第34話 不足(ふそく)
納品窓口の台に、紙を一枚置いた。
昨夜、ギルド長から渡された白い紙だった。使わない区域と、使う区域。浅層の境に沿って割った範囲のうち、今日入るところに印を付けてある。
ミオは紙を受け取り、端に日付を書き入れた。
「預かります」
「はい。お願いします」
門灯までに戻らない日があれば、支部はこの紙を頼りに捜しに出る。その手間を、今日からは毎朝預けていくことになる。
頭の中の勘定が、ひとりでに動いた。斡旋の手数料。寝台の脇で看てもらった日々。部屋と食事。枠と帯と、背中の剣。その下に、もう一行が足される。
どこまで並べれば終わるのかは、相変わらず見えなかった。
魔境側の大門を出る手前で、弾入れの口を開けた。指で寄せて数え、その数を頭に置いてから紐を締める。昨夜、宿舎の卓で数えたのと同じ数だった。
浅層の境を跨いでからは、下絵を読みながら歩いた。
『空識』の下絵は、半径百メートルの縁まで途切れずに届いている。幹の並びと藪の塊のあいだに乗っているものを、一つずつ数えて進む。
日陰側の縁に、影が四つ入った。
四つは、揃って向きを変えた。間隔が崩れ、先頭が鼻を上げる。
以前なら、ここで進路の外へ回り込んでいた。それはもう、やめると決めている。回り込んでも、次の群れが来るだけだ。
リナムーアは手近な藪の裏で膝を落とし、弾入れから一つ摘み上げた。帯へ当てて、頬まで引く。
撃つのは、三人を逃がしたあの日以来だった。
四つは扇のように開いて、間を詰めてきた。下絵の上で、先頭の影が五十メートルを切る。四十。藪の切れ目から、捲れた唇と、白いだけの目が覗いた。
先頭の額へ、一つ目を放した。
当たったのは、足を前へ出した最中だった。体がそのまま前へ崩れ、後ろの二つがそれに足を取られて間が空く。そのあいだに、二つ目と三つ目を入れた。最後の一つは横へ逸れて回り込もうとしたが、走る先へ置いた四つ目で止まった。
下絵を端まで数えた。縁の内側で動いているものは、もう無い。
倒れた四体は、黒い霧になってほどけていった。残った魔石と一緒に、弾も四つとも、倒れたあたりの草の中で拾えた。
▽ ▽ ▽
昼を回ってから、リナムーアは窪地の縁に沿って日陰側へ歩いていた。
草の株は、窪地の向こう側の斜面に固まっていた。歩きながら、下絵の狙いをそちらへ寄せていく。葉の厚みの内側に、細い管が網のように走っているものが当たりだ。一株ずつ読んで、当たりの並びを頭に置いていく。
正面の三つに気づいたのは、三十メートルまで来られてからだった。
下絵には、もっと前から乗っていたはずだった。縁は今日も途切れずに届いている。ただ、乗っているものを一つずつ数えるのは、そちらへ意識を向けているときだけだ。朝は、それを歩きながら続けていた。いまは、そのぶんを株のほうへ回していた。
目には入っていた。読んではいなかった。
藪まで下がる間は無い。その場で膝を落とし、弾を帯へ当てた。
先頭が二十メートルまで来たところで、額に入った。前へ出た足が流れて、体が横へ倒れる。
二つ目は、倒れた仲間を見て横へ跳んだ。放った弾は、肩の上を抜けていった。
次の弾を当てて、引く。頬まで引ききる間が、さっきより短い。跳んだ先へ置くように放すと、側頭部で止まった。
三つ目は、もう十メートルを切っていた。
一発目は喉の下へ逸れた。足は止まらない。白いだけの目が、すぐそこまで来ている。二発目を額へ入れて、ようやく地面が鳴った。
スリングショットの帯を戻さないまま、下絵を端まで数えた。
縁の内側で、ほかに動いているものは無い。仲間を呼ぶ声も、上がっていなかった。上がっていれば、その場で浅層の境を跨ぐ。サリナとは、そう約束している。
息を吐いて、帯を戻した。
