第30話 願い出(ねがいで)
表の扉の前に馬車が止まったのは、昼を三十分ほど回った頃だった。
二頭立ての箱馬車で、車体の側には辺境伯家の紋章が白く描かれている。御者の上衣は濃紺で、三日前に革の筒を届けに来た使いの者と同じ色をしていた。
掲示板の前にいた冒険者が何人か振り返り、互いの顔を見合わせた。領の馬車が支部へ着くこと自体は、無いわけではない。ただし着くのはたいてい依頼の話で、そういうときに来るのは役所の下の者が一人だった。
ミオが表で迎えた。
「三日前の書状の件で、お越しでしょうか」
「はい。日取りまでは書いておりませんが、伺うとはお伝えしてあります」
先頭の男が答えた。ミオは一度だけ頷き、階段を上がってギルド長室へ通した。
男は三人だった。先頭が文官で、後ろに書記と、革鎧を着けた供が続く。文官は痩せて背が高く、オグマよりは指二本ぶんほど低い。亜麻色の髪を後ろへ撫でつけ、丈の長い上衣の襟を銀の留め金で閉じている。埃の付いていない靴が、石の床を三度鳴らした。
「アーヴェスト辺境伯領の役所で、討伐に出る隊の物資を預かっております。レンヴォルトと申します」
「オグマだ。こっちは副ギルド長のサリナ」
オグマは机の上の紙を一枚、指で押さえた。三日前に届いた書状である。赤い蝋はもう割れていた。
「読んだ。ミド草の話だったな」
「ご承知いただけているなら、早い」
文官は勧められる前に椅子へ腰を下ろした。書記がその背の後ろへ立ち、自分の帳面を開く。
「ご存じのとおり、薬師はミド草を煮出して溶液を作り、そこから隊へ持たせる薬を仕込みます。森へ入った隊が何日で戻れるかは、その薬をいくつ持たせられるかで決まります」
サリナが茶を運ばせた。文官はそれへ手を伸ばさなかった。
「ひと月あまり前から、薬師の手元へ回る量が変わりました。……変わったのは、量だけではありません。読めるようになったのです」
サリナの肩がわずかに動いた。十日あまり前に、商業ギルドの仲買人がリナムーアへ言ったという言葉と、順まで同じだった。
「薬種を扱う者は、商業ギルドへ帳面を上げます。その帳面が、役所の調達の勘定に乗りました」
レンヴォルトは指を一本立てた。
「一つ目のお願いです。支部へ入るミド草を、まず領へ回していただきたい。値は市の値で結構です。買い叩く気はありません」
「入った品をどこへ流すかは、うちで決めている。話としては聞ける」
「結構です。……そのうえで、二つ目を」
指がもう一本立った。
「採っている者を、こちらで確かめさせていただきたい」
「確かめて、どうする」
「役所で預かることも考えております。領の抱えとして手当てを出します。ギルドで受け取っておられる額より、下がることはありません」
ミオが扉の内側で手控えを胸の前へ寄せた。誰もそちらを見なかった。
▽ ▽ ▽
「断る」
オグマの返事に、間は無かった。
「冒険者がどこへ所属するかを、領が決めることはできん。冒険者ギルドはどの国にも属さん。それは、あんたのところの役所が誰より承知しているはずだ」
「命じてはおりません。願い出ております」
レンヴォルトの口元がわずかに動いた。笑ったのではなく、言葉の形を整えただけに見えた。
「ただ、願いが通らなかったときは、通らなかったと書きます。役所の紙は残ります。……この都市を守っているのは領の軍です。この敷地も、その守りの内側にございます」
「……文官殿」
サリナが一歩前へ出かけたところで、オグマが手のひらを上げて止めた。
「話は、最後まで聞こう。続けてくれ」
「では、こちらの数字の話を」
文官は上衣の袖を整えた。
「先月の末に、五日ばかり数字の揃わない日があったと伺っております」
「どこで聞いた」
