第31話 先客(せんきゃく)
先触れの騎馬が支部の敷地へ入ったのは、門灯まで二時間を切った頃だった。
馬を降りた男は外套の胸に辺境伯家の紋章を留めていた。受付の机の前に立ち、名乗るより先に用件だけを置いていく。間もなく主が着く、と。
「……どちらの、どなたが」
サリナが聞き返したときには、男はもう表の扉へ向き直っていた。
「アーヴェスト辺境伯だ」
その一言で、ホールの音が半分落ちた。掲示板の前の冒険者が振り返り、視線だけが階段の上へ集まった。
サリナは納品窓口のミオに一言告げてから、その視線を追い越して階段を駆け上がった。
二階の廊下の突き当たりに、年に数度しか使わない部屋がある。他領の使節や、本部から下ってくる高位の者を通すための部屋で、支部の者は貴人の間と呼んでいた。ミオが窓を開け、卓の天板を布で拭き、椅子の背に残っていた埃を払う。壁に掛かった支部の由来を記した紙が、風でわずかに浮いて戻った。
ミオが手を止めて振り返った。
「茶は、お出ししますか」
「出しておけ。手を付けんだろうがな」
オグマは革の上着の襟を一度だけ正した。それ以上のことはしなかった。
馬車は二台で入ってきた。先の一台の扉に家紋、後ろは供の者を乗せたもの。騎馬の護衛が四騎、敷地の入り口で止まり、そこから先へは進んでこない。
オグマとサリナは、表の扉の外で出迎えた。先の馬車から降り立った男は、オグマの前まで来て足を止めた。背は指三本ぶんほど低い。それでいて肩の幅は変わらない。わずかに色の褪せた黒い髪を短く刈り、上衣は黒に近い濃い茶で、飾りらしいものは襟の留め金だけだった。年は五十一になる。
「ギルド長のオグマです。こちらは副ギルド長のサリナ」
「ヴァルドレオン・アーヴェストだ。急に来た。詫びはせん。詫びると、嘘になる」
オグマが先に立ち、ホールを抜けて階段を上がった。貴人の間で卓を挟んで座ると、男は卓の上で手を組んだ。指の付け根に固い盛り上がりがある。書き物をする手ではない。サリナはそれを見て取った。ミオが茶を置いて下がっていった。
辺境伯は茶に触れなかった。三日前の文官と同じだった。
「先に、こちらの不始末の話をする。レンヴォルトという者が、ここへ来たな」
「来ました」
「今日は席を外させている。連れてくれば、話が進まん」
オグマは頷きも返事もしなかった。
「ミド草を押さえろとは、私が言った。そこまでは私の言葉だ。だが押さえ方までは言っていない。あの男は、己の奉じる教えを先に置いて、役所の用を後ろへ回した」
男は椅子の背へ体を預けた。
「ギルド長。私は、どちらの教えも悪いものだとは思っていない。統和聖教も、序理創神教もだ。原典に書いてあることだけを読めば、どちらにも、人が人と暮らしていくのに要ることが書いてある」
辺境伯は指を一本立てた。
「ただし、原典に限る」
立てた指は、そのままだった。
「いま序理創神教で説かれているのは、原典の言葉ではない。上に座った者が、自分に都合のいいところだけを引き、都合の悪いところを読み替えてきた。それを何代も重ねれば、才能は神が示す価値だという話が、色の違う子供を穢れと呼ぶ話に変わる。……変わったものを、私は教えとは呼ばん」
辺境伯は指を下ろした。
「信仰は好きにすればいい。仕事に障らん限りはな。あの男は十年、勘定を一つも間違えなかった。だから使ってきた」
男はそこで言葉を切り、卓の木目を見た。
「三日前に、初めて間違えた」
サリナが、膝の上で手を握り直した。
「品は要る、人は要らん、と言ったそうだな。役所は品を買う。だが、買う相手の色を選ぶ役所を、私は持っていない」
サリナの肩から、力がわずかに抜けた。
「……閣下」
「言え」
「あの子は、あの場で何一つ変わりませんでした。印を切られても、色のことを言われても、です。……私のほうが、立っていられませんでした」
辺境伯はサリナを見て、それから目を戻した。
「そうだろうな。慣れている子供は、そういう立ち方をする」
オグマが卓へ両手を置いた。
「それで、閣下は何をしにいらしたのです」
詫びを受けた側の声ではなかった。
「本人と話がしたい」
「用件を伺います」
「領に来ないかと聞く」
隣でサリナが息を止めた。
「断ります」
「ギルド長。私は、あんたに断られに来たのではない」
辺境伯の口調は変わらなかった。
「冒険者がどこへ所属するかを、領が決められんことは知っている。中立の看板は、この都市に壁が積まれるより前から掛かっているものだ。だから命じない。頼みに来た。本人に断られたら、そのまま帰る」