当たった三つの弾は、コボルトが倒れたあたりの下草で拾えた。外した二つは、見つからなかった。肩の上を抜けた弾も、喉の下へ逸れた弾も、飛んだ先は下草のどこかだ。見当を付けて探っても、そこには何もなかった。
十五分探して、手の中にあるのは当たった三つだけだった。探したぶん、株の前に立つ時間が削れている。
その日の採集袋は、刻限が来たところで、満ちないまま口を閉じた。
▽ ▽ ▽
撃つ日が続いた。
倒すことには、日ごとに慣れていった。頭のどこへ入れれば止まるかは分かっている。株を読む合間にも、下絵を数え直すようになった。
減っていくのは、弾のほうだった。
当たった弾は、倒れたあたりに落ちる。外した弾は、どこへ行ったか分からない。撃ったぶんの半分ほどしか、弾入れへは戻らなかった。
足りないぶんは、帰り道に足してきた。草原の窪みの底へ下絵の狙いを寄せて選ぶ。丸いこと。重心が真ん中にあること。大きさが揃っていること。三つが揃ったものだけを拾う。
その窪みに、拾えるものがほとんど残っていなかった。
五か月、同じ窪みで拾い続けてきたのだ。底に残っているのは、丸くないもの、重心の寄ったもの、一回り大きいか小さいものばかりだった。道から外れた窪みまで足を延ばせば、まだあるのかもしれない。それをする時間は、無かった。
ある日、一回り大きい丸い石を、試しに三つだけ拾って入った。
三十メートルで撃った一つは、狙った額を大きく外した。続けて元の弾を放つと、同じ狙いで額に入った。
引き方は同じだった。違ったのは、弾の重さだけだ。重さが違えば、同じ引き方で同じところへは行かない。前世で数字としては知っていたことを、外して初めて実感した。
残りの二つは、帰り道に窪みへ返した。
それから幾日か経った日、二つ目の群れを撃ち終えて、弾入れの中を数えた。
十五だった。
帰りに一つの群れを相手にするぶんは、残すことにしてある。もう一つ相手にすれば、そこへ食い込む。
採集袋は、半分にも届いていなかった。リナムーアは口を閉じて、浅層の境のほうへ向きを変えた。決めてきたとおりの戻り方だった。
▽ ▽ ▽
翌朝、区域の書き付けを持って納品窓口へ行くと、台の前にあの時の三人がいた。
ミオが台の内側から、畳んだ採集袋を出したところだった。畳んであっても、嵩で大きいほうだと分かる。
「大きいほうで、よろしいんですね」
依頼票に判を押しかけた手を止めて、ミオが聞き直した。
「頼む」
答えたのはハーゲンスだった。依頼票は、外縁部の採取のものだ。ノエがその横に立ち、クレイルは一歩下がったところにいる。体の前へ下ろした左手の、薬指と小指は、半ば開いた形のまま動いていない。
リナムーアは書き付けを持って、台の端で待った。
先に顔を向けたのは、ノエだった。
「昨日の夕方、大門で見た。採集袋が、軽かった」
それだけだった。何があったのかとは聞かない。見たものを、そのまま置いただけの言い方だった。
黙っていれば、それで済む話ではあった。けれども、置かれたものを置かれたままにしておく理由も、見つからなかった。
「……コボルトが、向かってくるようになりました」
リナムーアは、書き付けを台へ置いた。
「前は、通り過ぎていきました。いまは、こちらへ来ます。そのたびに撃つので、そのぶん採れません」
ミオの手が、依頼票の上で止まった。
クレイルの左手が、わずかに上がった。
「……あの日からか」
声は低かった。
「あの日、あんたは群れをやり過ごしていた。そこへおれたちが入って、あんたが撃った」
一つずつ順に並べる言い方だった。
「向かってくるようになったのは、おれたちのせいか」
「分かりません」
嘘ではなかった。繋がっていると確かめたわけではない。
ただ、勘定の合う形は一つしか思いつかなかった。あの日、藪へ消えた一体が、こちらのことを群れから群れへ伝え歩いている。それを口にすれば、なぜそんなことが分かるのかを、続けて話さなければならなくなる。
