第29話 空欄(くうらん)
門灯が点ってから、三十分ほどが過ぎていた。
魔境側の大門は、まだ閉じていなかった。詰所の帳面に、戻りの欄が空いたままの行が二つ残っている。門灯が点ったときに、ギルドへは報せを走らせてあった。
大門の脇の壁の上で、詰所の若い門兵が遠見の筒を覗いていた。真鍮の筒で、覗き口に目を当てれば、四キロ先の樹縁が手の届く距離に寄ってくる。門が開いているあいだは、誰か一人が必ずこの筒に付いている。筒の脇からは詰所の中まで伝声管が下りていて、その先を口元へ引き寄せれば、覗いたまま話すことができた。
樹縁から、影がいくつか出てきた。
若い門兵は、筒に目を当てたまま伝声管を引き寄せた。
「出ました。……四つです」
詰所の中で、年かさの門兵が帳面から顔を上げた。立って管の口へ顔を寄せる。
「どんな組だ」
「少し、待ってください」
影は、なかなか大きくならなかった。
「……遅いです。間を空けずに寄り集まっています。二つが重なって……一人が、もう一人に肩を貸しています」
詰所の管の口から、短く息を吸う音が聞こえた。
「一つ、小さいです」
「いつもの子だろう」
「……それが、先頭です。後ろの一人は、片脚を引きずって遅れています」
門に長く立っていれば、怪我人の戻ってくる絵は何度も見る。その絵には決まった形がある。いちばん動ける者が前に立って道を選び、動けない者を真ん中へ置く。
管から届いた並びも、その形をしていた。ただ、前に立っているのは、いちばん小さな影だった。その後ろで二つが重なり、最後の一つが遅れている。手が空いているのは、その小さな影だけだった。
年かさの門兵は、詰所の奥へ声を張った。
「担架を二つだ。迎えに出ろ」
担架を抱えた男たちが大門を出ていき、提げた灯りが草原の暗がりへ遠ざかった。
その灯りが戻ってきたのは、だいぶ経ってからだった。
「そのまま支部へ運べ」
前の担架には、革鎧の胸当てを着けた男が載っていた。左腕を吊った布に血が滲み、革の籠手は外されて腰へ括り付けてある。後ろの担架の長身の男は、弓を胸に抱えたまま目を閉じていた。その横を歩いてくる女は無傷に見えたが、顔の半分が土で汚れていた。
「どこでやられた」
年かさの門兵が聞いた。
「浅層だ」
女が短く答えた。
「朝は、三人とあの子と、別々に出ていったな」
「あの子の後を、付けた」
女はそれだけ言って、大門の下を振り返った。
石畳に、小さな影が一つ立っている。白い髪が門灯の光を拾い、赤い目がこちらを見上げていた。見えるところに傷は無い。いつもなら、背丈より大きく膨らんだ採集袋を担いで戻ってくる子だった。その採集袋を、畳んで胸に抱えていた。
「……その採集袋は」
「中身は、駄目になりました」
子供の答えはそれだけだった。
女は担架の後を追っていった。小さな影も、その後ろを歩いていった。大人の腰にも届かない背丈が、支部のほうへ遠ざかる。
年かさの門兵はそれを見送ってから詰所へ戻り、伝声管へ門を閉めると告げた。
大門の扉が閉まった。壁から降りてきた若い門兵が、詰所の帳面の戻りの欄へ時刻を書き入れた。三人の組の行と一人の行に、同じ時刻が並ぶ。
詰所の帳面の欄は、名前と人数と、出た時刻と戻った時刻の四つしかない。行き先も、受けた依頼も書かない。読み返せば、別々に出ていった二つの組が、たまたま同じ頃に戻ってきたとしか読めなかった。
年かさの門兵は、横からそれを見ていた。二人とも、しばらく口を開かなかった。
▽ ▽ ▽
医務室の手当てが終わったのは、夜がだいぶ更けてからだった。
夜の医務室には当直の治療師が一人しかおらず、二人を一度には診られなかった。治療師がクレイルの腕に掛かり、ハーゲンスの腿の傷には、ミオが治癒魔法を掛けた。傷は塞がり、一晩で歩けるところまで戻るだろう。