「本人は森です」
「戻るのは門灯の一時間半ほど前だな」
オグマの眉が動いた。
「調べましたか」
「役所の紙に残っていた。あの男が書いていったものだ」
男は窓の外へ目をやった。外周壁の影が、石畳の上をわずかに伸びはじめている。
「待たせてもらうつもりで来たが、そう長くは待たずに済む刻限を選んだ。……子供を、大人の都合で夜まで座らせるのは好かん」
それから、思い出したように付け加えた。
「もう一人、同席させてくれ。あの子をよく知っている職員がいるだろう」
「……なぜです」
「子供一人を、肩書きのある大人三人で囲むのは、趣味が悪い」
オグマが目を向けると、サリナは一礼して部屋を出た。窓口のミオへ伝えに降り、ほどなく戻ってきた。
オグマは、正面の男を見たまま動かなかった。
「一つ伺います。閣下は、あの子の何を知って来られました」
「数字だ」
辺境伯は即答した。
「毎日、採集袋一杯のミド草が同じ刻限に入る。ひと月あまり、一度も欠けなかった。それが五日崩れて、また戻った。私が読んだのはそれだけだ。……崩れた五日のあいだ、薬師の手元では仕込みが止まったそうだ」
「高く買うという話でしたら、あの子は一度断っています」
「値の話ではない。ここには、代わりの利かん者が一人いる。代わりの利かんものを、私は領の外へ出したくない」
「出しません」
「いまはな」
やがて廊下を歩く足音が二つ近づいてきた。片方はひどく軽かった。
扉が叩かれ、オグマが応じた。扉が開くと、部屋にいた全員がそちらを見た。
ミオが子供を先に通し、自分もあとから入って扉を閉めた。リナムーアは、森から戻ったままの姿だった。
「連れてまいりました」
ミオはそれだけ言い、扉のそばに立った。
辺境伯は立ち上がらなかった。椅子を卓から少し引き、体ごと子供の正面へ向ける。それから、見た。白い髪を見て、赤い目を見て、そこで一度、瞬きをした。
それだけだった。印は切られなかった。
「その髪と目のことを、私は何とも思わん。先に言っておく」
「はい」
リナムーアは短く答えた。驚いた様子も、喜んだ様子も無かった。
オグマが口を開いた。
「リナムーア。こちらはヴァルドレオン・アーヴェスト辺境伯だ。この領を治めておられる。……お前に話があると言って、待っておられた」
「リナムーアです」
子供は腰を折った。どこかで見た形を真似ただけの礼だったが、雑ではなかった。
「ランクは、Eです」
「ヴァルドレオンだ。……座れと言いたいが、その椅子はお前には高いな」
「立っています」
辺境伯の目元が、わずかに緩んだ。
「いくつだ」
「三つです」
「三つで森へ入っているのか」
「入っています」
「浅層か」
「はい。浅層の境から、三十分の内側です」
「一人でか」
「一人でです」
「怖くはないのか」
リナムーアは少し考えてから答えた。
「怖いです」
「怖いのに行くのか」
「怖くない場所には、ミド草が生えていません」
辺境伯は声を出さずに笑った。笑ってから、笑いを収めた。
「本題を言う。私の下へ来い」
扉のそばで、ミオが息を詰めた。リナムーアは、辺境伯の顔を見たまま動かなかった。
「役所の抱えにするのではない。領の薬師の下へ置く。森へ入る回数は減らしていい。読み書きと、数と、薬の仕込み方を教える。師も付ける。稼ぎは、いまギルドで受け取っている額の倍を出そう。それと、お前の色に何か言う者は、この領のうちでは私が黙らせる」
並べる順番が決まっている者の言い方だった。
「ありがとうございます」
リナムーアは、両手を体の脇へ下ろしたまま言った。
「でも、行きません」
「理由を聞こう」
「わたしは、ここへ一万ムーアで引き取られました」
子供は足元ではなく、相手の顔を見て話した。
「それは、孤児院に払われた分です。払われた分のほかに、受け取ったものがあります。どこにも書いていませんが、そちらのほうが、ずっと多いんです」
「金なら、とうに済んでいるだろう」
辺境伯は間を置かずに返した。
「採集袋一杯で、四千だろう。一万なら、二日半で届く額だ」
「越えました。三か月ほど前です。その日に、自分で数えました」
「ならば、書いていない分にも値を付ければいい。……ギルド長、いくらだ」
「値は付いていません」
「付けろと言えば付くだろう。付いたぶんは、私が払う」
「付きません」
オグマの返事は短かった。
「払っていただいても、駄目です」
