第33話 数(かず)
魔境側の大門をくぐったとき、門灯はまだ点っていなかった。
背中の採集袋は、口まで届いていない。届く前に、樹縁を出ると決めていた刻限が来たからだ。
一日に余る時間は、もともと十分ほどしかない。コボルトの群れの進路の外へ出て、通り過ぎるのを待てば、それだけで尽きる。今日は、それが三度あった。
納品窓口で、ミオが判別機に葉を通し、秤へ移した。
「三千六百ムーアです。預け入れへ足しておきます」
「……すみません。今日は、口まで届きませんでした」
ミオのペンが、台帳の上で止まった。
「謝ることでは、ありません」
そう言われるのは、分かっていた。
預け入れの数字は、とうに斡旋の手数料の何倍にもなっている。それでも、どこまで返せば済むのか、その線をリナムーアはまだ自分の中に引けていなかった。
ミオは判別機の蓋を閉じ、台帳の今日の行へ数字を書き入れた。四千の並びは、そこで途切れた。
▽ ▽ ▽
翌日も、勘定どおりの刻限に浅層の境の手前へ着いた。
『空識』が返してくるのは、色も音も無い粗い下絵だけだ。半径百メートルの内側で、幹の並びと藪の塊と、窪地の起伏が輪郭になって並ぶ。その上に、動く影が乗る。
日陰側寄りに四つ。六十メートル。先頭が一つ、その後ろに二つ横並び、最後に一つ。間隔を変えずに奥の日向側へ流れていく、コボルトの歩き方だった。
リナムーアは群れの進む先を頭の中で辿り、その進路の外へ出た。三十歩ほど離れて、低木の陰でしゃがむ。
これまでなら、それで済んだ。鼻がひくついて首がわずかに傾き、群れはそのまま行ってしまうはずだった。
ところが、影は、揃って向きを変えた。
間隔が崩れた。先頭の一つが鼻を上げ、後ろの二つが横へ開いていく。扇のように広がったまま、間を詰めてくる歩き方だった。速い。歩くというより、走る前の形だ。
(……まさか)
あの日を境に起きたことが、頭をよぎる。その時、リナムーアから手を出していなかったが、コボルトは彼女のことを狩る相手として数に入れていた。それでも、その状態は収まったはずだった。しかし、今まさにこちらを狙った動きをしていた。
弾入れの口へ指が行きかけて、止まった。撃つのは、必要な時だけ。そう決めたはずだ。リナムーアは低木の裏へ回り、身を低くしたまま、藪伝いにコボルトから距離を取った。
影が下絵の縁から消えるのを待って、元の場所まで戻ったときには、今朝の計画にあった残りの時間は無くなっていた。
その日の採集袋は、八分目で口を閉じた。帰り道でもう一度回り込むことになるかもしれない。そのぶんを、先に引いておいた。
▽ ▽ ▽
翌日から、リナムーアは頭の中の地図を引き直した。
浅層の境に沿って日陰側と日向側へ一時間ぶんずつ、向かってこられた区域に地図の印を付けていく。あの事件のあとにも同じことをした。あのときは、五日で地図の印が消えた。
だから今度も五日を数えた。
四日目に、緩みが出た。顔を向けた一体が、向けたきり動かない。数歩寄って止まり、群れの進路へ戻っていく。以前と同じ順序だった。
六日目、その区域の群れは、リナムーアの前を景色として通り過ぎた。
地図の印は、たしかに消えた。
しかし、消えたその隣が、駄目になっていた。
奥へ二十分ほど寄った窪地で、四体がこちらへ向きを変えた。前の日まで、そこでは景色のままだった。翌日は、また別の場所が駄目になった。
(……広がっているんじゃない。動いている)
毎日場所を変えながら、こちらのことを伝え歩いているものがいる。
こちらを数に入れた群れが五日で忘れるのは、前に確かめたとおりだ。忘れる速さは変わっていない。だとすれば、いま起きていることは、伝える起点がいることを示していた。
起点が一度伝えたきりなら、地図の印は前と同じように五日で消える。伝え続けながら動いていれば、忘れた区域の隣に、新しい印が点く。
それを証明するかのように、迂回が必要な数は、日ごとに増えた。採集袋は半分で閉じる日が続いた。
窓口の台帳では、下がっていく数字が続いていた。ミオは数字だけを書いて、何も言わなかった。
▽ ▽ ▽
幾日か経った朝、リナムーアはミド草を摘むより先に、下絵を端から数えることにした。浅層の境を跨いで、下絵を読みながら、コボルトに片っ端から狙いを絞っていく。
立ち姿、肩の幅、腰に巻いた布の皺、顎の下で揺れているもの。
そこで、止まった。
どれも、同じ形をしていた。犬の頭で、肩の幅が大人の男と変わらず、背丈は人の七割。コボルトの形だ。皺まで拾えても、どれがどれかを分ける印は、そこに無かった。
(……見えているのに、見分けられない)
狙いを当てれば何か分かるかもしれない、と考えていた。分からなかった。このまま闇雲に起点となるコボルトを探しても、いたずらに半日が消え、採集袋は空のまま門をくぐることになる。
リナムーアは狙いを解いて、下絵を粗い輪郭へ戻した。
ミド草の株のほうへ歩きかけて、足が止まった。窓口で言った言葉が、頭の中で戻ってきた。
——群れは九でした。八、倒れました。
自分の口で、そう報告した。
九のうち、八。
一体、残っている。
