第28話 囮(おとり)
樹縁をくぐってから、浅層の境までの道のりを、もうほとんど来ていた。
『空識』の下絵に入った三つの影は、その間ずっと、距離を保ちつつ付いてきていた。何らかの感知手段があるのだろう。手段はどうあれ、周りの状況を知ることができるのは、リナムーアだけの強みというわけではない。
(撒くだけなら、できる)
外縁部の地面は根と倒木で波打っている。下絵の動きを見る限り、三人はいまの速さにどうにか食らいついているだけだ。幹の間の狭い抜け道を選び、そこへ入って速さを上げれば、大人の体の大きさでは、付いてこられないはずだ。けれども撒いたところで、あの三人は引き返さない気がした。窓口で納得していなかった顔を、リナムーアは覚えている。
走るうちに空は明るくなり、幹の輪郭がひとつずつ分かれていった。下草の丈が変わったのは、いつもと同じ頃合いだった。
浅層の境の手前で、リナムーアは足を止めた。
膝の高さの草が、十歩ほど先で一斉に途切れている。向こう側は丈の低い草が疎らに散るだけの地面で、木はひと回り太く、そのぶん本数が少ない。
振り返って、待った。
下草を割る音が三つぶん近づき、やがて革鎧の胸当てが藪の間から出てきた。左腕に丸い盾を通し、腰に剣を提げたクレイルである。弓を背負ったハーゲンスと、荷を担いだノエが後に続き、ノエの背からは短槍の柄が覗いていた。クレイルは肩で息をしながら足を止め、それからリナムーアが自分のほうを向いて立っているのに気づいて、わずかに顎を引いた。
「……待っていたのか」
「はい」
ハーゲンスは背の弓を手に移し、矢筒の口を押さえていた。ノエは荷袋の紐を肩へ掛け直し、浅層の境の向こうへ目をやった。
「草が、変わった」
「ここが浅層の境です」
リナムーアは言った。
「向こうは浅層です」
「分かってる」
クレイルが一歩前へ出た。
「聞いて回ったが、誰も本当のところは知らなかった。図譜に書いてあることだけだ。……なら、見るしかない」
「見て、どうするのですか」
「あんたと同じ場所に立つ。それで同じだけ採れるなら、おれたちの計算が間違っていたというだけの話だ」
リナムーアと同じ場所に立てるという前提が間違っているだけで、筋は通っていた。通っているからこそ、その前提が誤りである理由を話せないリナムーアには、返せる言葉が少なかった。
リナムーアは息を一つ吸って、三人を見上げた。
「ここから先は、わたしと同じようには歩けません」
ハーゲンスの目が細くなった。クレイルの眉が寄る。
「……それは、どういう意味だ」
「言葉のとおりです」
「おれたちには無理だと言っているのか。三つの子が、大人三人に」
声に棘が混じった。
「稼ぎ場を教えたくないなら、そう言えばいい」
「そうではありません」
「なら説明しろ。何がどう違う」
説明はできなかった。できる形に直せば、嘘になる。
ハーゲンスが弦へ指を掛けたまま、口を開いた。
「クレイル。今日は戻らないか」
「なぜだ」
「この子は、見ろとも来いとも言っていない。止めている。……独り占めが目当てなら、こんな止め方はしない」
「お前はいつもそうだ」
クレイルは振り向きもしなかった。
「三分の一だぞ。おれたちは三人がかりで、三分の一も埋められなかった。それを毎日一人でやられて、何も確かめずに帰れるか」
ハーゲンスは何か言いかけて、やめた。ノエは二人の間で、浅層の境のほうを見ているだけだった。
リナムーアには、それ以上の手が無かった。三人はEで、自分もEだった。浅層へ入るのに支部の許しが要らない以上、この三人を止める資格はなかった。他の冒険者の後を付けるということ自体、諍いになっても不思議ではないほどの、あまり行儀の良いことではなかったが。
「……分かりました」
リナムーアは浅層の境のほうへ向き直った。
