第4話 回復(かいふく)
(さむい……おなか、すいた……)
浮かぶのは、それだけだった。頭の中は白く霞んでいて、考えと呼べるほどのものは形にならない。
温かい湯が喉を通っていく。柔らかい布団が胸の上に重い。誰かの指が、ときどき頬に触れる。切れ切れのそうした感触だけが、リナムーアをこちら側へつなぎ止めていた。
ときおり、頭の奥で、言葉のようなものが並びかけては崩れた。『己識』が勝手に何かを返してきているらしい。けれど、それを読み取る力は、まだどこにも残っていなかった。
三日目。重湯に、わずかな塩気とすりつぶした野菜が加わった。
五日目。柔らかく煮込んだ粥に、細かく刻んだ肉が混じるようになった。
七日目の朝、目を開けると、天井がはっきりと見えた。
(……生きている、のか)
考えが、考えの形をしていた。四十二年ぶんの記憶と、その頃の頭の癖。草薙賢悟だったものが、小さな体の中でもう一度動き出していた。
リナムーアは天井を見つめたまま、置かれた状況を並べ直した。
(冒険者ギルドに保護されている。孤児院からは切り離された。この先のことは、体が戻ってから俺の考えを聞いて決める、とギルド長は言っていた)
霞んだ頭の中で、その言葉だけは残っていた。大きな体を折って目の高さを合わせた男を、サリナは「ギルド長」と呼んでいた。
保護はありがたい。だが、いつまで面倒を見てもらえるのか、戻ったあとに何を求められるのかは、何も聞いていなかった。
(甘えていられる立場じゃない。この世界での俺の後ろ盾は、実質ゼロだ。自分の足で立てるようにならないと、いつ放り出されてもおかしくない)
答えは、すぐに出た。冒険者として、自分で稼ぐ。この体でそれができるかどうかは、そのあとの話だった。
リナムーアは『己識』を発動した。
頭の中に、言葉が一行ずつ並んでいった。
——栄養状態:重度不良(回復傾向)
——筋力:著しい低下
——骨密度:低下
——免疫機能:低下
——魔力量:極微量(測定不可)
(……ゲームのステータス画面だな)
前世で見慣れた並びに、場違いな懐かしさを覚えた。けれど、笑えるような中身ではなかった。どの行も、この体が危うい縁にいることを示している。
(まずは栄養だ。話はそれからでいい)
足りないものを、一つずつ頭の中で挙げていく。肉に多いもの、血を作るもの、骨を作るもの。前世で読みかじった知識と、『己識』の返す羅列とを突き合わせて、先に要るものから順に並べた。
それをミオに伝える言葉は、まだ持っていなかった。
けれど、翌日の粥には刻んだ肉が増え、その次の日には、骨ごと煮込んだ魚の汁がついた。並べた順と、ミオの出してくる順は、ほとんど同じだった。リナムーアは、黙って匙を口へ運んだ。
▽ ▽ ▽
言葉の問題は、思っていたより小さかった。
聞いて分かることは、初めからできていた。孤児院長の罵倒も、ギルドで交わされたやり取りも、意味は取れていた。足りないのは、話すための言葉のほうだった。まともに話しかけられずに育った三年で、この体は言葉の数も、声の出し方も身に付けていなかった。
(聞き取れるなら、あとは真似ればいい。助詞の使い方も語順も、ほとんど日本語だ)
ミオとサリナの話す声に耳を澄まし、言い回しを一つずつ拾っていった。字は、寝台の脇でミオが一つずつ教えてくれた。
ある日の昼、ミオが粥の椀を運んできた。
「今日は、少し具が増えましたよ」
リナムーアは、粥に浮いた緑の葉を指さした。
「……この、みどりの、なに」
喉から出た声は細く、舌も回らなかった。それでも、言葉の形にはなっていた。
ミオの手の中で、匙が止まった。
「え……あ、これは、クフ草です。この辺りでよく採れる野草で、癖はありますけど、体にいいんですよ」
「くふそう。……おぼえた」
「リナムーア、言葉……」