クレイルの、肘から手首まで走った裂け目は、そうはいかなかった。皮膚は閉じ、血も止まった。だが中で断たれた筋は、つなげなかった。日をかけて戻る者もいれば、戻らないまま終わる者もいる。どちらになるかは、ミオにも分からなかった。
手当てのあいだに、付き添ってきたノエが、浅層で何があったかを短く話していった。
医務室を出ると、ホールの長椅子にリナムーアが座っていた。畳んだ採集袋を、膝の上に抱えている。
ミオは先に、袖から出た腕と首のあたりを見た。擦り傷も無い。リナムーアは長椅子を降りて、ミオのあとについて納品窓口まで来た。
台の内側へ回ったミオが手を伸ばすと、リナムーアは採集袋をそのまま台へ載せた。広げれば口の縁が破れ、内側に土と、潰れた葉の黒い筋が貼り付いている。洗っても使えない。
「今日は、納品がありません」
「はい」
「採集袋も、返せません。すみません」
ミオは採集袋を台の下へ退けた。
「ほかに、報せることは」
「討伐があります」
ミオは台帳を開いた。リナムーアの名の横には、四千という数字が毎日並んでいる。ひと月あまり、一日も欠けていない。その下に今日の行を起こし、日付とリナムーアの名だけを書いた。額の欄は、空いたままになる。
その行の、依頼番号の欄の外側の余白へペン先を置いた。依頼を受けていない討伐は、いつもここへ横向きに書く。
「種と、数を」
「コボルトです。群れは九でした。八、倒れました」
「あなたが倒したのは」
「分かりません。三人と一緒でした」
「魔石は」
「置いてきました。拾う時間が無かったので」
リナムーアは、続けて言った。
「オークが出ました。わたしが囮になって、三人から引き離しました」
ペン先が紙の上で止まった。
ミオは何も言わずに、余白へ横向きに書いた。コボルト、八。それから自分の名前。魔石の欄には斜めに線を引いた。報酬の出ない討伐の記録は、これで一行になる。
「明日も、浅層へ入りますか」
「入ります」
ミオはペンを置いた。窓口の向こうの壁で、灯りが静かに点っている。
「採集袋は、明日の朝、替わりを出しておきます」
▽ ▽ ▽
翌日の昼過ぎ、ギルド長室の扉が二度叩かれた。
長身の男が杖代わりの棒に体を預けて敷居を跨ぎ、その後ろから黒に近い焦茶の髪の女が続いた。オグマは手で椅子を示したが、男は首を振って立ったままでいた。
「ハーゲンスです。こっちがノエ。クレイルは伏せています」
「クレイルの腕は、どうだ」
「塞がりました。ですが、指が二本、まだ思うように動きません」
サリナが窓の桟へ置いた手を、わずかに引いた。ミオは台帳を胸の前に抱えたまま、動かなかった。
「何があったか、順に話せ」
オグマが言うと、ノエが先に口を開いた。
「浅層へ入った。あの子の後ろを、三人で歩いた」
「浅層へ入ったのは、誰の判断だ」
「こっちの判断だ。浅層の境の手前で、あの子が待っていた。止められた」
ノエは間を置かずに続けた。
「二度、止められた。二度とも、こっちが聞かなかった。コボルトが五、横から来た。囲まれた。弾が飛んできた。あの子が撃った。呼ばれた群れが来て、合わせて九になった。八、倒れた」
「その八は、誰が倒した」
「分からない。数えていない」
オグマの喉の奥で、短い音が鳴った。昨夜、窓口で同じ答えが出ていたことは、ミオから聞いている。
「オークのほうは、どうなった」
「あの子が石を投げて、声を掛けて、連れて行った」
ノエはそこで初めて言葉を切った。
「三人とも、何もできなかった」
ハーゲンスが杖を持ち直した。
「……浅層の境までの道も、あの子が選び直しました」
オグマは指を組んだまま、しばらく黙っていた。