「わたしは、いつもどおりにします。ついてくるなら、わたしの足あとは辿らないでください」
「なぜだ」
「わたしが通れる場所と、みなさんが通れる場所は、同じではないからです」
クレイルは答えなかった。
リナムーアは浅層の境を跨いだ。足の裏へ、固い土が返った。
▽ ▽ ▽
浅層では走らない。こちらから手を出さなければ、リナムーアは数には入らないが、例外が無いとも限らない。彼女は、自分にある盾を過信するつもりはなかった。
見通しが利くぶん、走ればこちらも見られる。それに一体を避けて回り込めば、その先にまた一体いる。止まってやり過ごし、回り込む。その繰り返しが、結局は大人の歩く速さに落ち着く。
リナムーアは、下絵で影を数えた。
コボルトが四つ、奥の日陰側に固まっている。離れた場所に、もう一つ。小さいのが二つ、日向側の低いところを動いている。そして、リナムーアの少し表側の位置に、人の影が三つ。
下絵を探ると、十分も歩かない所にミド草の株を見つけた。リナムーアはその前にしゃがみ、根元に近い葉から順にナイフの刃を当てていく。一枚落とすたびに、下絵を読み直した。
三人の動きは、間違っていなかった。
藪から藪へ、身を低くして移る。ハーゲンスが先に周りを見て、それからクレイルが動き、最後にノエが荷を抱えて続く。一度に動くのは一人だけだった。隠れながら採るという、浅層の正しいやり方だ。
間違っているのは、そこではない。
三人はリナムーアの通った道筋を辿っていた。二十歩ほど遅れて、同じ幹の陰を使い、同じ窪みを跨いで進んでくる。安全な道だと思っているのだ。
(……あれは、道じゃない)
彼女が群れを避ける手順は、群れの進路から離れるだけだ。相手の進路の外へ出て、群れが通り過ぎるのを待つ。それで済むのは向こうがこちらを数に入れないからであって、歩いた跡が安全だからではない。同じ場所を他の人が歩けば、そこは隠れる場所の無い、ただ開けた地面でしかない。
リナムーアは立ち上がり、藪の縁まで二十歩戻った。
「そちらは、下草がありません」
「見れば分かる」
「見通しの利く場所です。向こうからも、同じだけ見えます」
「だから隠れている」
クレイルは苛立ちを声に出さなかったが、目が動いた。
「先へ行け。邪魔だ」
ハーゲンスが低い声で何か言い、クレイルがそれを片手で払った。リナムーアは口を閉じて、次の株へ歩いた。
株を摘み始めて一時間あまり経った頃、下絵の日陰側の四つが動いた。
群れは表へ向かって、間を変えずに進んでくる。先頭が一体、その後ろに二体が横並び、最後の一体がさらに後ろ。リナムーアは葉を落とす手を止め、群れの進路から三十歩ほど外れた幹の陰へ移った。それだけだった。
四体は四十メートルの向こうを横切っていった。先頭の一体が鼻をこちらへ向け、そして向け直した。
息を詰めていたのは、後ろの三人のほうだった。
やがて、風の切れ目にクレイルの声が届いた。
「……見たか。あの距離だぞ」
「見た」
ノエの声だった。クレイルがすぐに続けた。
「隠れ方の問題だ。それだけだったんだ」
(違う)
言いに戻ろうとして、足が止まった。戻って何を言うのか。隠れ方の問題ではないと言うなら、では何の問題なのかを言わなければならない。
リナムーアは採集袋の口を押さえ、次の株の前へしゃがみ直した。
▽ ▽ ▽
採集袋が半分ほど埋まった頃だった。
群れが通り過ぎてから、三人はリナムーアの通った道筋を辿るのをやめていた。自分たちで株を探しながら日向側へ寄っていき、距離はいつの間にか開いている。
下絵の日向側の縁から、新しい影が五つ入ってきた。
固まってはいない。扇のように広がったまま、間を詰めて寄ってくる。先頭の一体が窪地の縁で止まり、鼻を上げた。残りの四体も、同じ位置で止まる。
その扇の先に、三人がいた。
三人は気づいていない。ハーゲンスは藪の中で膝をついたまま、群れの去った奥のほうだけを見ている。コボルトは横から来ていた。
