第32話 礼(れい)
森から戻って納品窓口へ採集袋を下ろすと、ミオが台の内側で判別機の蓋を開けた。
台の端に、三人が立っていた。
ハーゲンスは杖を使っていなかった。腿の傷は塞がったのだと、リナムーアはそれで分かった。ノエは半歩下がったところで壁のほうを見ている。
クレイルは、左腕を体の前へ下ろしたままだった。吊ってはいない。ただ、指が二本、半分開いた形で止まっている。
あの日から、半月あまりが過ぎていた。
(……間に合わなかった人たちだ)
助けた、という言い方は傲慢に思えて、リナムーアは自分に許していない。助けたのなら、腕は裂かれていないはずだった。撃つ前に一度迷い、腕が裂かれたときには弾が尽きていた。その順番は、数え直しても変わらない。
ミオが台帳から顔を上げ、三人を見て、それからリナムーアを見た。書きかけの手が止まっている。追い払うかどうかを、迷っているのが分かった。
「少し、いいか」
クレイルの声だった。窓口で問い質してきたときより、ずっと低かった。
ミオが口を開きかけて、閉じた。出かかった言葉を飲み込んだのが、横顔で分かった。
「……お話は、窓口を外れてからにしてください」
ミオは三人から目を離さないまま、それだけ言った。追い返す言い方ではなかった。
四人でホールの隅へ移った。依頼票の残っていない掲示板の下は、この時刻には誰も立たない。
「先に、言うことがある」
クレイルは言葉を選ぶ話し方をする。並べる順番を決めてから口を開く人なのだと、リナムーアは窓口でのやり取りで知っていた。
「二度、止められた。二度とも、耳を貸さなかった」
「……はい」
「ハーゲンスが戻ろうと言ったのも、聞かなかった。全部おれが決めた」
クレイルはそこで、一度だけ自分の左手を見た。
「その後ろに付いてきたのが、これだ。おれの腕がこうなって、あんたの採集袋の中身が駄目になって、あそこの台帳の数字が、五日崩れた」
頭が下がった。肩の厚い体が折れると、思ったより大きな動きになった。
「悪かった」
リナムーアは、それをどう受け取ればいいのか分からなかった。謝られる形を、初めから勘定に入れていない。
「……間に合いませんでした」
出てきたのは、その言葉だった。
「何にだ」
「腕です」
言ってから、足りないと思った。
「撃つ前に、迷いました。腕が裂かれたときには、もう弾がありませんでした」
「順番の話をするなら」
クレイルが顔を上げた。
「おれが浅層の境を跨いだのが、いちばん先だ」
左手は下ろされたままだった。指の二本は、さっきから同じ形をしている。
「これはおれの責任だ。あんたのじゃない」
「……指は、戻りますか」
「分からん。盾をまた持つかどうかも、まだ決めていない」
クレイルは、左手を見ないまま答えた。
「盾無しでは、今まで通りに動けない」
ノエが短く付け足した。事実だけを並べる言い方は、あの日から変わっていない。
「決めるのはクレイルだ。俺たちは待つ」
ハーゲンスはそう言って、クレイルの背を一度だけ叩いた。叩かれた側は何も返さず、息を吸った。
「それで、本題だ」
背筋が戻り、声の調子が変わった。
「返す」
リナムーアは、意味を取り損ねた。
「……なにを、ですか」
「借りを、だ。どう返すかは、まだ分からん。金なら、あんたのほうが持っている。腕もこのとおりだ。何ができるとも言えん」
クレイルの目は、逸れなかった。
「それでも、返す」
考えるより先に、言葉が出た。
「返さなくて、いいです」
言ってから、口の中が乾いた。
(……いま、わたしは何を言った)
同じ意味の言葉を、この支部で何度も聞いていた。
ミオは支部が出すものを出して当たり前だと言い、払うと言えば困ると首を振った。サリナは、走りを見るのは受付の仕事のうちだと言った。ギルド長は、お前に請求が回ることはないと、最初の日に言い切っていた。
そして自分は、一度もそれを受け取らなかった。受け取らないまま、数え続けてきた。
四日前、返す相手は誰だと聞かれて、名前が途中で終わらなくなった。あのとき部屋にいた大人たちが何も言わなかった理由が、いまになって輪郭を持った。
(……こういうふうに、見えていたのか)
「あんたがそう言っても、こっちは納得できない」