「これを、誰に話した」
「救護の者と、詰所の門兵と、ここです」
ハーゲンスの声は落ち着いていた。
「それと、クレイルの腕のことは、報告を出さなければなりません。どこで何に裂かれたかを書かずに出す方法を、俺は知りません。書かずに済ませれば、辻褄の合わない紙が一枚できるだけです」
「書け」
オグマは即答した。
「見たままを書け。足すな。削るな」
二人が出ていき、扉が閉まると、部屋の中の音が消えた。サリナが窓から向き直る。
「……広がります」
オグマは椅子の背へ体を預けた。
「ああ、広がるだろうな。だが、あの三人は言いふらしに行ったわけじゃない。運び込まれた者が、何があったかを言う。それだけだ。止める理由が、こっちには無い」
「以前、この部屋で仰いました。他言はするな、私たちの外へは出すな、と」
「言ったな」
オグマは机の端の紙束へ指を置いた。登録の控えと、監査の控えと、稼ぎの締めが重ねてある。
「あれは今日で終わりだ。隠せるかどうかの話は、昨日の朝までのものだった。……これから決めるのは、どう見せるかのほうだ」
ミオが台帳を開き、余白の一行を見せた。
「コボルト、八とだけ書きました。魔石はありません」
「それでいい」
オグマは頷いた。
「本部へは、入った額と出た額だけを書くと言った。今度は経緯だが、やることは同じだ。あったことだけを書く。理屈は書かん」
サリナが窓の外へ目を戻した。
「……理屈は、こちらにも分かっていませんから」
「そうだな」
▽ ▽ ▽
その夜、訓練場の四隅の柱に灯りが点いた。
サリナは武器掛けから木剣を取らなかった。土をならした広場の真ん中に立ち、藁の人形を背にして、リナムーアが来るのを待っていた。
「昨日のことを、あなたの口から話して」
リナムーアは、起きた順に話した。浅層の境の手前で待ったこと、二度止めたこと、二度とも聞いてもらえなかったこと。弾が尽きて、ナイフで一体を落とすのに三度かかったこと。オークを連れて走ったこと。
聞き終えると、サリナは一度だけ息を吸った。声が、鋭くなった。
「あなたは、逃げられたのよ」
訓練場の土の上で、その一言だけが残った。
「撃たなければ、あなたは数に入れられなかった。浅層の境を跨いで、門をくぐれば、今日も同じように稼げたわ。……分かっていて、撃ったのでしょう」
「はい」
「三人を置いていけなかったのは、分かるわ」
リナムーアは、灯りの下で赤い目を上げた。
「わたしが、あそこへ入るのを見せました。三人は、それで来ました」
「それは、あなたの落ち度ではないわ」
「はい」
子供は否定しなかった。否定しないまま、続けた。
「でも、わたしが見せなければ、あの人たちはあそこにいませんでした」
サリナは何か言おうとして、口を閉じた。しばらく、藁の人形が夜風で細く鳴る音だけがしていた。
「……私に、叱る資格は無いわ」
サリナは前髪の下で目を伏せた。
「私も、同じことをしたわ。仲間を置いていけば、私ひとりは逃げ切れた。それを、戻ったの。結局、二人とも死にかけた。……そのとき私を叱った人も、昔、同じことをしたそうよ」
「……はい」
「叱ったのは、覚えておいてもらうためよ。忘れたら、次は死ぬもの」
サリナは腰の後ろで手を組んだ。
「今日は、入ったのでしょう。向こうは、どうだった?」
「浅層の境を跨いで三十歩も行かないうちに、コボルトの群れがこちらへ向きを変えました。場所を変えても、同じでした。今日は、一株も摘めていません」
「……覚えているのね」
「はい。何日で忘れるのかは、分かりません」
「確かめるの?」
「確かめます」
サリナは止めなかった。止めても行くことを、もう知っている。
「向こうが覚えているなら、撃たずには済まない日もあるわね。弾は、いくつ残っているの」