「分からんのか」
「……はい」
クレイルは、それ以上は押さなかった。代わりに、半歩だけ台のほうへ寄った。
「何をすればいい」
ハーゲンスが、言葉を継いだ。
「金でも、手でもいい。俺たちに出せるものなら、言ってくれ。出せないものなら、そう言う」
「浅層へは、行かない」
ノエが短く足した。出せないものを、先に一つ分けておく言い方だった。
返さなくていいです、と言いかけた。
口の途中で止まった。同じことを、ひと月ほど前にクレイルへ言っている。返ってきたのは、それでは納得できないという言葉だった。おれの側の話だ、とも言われた。もう一度言っても、同じ返事が返ってくるだけだ。
「……撃つものが、足りません」
自分の声が、思ったより小さかった。
「弾か」
ハーゲンスの眉が動いた。
「はい。拾うぶんより、撃つぶんのほうが多いんです。近くの窪みには、もう選べる石が残っていません」
ハーゲンスは少し黙ってから、背の矢筒を親指で示した。
「店で買えば、矢は一本二十ムーアだ。射れば、半分は戻らない」
矢筒の縁を、指で一度叩く。
「だから、俺は買わない。柄は自分で削るし、羽も自分で付ける。鏃だけは鍛冶に頼むが、まとめて打たせれば安く上がる。消耗品は、買うものじゃない。作るものだ」
「そういう目で見る癖が付いてるから、覚えてた。弾を撃つ男を、一人だけ知ってる。同じ依頼で、何度か顔を合わせただけだが」
ハーゲンスは、思い出す目つきになった。
「あいつは石を拾ってなかった。袋から出してた。どれも同じ大きさで、同じ丸さだった。聞いたら、石を入れると玉にして出す器を持ってる、と言ってた」
リナムーアは、声が出なかった。
「ただ、そいつは誂え物だ。矢は手で作れる。玉を作る器は作れない。誂えるしかないものは、俺たちの側の話じゃない。……値も知らん」
リナムーアは、立ったまま考えていた。
前世にも、スリングショットはあった。撃つための弾は、鋼の粒が袋に詰めて売られていた。だから、買うという道は初めから頭にあった。
それを消したのは、こちらへ来てからだ。ここでは、鉄は掘って、運んで、火に入れて、ようやく人の手に届く。剣一振りの値も、首に下げたギルドカードの材料も知っている。撃って草の中へ捨てるものに、金属は使えない。
だから、拾うことにした。その判断は、間違っていなかった。
間違っていたのは、そこで考えるのをやめたことだった。
買うか、拾うか。二つしかないと思い込んでいた。拾った石を、揃うように作り直す。その三つ目は、前世の知識には無かった。無かったから、探しもしなかった。
石なら、どこにでもある。
「困りごとが、一つ減ったか」
クレイルの声だった。
「……はい。ありがとうございます」
クレイルは頷きもしなかった。下ろしたままの左手の指が、一度だけ動いた。
ハーゲンスが判の押された依頼票を受け取り、ノエが畳んだ採集袋を肩へ担いだ。三人は扉のほうへ歩いていく。
扉の手前で、ハーゲンスが一度だけ振り返った。
「三分の一より先へ、行ってくる」
▽ ▽ ▽
夕方、門灯にはまだ間のあるうちに、リナムーアは納品窓口へ戻った。
朝の人の出入りは引いて、台の前には誰も並んでいなかった。
ミオが採集袋の口を解き、葉を判別機へ流していく。受け皿から秤へ移して、額を告げた。
「預け入れへ、足しておきます」
「はい」
ミオが台帳へ数字を書き入れるあいだ、リナムーアは空になった採集袋の紐を手に巻いたまま、台の前を離れなかった。
聞きたいことがあった。朝から、ずっとそのことを考えていた。
聞けば、教えてもらうことになる。教えてもらえば、勘定にまた一行が増える。ここへ来てから、頼まずに済むように動いてきた。自分から何かを頼んだことは、数えるほどしかない。