「薬種の帳面には、入らなかった日も残ります。入った日の数字も、揃わなければ揃わないままに残る」
オグマは答えなかった。
「毎日同じだけ入ると聞いて、こちらは勘定に乗せました。その勘定が、五日で崩れた。崩れた理由は存じません。存じませんが、崩れたという事実だけは、こちらの紙に残っております」
レンヴォルトは手をつけない茶の横で、指を組んだ。
「一人が採っている。その一人が止まれば、止まる。……ギルド長。役所から見て、それは危うい形です。領で預かれば、そこが安定します。食う物も寝る場所も役所が持ちますし、森へ入る回数もこちらで決められる」
言っていることに、破綻は無かった。
サリナが口を開きかけて、閉じた。五日が崩れた理由なら、この部屋の三人が知っている。知っているが、言えばそこから別の話が始まる。誰がどこへ入って、何を撃って、大人が三人どうなったかという話が。
「本人に会わせていただきたい」
「今は森にいる時間だ」
「森ですか。それもそうですね」
「ミド草は、浅層まで入らんと採れん。戻るのは門灯の一時間半ほど前になる」
文官は窓の外へ目をやった。西向きの窓から入る日が、机の縁に細い線を落としている。
「……待たせて頂きましょう」
待つあいだ、書記は自分の帳面を膝に置いて、時折何かを書き足した。机の縁の線は少しずつ幅を失い、やがて床へ降りていった。オグマは書類に目を落とすでもなく、椅子の背へ体を預けたまま、一度も口を開かなかった。
▽ ▽ ▽
ミオが呼びに来たとき、リナムーアは窓口の台の前で採集袋を下ろしたところだった。
「ギルド長室です。……お客様が、あなたに会いたいと」
「お客様?」
「領の役所の方です」
リナムーアは自分の服を見下ろした。森から出たままのワンピースで、裾のあたりに土が乾いて付いている。手のひらで払ってみたが、色は落ちなかった。
廊下を歩くあいだ、ミオは何も言わなかった。扉の前で一度屈み、子供の襟の折れを直してから、木の板を二度叩いた。
「入れ」
扉が開いた。
レンヴォルトは椅子から立ち上がっていた。立ち上がってから、目の位置を探して下ろした。机の縁とさして変わらない高さに、それはあった。
「……ギルド長。私は、採っている本人と申し上げました」
「本人だ」
リナムーアが部屋に入ってきた。白い髪が、廊下から入った光を一度だけ返した。文官の視線がその髪をたどり、下の赤い目へ届く。
そこで、男の足が半歩下がった。
上衣の袖が持ち上がり、二本の指を揃えて立てた手が、胸の前で短く動いた。上から下へ、それから横へ。序理創神教の信徒が穢れを見たときに切る印である。
「……その色は」
書記のペンが止まっていた。
「ギルド長。下がらせていただきたい。……いや、その子を、これ以上こちらへ近づけないでいただきたい」
子供は、部屋の真ん中で足を止めていた。
「創造神が与えた色ではありません。役所の紙に、この色を書き入れることはできません」
リナムーアは動かなかった。両手を体の脇へ下ろしたまま、文官の顔を見上げている。まばたきの間隔も肩の高さも、廊下を歩いてきたときから何一つ変わらない。
「リナムーアです」
子供が名乗った。
「ランクは、Eです。……ご用は、何でしょうか」
サリナの手が机の縁を掴んでいた。指の節が白くなっている。ミオは半歩前へ出て、扉の内側で止まった。止まったが、そこから退かなかった。オグマは、椅子の背から体を起こしただけだった。
「……預かる話は、取り下げます」
文官は、子供の顔から目を外して言った。
「役所へ置ける者ではありません。隊の者が何と言うか、想像がつきます。この色を連れて前線へ出ろと書けば、書いた者の名前が紙に残る」
「……文官殿。その言い方は」