あの日、倒れた仲間の上で、長く尾を引く声を上げた一体がいた。その声で、日陰側から影が四つ、下絵の縁へ入ってきた。
あれは、どうなった。
オークが出てきたとき、藪へ消えた一体がいた。吠えた一体が、藪へ消えた一体と同じかどうかは分からない。倒れた八体に混じっていたかどうかも分からない。
思い出せなかった。
あの時間、下絵で読んでいたのは三人の周りだけだった。クレイルの腕が裂かれ、ハーゲンスの腿から血が出て、ノエが二人を起こそうとしていた。影が一つ減ったかどうかを数え直す余裕は、どこにも無かった。
確証は無い。勘違いかもしれない。だが、あの時の、あの個体が、こちらのことを伝え歩いている。そう思わざるを得なかった。
その日、採集袋は半分にも届かなかった。
何かが変わったのだから、ギルドの三人へは伝えるべきだろう。自分を案じてくれている人たちへの、それが誠意だと思った。
▽ ▽ ▽
ギルド長室の窓は、もう暗かった。
オグマが机の向こうで書きかけの紙を伏せ、サリナが壁際から一歩前へ出る。ミオは台帳を抱えたまま、扉の内側に立っていた。
リナムーアは、伝えることを一つだけに決めてきた。
「今まで、わたしを見ても通り過ぎていたものが、向かってくるようになりました。……一度ではありません。日を置いて、場所を変えて、続いています。わたしは、撃っていません」
最初に声を出したのは、ミオだった。
「……盾が、無くなったのですね」
台帳を抱えた腕が、少し上がっていた。
「はい」
手を出さなければ、盾になるのですね、と言ったのはミオだ。
「どのあたりまで、そうなっているの?」
サリナだった。声が低い。
「浅層の境から日陰側と日向側に一時間ぶん、その内側です。使えない場所が、毎日動きます。五日で元へ戻る区域と、新しく駄目になる区域があります」
「……動く、と言ったわね」
サリナの目が、少しだけ細くなった。
「五日で元へ戻ることは、前に確かめて報告してくれたわね。戻っているのに、隣が駄目になる」
「はい」
「……忘れない個体が、混じっているのね?」
「そう思っています。確かめられていません」
「……それなら、五日待っても、収まらないわね」
サリナの目が、机の向こうのオグマへ移った。
「それでも、浅層へは入るのか」
オグマが言った。机の上で指を組んでいる。
「入ります」
間は空かなかった。
「仲買人の方に、聞きました。毎日同じだけ入るから値打ちがあるのだと。まとめて倍入るより、そちらのほうがいいのだと。……わたしがやめたら、毎日入るものが、一つも無くなります。減るのとは、違います」
オグマは何も言わなかった。組んだ指も動かさなかった。
「明日からの動き方を、変えます。避けられることを当てにするのを、やめます。回り込んでも、次の群れが来ます。向かってくる群れは、撃って倒します」
組んでいたオグマの指が、ほどけた。
「門を出る前に弾の数を数えて、その数を覚えてから入ります。帰りに一つの群れを相手にできるだけは、残して戻ります」
台帳を抱えたミオの手が、動いた。
「弾が帰りのぶんまで減った日は、採集袋が満ちる前に戻ります。数字は落ちます」
「台帳は、そのまま書きます」
ミオの声だった。
「はい」
サリナが、腕を組んだ。
「条件を一つ、置くわ」
「群れは一つまで。一度に二つは相手にしないで。……仲間を呼ぶ声が上がったら、その場で浅層の境を跨ぎなさい。採集袋も、置いていっていい」
あの日、呼ばれた群れが来て九になった。サリナが言っているのがその声のことだと、すぐ分かった。
「はい」
オグマが口を開いた。
「話はこれで全部だな。なら、俺からも条件を付けよう」
オグマは、伏せていた紙を脇へ寄せた。ほどいた手を、机の上で重ねる。
「戦うことを前提にする以上、今まで以上に予期しないことが起こり得る。門灯までに戻れなくなったとして、大門からの知らせだけでは、捜しにも出られん」
机の端の束から白い紙を一枚抜いて、リナムーアのほうへ滑らせる。
「どこを捜せばいいのかを、先に置いていけ。使わない区域と、使う区域だ。毎朝でいい。書いたものを窓口へ出しておけ」
「……はい」
リナムーアは、紙を両手で受け取った。
「話は以上だ。今夜は休め」
▽ ▽ ▽
宿舎の部屋へ戻って、灯りを一つだけ点けた。
リナムーアは弾入れの口を開けて、卓の上へ中身を空けた。弾が転がって、ぶつかって、板の目のところで止まった。
指で五つずつ手前へ寄せて、列を作っていく。
全部で三十四だった。
隠れて撃てた日は、一体に一発で足りた。向かってくる群れを相手にしたのは、あの日だけだ。二つの群れで、十六使った。撃った先はそれぞれ覚えていないが、弾入れの中で指が底を撫でたことだけは、はっきり覚えている。
足りなくなるよりは、多く使うつもりで数えるほうがいい。あの日で数えて、帰りの一つぶんを残せば、使えるのは三つの群れまでだった。
列を崩して、一つずつ摘み上げて弾入れへ戻した。三十四を戻し終えて紐を締めると、弾入れはもとの重さに戻った。
布の上から押してみる。丸いものが、指の下でゆっくり動いた。
底までは、まだ遠かった。