クレイルの声は荒くならなかった。
「返さなくていいと言われて、そうですかと帰れるなら、半月も考えていない。……おれの側の話だ。あんたが決めることじゃない」
その理屈を、リナムーアはよく知っていた。
仲買人に言ったのも、役所の人に言ったのも、四日前に辺境伯へ言ったのも、形は同じものだった。相手だけが替わって、中身は一度も変えていない。返すのはわたしです、と言い続けてきた。
それが、そのまま返ってきた。
「……分かりました」
それ以上の言葉は、出てこなかった。受け取ったわけではない。断ったわけでもない。理屈が同じだと認めただけで、認めたあとに何が残るのかは、まだ見えなかった。
クレイルは頷き、それで終わりにした。長く引き延ばす気は初めから無かったらしい。
「いつか、大きいほうの採集袋を借りに行く」
去り際にそう言ったのはハーゲンスだった。
「この前は、あんたの三分の一にも届かなかった。次は、その先まで行くつもりだ」
「浅層には、当分入らない」
ノエが最後に一つだけ言い残して、三人はホールを出ていった。
窓口へ戻ると、ミオは台帳の続きを書いていた。顔は上げなかった。ただ、判別機の蓋は開いたままになっていて、葉はまだ一枚も入っていなかった。
「リナムーア」
階段の側から声がした。サリナが手すりに片手を置いて立っていた。三人が窓口にいたあいだ、ずっとそこから見ていたらしい。
「窓口で、三人が待っていたわね」
「……はい。謝りに来てくれました」
「そう。……それと」
サリナの声が、少し軽くなった。
「明日は、早めに戻ってきて」
「……どうしてですか」
「剣が、できたそうよ」
▽ ▽ ▽
翌日、門灯まで一時間半を残して大門をくぐった。採集袋の中身はいつもより指二本ぶん低く、台帳の数字もそのぶんだけ下がった。ミオは何も言わなかった。
支部で待っていたサリナと、その足でガルド武具店へ向かった。
店の軒は低かった。土間に入ると、砥石を濡らした水の匂いが鼻へ来た。壁に吊り下がった工具の影が、鉄床の上まで伸びていた。
奥から出てきた男は、戸口で一度身を屈めてから背を伸ばした。リナムーアの背丈を二つ半重ねたほどの背がある。
「ガルドさん。この子です」
男はリナムーアを見た。
白い髪を見て、赤い目を見て、そこで止まらなかった。目は下がり、両手へ移り、肩の高さを測って、最後に足元へ落ちた。顔よりも寸法のほうを長く見られたのは、リナムーアには初めてのことだった。
「ガルドだ」
「リナムーアです」
「聞いている」
それだけで、男は作業台のほうへ体を向けた。
台の上に麻の布が広げられ、その上に剣が置かれていた。
刃は真っ直ぐで、鍔は小さく、柄は握りの革を巻いたばかりの色をしている。リナムーアの背丈で立てれば、切っ先は肩の上まで届く長さだった。
「刃渡りは五十センチだ。頼まれた寸法のまま作った」
ガルドは布の端を指で弾いた。
「縮めれば、今日から振れる。だが縮めた剣は、背が伸びれば要らなくなる。二年で捨てるものに、この鋼は使わん」
「……はい」
「重さは落としてある。刃を、先へ行くほど薄く鍛えた。そのぶん重心が手元へ寄るから、持ったときに先が落ちにくい。柄は長めだ。片手でも、両手でも握れる」
男は黒い革張りの鞘を持ち上げ、合わせ目のある側を上にして見せた。合わせ目が縫われておらず、細い留め金で閉じてあるだけだった。
「背負う形にしてある。……ただし、これは鞘じゃない」
ガルドは留め金を一つ外した。合わせ目が縦に開いた。
「その腕の長さでは、鞘からは抜けん。柄を握って腕を伸ばしきっても、切っ先が口から出ん。大人の腕なら出る。あんたの腕では、二十センチばかり足りん」
外した留め金を、男はもう一度はめた。
「だから、抜かせない。前へ引けば、こっちが開く。戻すときは上から落とし込め。大剣を背負う連中が使う造りだ。鞘というより、剣の形をした入れ物だな」
リナムーアは、閉じ直された合わせ目の縁を指でなぞった。縫い目の代わりに、革が二枚重ねて厚くしてある。走っても外れないように、留め金は三つ付いていた。
「持ってみろ」
柄を両手で握って、持ち上げた。
▽ ▽ ▽
ガルドは、子供の手元から目を離さなかった。