サリナの声が途中で切れたのは、オグマが机の上で、手のひらを少し上げたからだった。
「品は要ります。人は要りません」
レンヴォルトはオグマのほうへ体を向けたまま、言葉だけを子供へ落とした。
「採ったものは、まず領へ回しなさい。値は市の値を付けます。役所の名で買い取ります」
リナムーアは、ホールへ続く扉のほうを一度見た。
「採ったものは、ギルドへ納めます」
「……聞こえませんでしたか。領が買うと言っているのです」
「聞こえました」
子供の声は高くも低くもならなかった。
「ギルドへ納めているのは、依頼を受けているから、というだけの話ではありません。わたしの返し方が、それしかないんです」
文官の眉が寄った。いま耳に入った言葉の置き場所が、役所の勘定のどこにも無かった。
▽ ▽ ▽
「……ギルド長。その子は、何を言っているのです」
「聞いたとおりだ」
オグマは机へ両手を置いた。
「ミド草は、うちの依頼として納めてもらっている。だが、依頼を受けるかどうかを決めるのは、採る本人だ。うちは受け取って、金を払って、棚へ入れる。それだけだ。仲立ちをしているに過ぎん」
「ギルドの棚に入った品は、ギルドの裁量でしょう」
「そうだ。棚から先は、前から決めた仲買人へ割り振って卸している。軍へ薬を納める薬師の分も、その中に入っている。その順は変えん。一つ目の願いへの返事は、それだ」
オグマは指で机を一度叩いた。
「棚に入る前の品なら、話は別だ。あんたの言う薬種の仲買人が、支部を通さずに買いたいと、その子へ持ち掛けている。うちより二割高い額でな。その子は断った」
「……」
「領へ先に回せというなら、その子に言え。その子が頷けば、支部の外の話だ。うちは口を挟まん」
レンヴォルトは、そこから先を続けなかった。
頷かせるには、子供へ顔を向けなければならない。名前を呼んで、願い出なければならない。いましがた胸の前で印を切った、その手で。
部屋が静かになった。ミオは手控えの端を握ったまま、このやり取りを後で書き留めるべきかどうかを考えていた。リナムーアは待つ姿勢のまま、文官の口元を見上げている。
「……わたしに、ご用はありますか」
子供が聞いた。責める色も、ねだる色も無い。用があるなら聞くという、それだけの声だった。
文官は答えなかった。答える代わりに上衣の裾を直し、書記へ顎を振った。書記の帳面が閉じられる音がする。
「断られたと、書きます」
「書け」
オグマの返事は、今度も早かった。
「あったことを書けばいい。足すな、削るな。……うちも、そうしている」
供の男が扉を開けた。
「これで終わりにはいたしません」
「だろうな」
「次に参るのが、私とは限りません」
靴の音が三つ、廊下を遠ざかっていった。
▽ ▽ ▽
馬車が石畳を出ていったあと、ホールの音がゆっくり戻ってきた。掲示板の前へ人が寄り、受付の列が動き出す。
リナムーアは窓口へ戻った。ミオは四千ムーアを台帳へ書き入れてから、一つ上の行と、その上の行を順に見た。四千が、また縦に並び始めている。
ギルド長室の窓では、サリナが馬車の去った先を見ていた。
「役所の次は、どこでしょう」
オグマは書状を畳み直し、革の筒へ戻した。
「分からん。ただ、あの男が下がったのは、役所の話が通らなかったからじゃない」
サリナは答えなかった。窓の桟へ置いた手を、そのままにしている。
掲示板の前にいた何人かが、窓口の小さな背中と、階段の上の扉とを見比べていた。先月の末から、あの子供の話をする声は、ホールのどこかで絶えていない。ミオは顔を上げないまま、次の行へ日付を書き足した。
表の扉が開いて、冒険者が一人出ていった。扉が閉じると、掲示板に留めた紙の端が一度だけ鳴って、それきり動かなくなった。