リナムーアが声を上げようと息を吸ったときには、五体が走り出していた。
先に気づいたのはハーゲンスだった。弓が上がり、弦の鳴る音が短く響く。矢は先頭の一体の肩へ入ったが、足は止まらなかった。
「横だ! クレイル、横!」
クレイルが藪から跳ね出し、体ごとぶつかるようにして盾で一体を受け止めた。ノエが荷を捨て、背の短槍を外して脇へ回る。
「二体、後ろへ回った」
「押さえろ!」
三対五。前へ出たクレイルの背中側へ、二体が回り込んでいく。
リナムーアは、助けに回るかどうか逡巡した。
この場を離れれば、それで済む。歩いて浅層の境を跨ぎ、外縁部へ出て、魔境側の大門をくぐればいい。コボルトは彼女を数に入れない。今日も、明日も、そのあともだ。撃たなければ盾は消えない。採集袋は半分埋まっていて、門灯までにはまだ充分な時間がある。
それは本当に、そこにある道だった。
(……わたしが、ここへ入るのを見せた)
三人は、そのために来ている。
リナムーアは立ち上がりながら、肩の採集袋を足元へ落とした。弾入れへ指を入れ、丸い弾を一つつまみ出した。
走り込みながら革帯へ挟んで、頬の横まで引く。『空識』が、クレイルの背へ回り込んだ一体の側頭部までを二十二メートルと返した。弾の落ちる分だけ、狙いを耳の上へ置き直す。
指を離した。
短く鈍い音がして、犬の頭が横へ弾かれた。体は横倒しに崩れ、動かなくなった。
その瞬間に、リナムーアの盾が消えた。
▽ ▽ ▽
残る四体のうち、二体がリナムーアのほうへ顔を向けた。
クレイルと組み合っていた一体までが、牙を剥いたまま首を回す。その顔は、こちらへ向いたまま動かなかった。
弾の数を、リナムーアは覚えていた。拾うのをやめてから、弾入れの中は十六のままだ。一つ使った。残りは十五。
(数えながら撃つ)
走り続けた。止まればすぐに近づかれる。狙いの揺れが消えるところで放せばいい。訓練場で合わせた頃合いが、そのまま体に残っている。横へ流れながら帯を引き、『空識』の返す距離を頼りに狙いをつけて、指を離した。
一発目、外れた。二発目、額に入った。
十三。
倒れた一体の上で、別の一体が吠えた。
長く尾を引く声だった。遠吠えに応えるように、日陰側から影が四つ、下絵の縁へ揃って入ってきた。コボルトの形だった。四つとも、まっすぐこちらへ向かっている。
一度こちらを数に入れた相手が、それを仲間へ伝えるのかどうか。ゴブリンを撃った日から、ずっと分からずにいたことだった。
(……伝えている)
挟む。撃つ。外す。挟む。撃つ。当たる。
十一。
四つが、見る間に縁から内側へ詰めてきた。走り方は、先にこちらを数え直した群れと同じだった。
背後でクレイルの盾が弾かれる音がした。振り返る余裕は無い。ハーゲンスの矢が二本続けて飛び、一本が一体の喉へ入って、もう一本は幹に刺さった。ノエの短槍が横薙ぎに一体の脚を払う。
七。四。一。
最後の一つを挟んで引いたとき、狙いの先にいた一体が横へ跳んだ。弾は空を抜け、後ろの幹を叩いた。
弾入れの中で、指が底を撫でた。
リナムーアはスリングショットを腰の革ベルトへ差し、鉄のナイフを抜いた。
葉を切るための刃だった。長さは掌に収まるほどしかなく、柄を握ると、刃先は拳一つ分だけ前へ出る。
目の前の一体が沈んだ。
サリナに教わったのは、速さではない。間合いだ。自分の腕の届く先と、相手の腕の届く先。その二本の線のあいだにある、大人の一歩ほどの帯。そこを越えなければ、何を振っても当たらない。しかし、いま握っている刃は、稽古の木剣よりずっと短い。より深く入る必要がある。
踏み込んだ。届かなかった。
振られた腕の下をくぐって抜け、三歩踏んで向き直る。爪の切った風が、髪の上を通った。もう一度踏み込む。『空識』が、相手の踵が浮くのを返した。下がる前触れだ。リナムーアは合わせて前へ出た。刃は膝の裏へ入り、浅く裂いただけで抜けた。