持てはする。そこは意外でもなかった。あの帯を一度で頬まで引いた子供だと聞いている。
問題は、持てることと使えることが別だという点にある。
「一度、振り下ろしてみろ」
肩の高さに、腕の長さと刃の長さを足す。大人ならその先はまだ地面の上で、振り抜いた切っ先は空を切る。この背丈では、足した先が地面より下へ出る。
つまり、振り切ってはいけない。振り下ろした勢いを途中で殺さないかぎり、刃は必ず土間を叩く。叩けば欠ける。
そして、途中で殺すほうが難しい。重さを乗せてから止めれば、止めるための力がそっくり手首と肘へ返ってくる。大人でも剣を落とすか、体のほうを前へ持っていかれる。一度やってみれば、この背丈では振り切れない剣だということが、子供の体にも分かる。
そのつもりだった。
子供は柄を握り直し、剣を持ち上げた。
上段と呼べる高さではない。背丈のぶん、切っ先が天井のほうへ立っているだけに見えた。
そこから、落ちた。
風を切る音がして、そのあとが続かなかった。
ガルドは土間へ目をやった。切っ先は、地面から指二本ぶんのところで止まっていた。刃の下では、踏み固めた土に薄く乗っていた埃が左右へ払われて、細い筋になっている。風だけが届いて、刃は届いていない。
止まっているのは切っ先だけではなかった。肩も、腰も、足を置いた位置も、振り下ろす前と同じ場所にある。前へ泳いでいない。
「……もう一度」
同じだった。二度目も、切っ先は土を叩かなかった。
ガルドは口を開けたまま、用意していた言葉を探した。見つからなかった。
作業台の隅に、寸法の控えの紙が置いてある。手はそこへ伸びかけて、途中で止まった。読み返したところで、紙には刃渡り五十センチとしか書いていない。
振れないのは力の話ではない、と言うつもりだった。背丈の話だと。いつだったか、この土間でサリナと帯の話をしたとき、自分は限界が道具の側にあると言った。今日は逆を言うつもりでいた。
「……なぜ止めた」
聞いたのは、それだけだった。
「刃が、欠けます」
子供は剣を両手で持ったまま、まっすぐに答えた。
「作っていただいたばかりです。最初に土を叩いたら、もったいないです」
ガルドは布を畳んだ。
持てる相手に合わせて作る。それが自分の仕事だ。どうして持てるのかを知らなくても、剣は作れる。
「持っていけ」
言葉はそれだけだった。
子供が頭を下げた。
「ありがとうございます」
「代金はギルドから入る。礼は要らん」
「……お代のことでは、ありません」
子供は剣を作業台へ戻してから、もう一度頭を下げた。
「持ちやすいように、作っていただいたので」
ガルドは返事をしなかった。かわりに、留め金の閉じ方をもう一度、初めからやって見せた。
▽ ▽ ▽
門灯が点ってから小一時間たって、訓練場の柱に灯りが入った。
リナムーアは剣を背負ったまま、柱の間を二度走った。留め金は緩まなかった。しゃがんで地面の草を摘む形をやってみると、柄頭が首の後ろへ当たる。吊り紐を指一本ぶん下げて持つと、当たらなくなった。
「藪をくぐるときは、体を捻って」
「はい」
「引っ掛けたまま進むと、留め金のほうが先に駄目になるわ」
サリナは剣を受け取って、刃を灯へかざした。
「一つ、決めておきましょう」
「はい」
「抜くのは、弾が尽きたときだけ。弾があるうちは、抜かない」
「はい」
返事の早さに、サリナが少し目を見開いた。
「……自分で決めたほうが、いいかしら」
「いえ。それでいいです」
弾は、離れた場所から当てるものだ。当たる前に相手がこちらへ気づいたとしても、まだ距離が残っている。
剣は違う。当たる距離まで近づかなければ、当たらない。
浅層で鉄のナイフを使った日の、手首へ返ってきた重さを、リナムーアはまだ覚えていた。
サリナは剣を武器掛けに立てかけた。
「さっき下げたところに、紐の穴を開けておきましょうね」
リナムーアの背の吊り紐を外し、錐の先を革へ当てた。灯りの下で体重をかけて回すと、革の軋む音が短く鳴って、穴が一つ増えた。
新しい穴へ紐を通すと、余った分が指の長さほど垂れた。サリナはそれを切らずに、結び目の下へ折り返して収めた。
柱の灯りが留め金の縁に触れている。リナムーアが肩を回すたび、その光は小さく揺れて、また元の位置へ戻った。




