と、彫り方を教わる当てだった。
そこまで並べて、リナムーアは掌を下ろした。
整形の器の蓋に、指先を置いた。冷たい金属に、少しずつ手の温みが移っていく。
しばらくそうしてから、卓の端に寄っていた整形の器を、両手で真ん中へ引き寄せた。寝台からでも、そのまま見える位置だった。
壁の灯りを消した。