リナムーアの声は、高くも低くもならなかった。
「額が決まってしまえば、納め終わった日に終わりになります。……誰が払うかではないんです。わたしが返さないと、意味がありません」
「では、返し終わったらどうする」
そこで、初めて間が空いた。
「……終わりが、まだ見えません。終わったときのことは、そのときに考えます」
辺境伯は組んでいた手をほどき、片方だけを卓の上へ置いた。
「最後に一つ聞く。お前が返す相手は、誰だ」
リナムーアは数えはじめた。
「ミオです。わたしが動けなかったとき、ずっと看ていてくれました。食べられるようになるまで、夜も来ていました」
扉のそばで、手控えを持つ手が止まった。
「サリナです。走り方も、弾の撃ち方も、森で戻る道の決め方も、教わりました。叱ってくれたのも、サリナです」
サリナは目を伏せ、伏せたことを悔いたように顔を上げた。
「ギルド長です。わたしを引き取ると決めたのは、ギルド長です。断られていたら、わたしはここにいません」
「三人か」
「炊き場の人もです。毎朝、パンを用意してくれます。門の人もです。出た時刻と戻った時刻を、毎日書いてくれています」
子供はそこで、一度言葉を探した。
「……ほかにも、たくさんいます。数えていくと、終わりません」
誰も口を開かなかった。
辺境伯はしばらく子供の顔を見ていた。それから、卓に置いた手をゆっくり引いた。
「もういい」
「……はい」
「話は終わりだ。下がって構わん」
リナムーアはもう一度、同じ形の礼をした。
「失礼します、辺境伯閣下」
ミオも一礼して、そのあとに続いた。扉が閉まる音は小さかった。
辺境伯は天井を見上げてから、低く笑った。
「ギルド長」
「はい」
「囲い込みというのは、こうやるものだったか」
オグマは答えなかった。
「とぼけるな。私はあの子を領へ留めに来た。留めるために、金と、師と、庇護を並べた。並べ終わってから気づいたが、どれも要らんかった」
「あの子の勘定には終わりが無い。返し終わる日が来ないなら、あの子はここを出ない。ここはエルステンで、エルステンは私の領だ。……私が何をしなくても、あの子は私の領にいる」
「そういうつもりで置いているのではありません」
オグマの声が、硬くなった。
「知っている。だから、たちが悪い」
辺境伯は立ち上がった。オグマとサリナも席を立った。
「先客がいたわけだ。しかも、囲い込んだ覚えも無いという顔をして並んでいる。……三人と、炊き場と、門兵だ。門兵は私の兵だがな。役所が金を積んだところで、割り込める列ではない」
「閣下」
サリナが呼び止めた。
「あの子のことは、役所の紙に残りますか」
「残る。断られたと、二度書くことになるな」
男は襟の留め金に指をかけ、外さずに手を下ろした。
「一つだけ言っておく。あの子に何かあったら、うちの役所より先に、私のところへ上げろ。教会の側が動いたときは、特にだ」
オグマが、辺境伯の顔を見た。
「動きますか」
「あの男は帰ってから、教会へは何も出していない。だが、話した相手までは私にも追えん」
廊下へ出る前に、辺境伯は一度だけ振り返った。
「茶は、次に来たときにもらう」
▽ ▽ ▽
馬車が敷地を出ると、車輪の音が変わった。支部の前の石畳から、城へ向かう広い通りへ移ったためである。灰白色の四角い家並みが、窓の外を後ろへ流れていった。
向かいの席に座った家令の老人は、主人の顔を見てから、窓の外へ目を戻した。
「閣下。ご機嫌がよろしいようで」
「そう見えるか」
「お乗りになるとき、笑っておいででした」
辺境伯は答えずに、膝の上で指を組んだ。
「上の娘は、来年で十六になるな」
「さようでございます」
「あれは、自分より立場が下の者から何かを教わったことが一度も無い。下の二人もだ。教える者は付けてきたが、そういう場までは、用意してやれなかった」
家令は何も言わなかった。言わないことで、続きを促した。
「一度、連れてこよう。あの部屋に座らせて、見せてやる。三つの子供が、大人の並べた条件を一つも取りこぼさずに聞いて、それから断るところをな」
「……刺激が強すぎませんか」
「強いほうがいい」
区画を隔てる門をくぐるとき、車体の速さが落ちた。衛兵が槍を引いて道を空け、馬車はそのまま抜けていく。車輪が轍を拾い、床板が一度揺れた。
くぐったばかりの壁の影の中を、馬車はゆっくり進んでいく。影が切れて日が差し込むまで、辺境伯は膝の上の指をほどかず、口の端も戻さなかった。