「わからないの、いっぱい、ある。でも、おしえてもらえたら、すぐ、おぼえる」
ミオは匙を持ったまま、しばらく黙ってリナムーアを見ていた。ついこのあいだまで、目で人を追うことさえ覚束なかった子供だった。
(知らない言葉は、聞けばいい。聞くほど増える)
その日から、リナムーアは目についた物の名を次々に尋ねた。ミオが世話をする合間にも、サリナが顔を見に来たときにも。
覚えたばかりの呼び方で「ミオさん」と呼んだ日のことだった。ミオは困ったように眉を下げ、首を横に振った。
「さん、は要りませんよ。ただのミオで構いません。あまり畏まられると、落ち着かないので」
寝台の脇で聞いていたサリナも、うんうんと頷いた。
「私も、それでいいわ。様付けとかさん付けされたら、他人行儀みたいでなんだか寂しいもの。呼び捨てで呼んでちょうだい」
(距離の取り方の作法は、まだよく分からないが……言われたとおりにしておこう)
「わかった。……ミオ、サリナ、って、よぶ」
ある日の夕方、ミオが壁の灯りの魔道具の蓋を開け、中から豆粒ほどの灰色の石を取り出した。代わりに、同じ大きさの石を一つ嵌め込む。
「これ、なあに」
「これは魔石です。魔物を倒すと出てくる、魔力の塊なんですよ。この灯りも、これで点っているんです」
「ませき。……まものから、でる」
一つ教われば、次にはもう自分の言葉の中で使っている。サリナもミオも、そのうち驚くのをやめて、目を細めて見守るようになった。
「リナムーアは、賢いのね」
サリナに頭を撫でられて、胸の奥がじんわりと温かくなった。
(悪くない、な。褒められるのは)
自分で少し戸惑った。前世では、人からどう見られるかに大して関心が無かったはずだ。それがいまは、たった一言で胸の内が明るくなる。
(この体のせいか、それとも……まあ、いい。悪い気分じゃない)
▽ ▽ ▽
それから数週間、体を戻す日が続いた。
ミオの組んだ手順は、寝台の上で指先を動かすところから始まった。次に手足を伸ばし、それから寝台の縁につかまって立つ。立てるようになると、ミオの手を借りて部屋の中を一往復した。
そのたびに、リナムーアは『己識』を発動した。筋の張り、関節の曲がり具合、息の上がり方。並びが悪いほうへ傾く手前で止め、翌日は少しだけ先まで進める。焦って一度に取り戻そうとはしなかった。壊せば、そのぶん戻るのが遅れる。
やがて、支えなしで部屋の端から端まで歩けるようになった。走ることも、跳ねることもできた。
ただ、背丈だけは、少しも伸びなかった。飢えていた三年の遅れは、数週間では取り戻せないらしい。それでも、骨に皮が貼り付いていた腕には丸みが戻り、白い肌にはかすかな血の色が差すようになっていた。
療養室の壁には、小さな鏡が掛かっていた。
リナムーアは寝台の縁に立ち、鏡の中を覗き込んだ。白く長い髪。ルビーのような赤い瞳。輪郭は幼いが、目鼻立ちは驚くほど整っている。どこか浮世離れした顔の少女が、こちらを見返していた。
(これが、俺の今の姿、か……)
頬に手を当てると、鏡の中の少女も同じように頬に手を当てた。リナムーアはしばらくそうしてから、手を下ろした。
▽ ▽ ▽
寝台を下りて自分で靴を履き、紐まで結べるようになった日の朝だった。
ミオはリナムーアの手足を一つずつ確かめ、最後に額へ掌を当てた。それから、ゆっくりと手を離した。
「もう、すっかり元気になりましたね」
「はい。……ミオの、おかげ」
ミオは少し笑って、首を横に振った。
「ギルド長が、お話ししたいそうです。これから、行けますか」
リナムーアは頷いた。保護の先に何があるのかを、ようやく聞ける。
療養室の戸の前で、ミオが手を差し出した。歩くのに、もう手を引いてもらう必要はなかった。リナムーアは少しだけ迷ってから、その手を取った。