それでも、弾はここへ毎日納めるための道具だった。足りないまま黙っていれば、台帳の数字が落ち続ける。
「あの」
ミオが顔を上げた。
「聞きたいことが、あります。……石を入れると、揃った玉にして出す器があると、朝に聞きました。どこへ行けば手に入るか、ご存じですか」
「整形の器ですね」
答えは、探す間もなく返ってきた。
「土や石を決まった形に揃えて、幾つも出す魔道具です。同じ形の物がたくさん要るところなら、どこでも使っています。石を玉にするのも、同じ式で組めます」
ミオはペンを置いた。魔道具の話になると、ミオの言葉には迷いが無い。
思えば、初めて森へ出た朝からそうだった。杖を携えて現れ、足元を照らす光の球を、目も向けずに肩先へ浮かべていた。あれは魔術ですらないただの魔法だと、事もなげに言った人だ。魔法と魔術と魔道具の違いを、この人は自分の手の内のこととして知っている。
「……高いですか」
「誂えるなら、銀貨で五枚は見ておくものです」
ミオは、そこで一度言葉を区切った。
「Eの方が誂える物ではありません」
払えるかどうかを、ミオは聞かなかった。預け入れの数字を毎日書き入れているのは、この人だ。
「心当たりがあります」
ミオが続けた。
「魔道具を誂える工房が、隣の区画の、東側の通りにあります。看板は出していませんから、戸に打ってある見本の板を目印にしてください」
そこで、ミオは少しだけ間を置いた。
「私の名前を出していただいて、構いません」
リナムーアは、返事をするのに一拍かかった。
また一つ、増えた。
工房の場所と、値と、名前。聞いたのは場所と値だけだったのに、ミオは名前まで出してくれた。名前を貸すというのは、行った先でこちらが何かをしでかせば、ミオの名に傷が付くということだ。それだけのものに、何を返せば釣り合うのか。
勘定を始めかけたところで、ミオの顔が目に入った。
ミオは、もう台帳のほうへ目を戻していた。何かを待っている顔ではなかった。名前を出していいと言ったことさえ、もう済んだことのようだった。
前にも、この顔を見ている。
部屋も資料室も、借りているものだと思っていた頃のことだ。ミオは、支部が出して当たり前のものとして通っている、と言った。あのときは、支部の決まりを説明しているのだと聞いた。決まりなら、決まりの外で返せばいい。そう思って、数え続けてきた。
違ったのだ。
あれは、決まりの説明ではなかった。ミオという人が、本当にそう思っている。出せるものがあれば出す。出したものの代わりを、初めから求めていない。サリナも、ギルド長も、ずっとそうだった。
どこまで返せば済むのか。その線を、ずっと探してきた。預け入れの数字が手数料の何倍になっても、見つからなかった。返し終わったらどうするのかと辺境伯に問われて、終わりがまだ見えないと答えた。
見つからなくて当たり前だった。線は、初めから誰も引いていない。引こうとしていたのは、自分だけだった。
自分の側だけの問題だったのだ。
それなら、これからどうするのか。
考えてみても、特別なことは何も出てこなかった。森へ出て、採集袋を満たして、ここへ納める。訓練場で剣を振る。聞かれたことに答えて、頼まれたことをする。自分にできることを、できるだけでやっていく。それで応えていけばいい。
長いあいだ胸の奥で張っていたものが、音もなく緩んだ。
「……ありがとうございます」
それだけを言った。返します、とは続けなかった。
ミオが顔を上げて、小さく頷いた。
「はい」
ミオは台帳へ目を戻し、今日の欄の続きを書き入れていく。
リナムーアは手に巻いていた紐をほどき、空の採集袋を畳んだ。大きいほうの採集袋は、畳んでも両腕に余る。それを胸に抱えて、ホールの扉へ向かった。
背中のほうで、ペンが紙の上を走る音が、途切れずに続いていた。