「一つも、残っていません」
「明日から、また拾っておいて。帰り道に二十でいいわ」
「はい。……二十では、足りないかもしれません」
「それと、明日の朝、武具店へ行くわ」
「……何を、頼むのですか」
「刃渡り五十センチの剣よ」
リナムーアが顔を上げた。
「あなたの背丈で持つものではないと、ガルドは言うでしょうね」
サリナは笑わなかった。
「でも、葉を切る刃であの大きさの相手に向かうくらいなら、背丈に余る剣のほうがましよ。扱い方は、稽古で教えるわ」
「……はい」
「一つだけ、答えなさい」
サリナはリナムーアの正面へ回った。
「次も、同じことが起きたら」
リナムーアはすぐには答えなかった。土の上で足の位置を一度直し、それから低い声で言った。
「分かりません」
子供は俯いた。サリナは息を吐き、武器掛けから木剣を二本取って、片方を投げて寄越した。
「三度で落としたと言ったわね」
「はい」
「あの刃でなら、上出来よ」
リナムーアは、受け取った木剣を握り直した。
▽ ▽ ▽
浅層の様子が変わったのは、三人を連れ出した翌朝からだった。
リナムーアが浅層の境を跨ぐとすぐ、『空識』の下絵に乗った群れが、揃ってこちらへ向きを変えた。リナムーアは幹の陰へ移らなかった。移っても同じだと、動き出しの速さで分かったからだ。その場を離れ、窪地を回って別の場所へ入っても、そこでまた向きを変えられた。
次の日、浅層の境に沿って日向側へ一時間ぶんずらして入っても、変わらなかった。あの日の場所から遠く離れた群れまでが、こちらの姿を見た時点で歩みを速くする。
それでも、どこまで行っても同じというわけではなかった。日向側へさらに歩くと、鼻を上げるだけで動かない個体が出てくる。日陰側は駄目だった。浅層の境から三十分の内側という自分で引いた枠の中で、使える場所は三分の一ほどしか残っていなかった。
四日目あたりから、向かってくる動きが緩みはじめた。顔をこちらへ向けたきり動かない一体がいた。数歩寄って止まり、群れの進路へ戻っていく一体もいた。
六日目には、目の前を四体の群れが横切った。先頭の一体がこちらへ鼻を向けたが、すぐに顔を戻し、そのまま通り過ぎていった。あの日より前と、同じだった。ただ一体だけ、離れたところで長く鼻を上げたまま、顔をこちらへ向けていた。あの日藪へ消えた一体かどうかは、分からない。
コボルトに獲物として追われたのは、五日だった。
そのあいだ、窓口の台帳の数字は揃わなかった。
初日と二日目は空欄になった。三日目から小さな数字が入りはじめ、四千へ戻ったのは六日目だった。
四千という数字が縦に続いていた場所は、その下で途切れている。四半期の締めを作るとき、この凹みは行を数えるまでもなく目に入るだろう。ミオは並びを一度だけ指で押さえ、台帳を閉じた。
▽ ▽ ▽
四千へ戻ったその日の夕方、ホールの表の扉が開いた。
門灯の点る少し前だった。入ってきたのは冒険者ではなく、濃紺の上衣を着た使いの者で、両手で革の筒を持っていた。受付で名を告げ、ギルド長宛ての書状であると述べた。受け取った職員に、持ってきた帳面へ受け取りの名を書かせると、来たときと同じ速さで出ていった。
受付から筒を預かったミオが、ギルド長室まで運んだ。オグマが蓋を抜くと、畳まれた紙の端に蝋の封が落ちている。灰色でも黒でもなく、赤い蝋だった。押されているのは辺境伯領の役所の印で、支部の紙にも本部の紙にも、これまで一度も付いたことのない形をしていた。
オグマは机の上へそれを置き、しばらく動かさなかった。サリナが扉の内側で足を止め、ミオは扉の脇へ下がった。
窓の外で門灯が点った。机の上の赤い蝋が、その光を一つぶん返していた。