倒れない。
下がって、回り込んで、三度目でようやく膝が落ちた。落ちた頭が、ちょうど目の高さに来た。この刃で届くのは、骨に守られていないところだけだ。白目だけの目へ、刃を根元まで突き入れた。
崩れる体の重さが、柄を握る手首へ返ってきた。
背後で、短い声が上がった。
クレイルの盾が地面に落ちていた。盾を持っていた左腕が、肘から手首までまっすぐに裂けている。革の籠手が布のように口を開き、その下が赤かった。飛びついた一体の横腹を、ノエが槍で刺し貫いている。
「立て。クレイル、立て」
「……立ってる」
ハーゲンスの矢筒は、もう空だった。
▽ ▽ ▽
地面が揺れた。
一歩ごとに乾いた土が跳ね、踏まれた草が起き上がらない。木の間から出てきたものは、背丈だけならハーゲンスと変わらなかった。幅と厚みは、その倍あった。猪の頭が、こちらを向いている。
生き残っていた一体のコボルトが、そちらへ一度顔を向けて、藪へ消えた。
オークの小さな目が、地面を舐めるように動いて、クレイルの上で止まった。
弾は無い。刃は葉を切るためのもので、あの腕は、自分の胴ほどの太さがある。剣は、まだ持っていない。
倒す手立ては、一つも無かった。
三人は動けない。クレイルは左腕を押さえて膝をついている。ハーゲンスは腿から血を流し、ノエはその二人を起こすだけで手が塞がっていた。担ぐことも、肩を貸すこともできない。リナムーアの肩は、大人の腰にも届かない。
残っている手は、一つだけだった。
(……当てれば、こちらを向く)
盾があるあいだ、魔物はこちらを数に入れない。それでも、打ちかかってくるものを放っておく獣はいない。
リナムーアは足元の石を拾った。丸くもなければ、弾に使える大きさでもない。それを振りかぶって、猪の頭へ投げつけた。
音は鈍かった。傷にはならなかっただろう。
小さな目が、クレイルから離れてこちらを向いた。
「こっちです」
言葉が通じるとは思っていなかった。それでも、声は出した。
オークが向きを変えた。
走った。
浅層では走らない、と決めてあった。見られないためだった。いまは、見られるために走っている。
背後で重い足音が土を叩いた。速い。人が走るより、ずっと速い。それでも、リナムーアのほうが速かった。
幹を三本挟んで折れ、窪地の縁を回り、下絵の中で足音との間を測る。三十メートル。五十メートル。八十メートル。百メートルの縁へ届いたところで、影は下絵から出た。
そこから百を数えてから、大きく弧を描いて戻った。
戻る途中、採集袋の落ちた場所を通った。口が開いて、中身は踏み荒らされていた。厚い葉が土に混じり、半分は潰れている。リナムーアは空になった採集袋を畳み、胸に抱えた。
三人のところへ着いたとき、ノエがクレイルを立たせているところだった。ハーゲンスは弓を杖にして、片脚で体を支えている。
「……あんた」
クレイルが何か言いかけた。
「まだです」
リナムーアは浅層の境のほうを指した。
「群れが、まだ残っています。外縁部まで出ます」
「歩ける」
ノエが短く言って、クレイルの右腕を自分の肩へ回した。
浅層の境までは、歩いて二十分ほどの距離だった。その二十分を、四人は一時間近くかけて進んだ。
リナムーアは先を歩き、下絵の縁まで影を数え続けた。二度、道を変えた。一度は群れの進路を避けるためで、もう一度は、開けた地面を通らせないためだった。
下草が戻ってきた。
膝の高さの草が、十歩ほど先で一斉に立ち上がっている。リナムーアは浅層の境を跨いだ。
足の裏へ、柔らかい土が返ってきた。腐葉土が沈んで、靴を受け止める。
後ろで、三つぶんの足音が浅層の境を越えた。誰も何も言わなかった。荒い息だけが、三つ、落ち葉の上へ落ちていた。




