第26話 浅層(せんそう)
浅層の境を跨いだ足の裏へ、土の固さがそのまま返ってきた。
外縁部の林床なら、踏めば落ち葉と腐葉土が沈んで靴を受け止める。こちらにはそれが無い。丈の低い草が疎らに生えた地面は乾いていて、靴底の下で小石が一つ転がった。
リナムーアは二歩目を出す前に振り返った。浅層の境の手前では、見慣れた下草が膝の高さで揺れている。戻るならあそこだ。
携帯時計を出して、針の位置を覚えた。長針が半周するぶん歩いたら、そこから奥へは入らない。
百メートルの縁まで届く『空識』の下絵を頼りに、幹から幹へと渡っていった。走りはしない。一本の陰で止まって下絵を数え直し、それから次の一本を選ぶ。昨夜サリナに告げたとおりの歩き方で、進む速さは大人の足と変わらなかった。
十五分ほど進んだところで、下絵に影が一つ入った。
人の形に近いが、人より小さい。上下の揺れが少なく、足の運びが速い。周りを探っても、ほかに影は無かった。一体きりだ。
リナムーアは太い幹の陰へ寄って膝をついた。距離は六十メートルほど。奥の日陰側から、斜めにこちらへ寄ってくる道筋を歩いている。目を据えると、犬の頭が木の間を横切るのが見えた。茶色の毛に、腰の黒い布。口の端からは、今日も涎が糸を引いていた。
(……一体。条件どおりだ)
撃つ前に、戻る道を決める。来た道筋を逆に辿れば、幹の陰を三つ繋いで浅層の境へ出られる。途中の窪地は浅く、足を取られる根も無い。下絵の中で、その道筋に乗っている影は一つも無かった。
今日まず確かめるのは、姿を見せてどうなるかではない。弾がこの相手を本当に止めるかどうかだ。止まらないのなら、ほかの何を確かめても意味が無い。
コボルトは下草の薄い地面を、鼻先を少し上げて歩いていた。こちらへは顔を向けていない。リナムーアは腰の弾入れから丸い弾を一つ取り、革帯へ挟んで幹の陰から肩だけを出した。
距離が二十メートルを切ったところで、帯を頬の横まで引いた。『空識』が側頭部までを十八メートルと返す。弾の落ちる分だけ、狙いを耳の上へ置き直した。
指を離した。
短く鈍い音がして、犬の頭が横へ弾かれた。体はよろめきもせずに、そのまま横倒しに崩れた。後ろ脚が一度だけ土を掻いて、止まる。
リナムーアは次の弾を挟んだまま、目をはなさなかった。起き上がらない。倒れた体の縁が煙の立つように崩れ始め、黒い霧に変わった端から薄れていく。腰の布も、顎を濡らしていた涎も、同じ黒さでほどけた。
残ったのは灰色の粒魔石が一つで、ゴブリンのものよりひと回り大きかった。
(止まる。……サリナの言ったとおりだ)
粒魔石を拾って布に包み、腰の魔石入れへ落とした。携帯時計を見ると、浅層の境を跨いでからまだ二十分と経っていなかった。
▽ ▽ ▽
二体目のコボルトも、一体きりで歩いていた。
今度は隠れなかった。リナムーアは藪の陰から出て、相手の進路の十五メートル先に立った。下草の薄い地面には、身を隠すものが何も無い。向こうの目が通る筋の、ちょうど真ん中だった。
犬の頭が、こちらへ向いた。
そこで一度、鼻が動いた。濡れた鼻先が二度ひくつき、首がわずかにこちらへ傾く。
それだけだった。顔はすぐに脇へ逸れ、足は止まらなかった。
(……嗅いでは、いる)
匂いは届いている。届いたうえで、放っておかれた。下見の日に四十メートル先で起きていたのも、たぶん同じことだ。
五歩、前へ出た。靴底の下で小石が鳴る音に耳が動き、獣の生臭さがこちらまで届く。それでもコボルトは歩き続けた。横へ回り込み、進む先へ立つ。三歩の距離まで来て、ようやく足が止まった。唇がさらに捲れ、喉の奥で低く唸る。持ち上がった片手が、顔の前を横へ薙いだ。
リナムーアは後ろへ飛びのいた。伸びた爪が空を切る。コボルトは払った先を確かめもせずに、向きを少し変えて歩き出した。
(ゴブリンと、同じだ)
羽虫を払う手つきだった。鼻が利くぶん、ゴブリンより少し長くこちらを気にしていた。違いはそれだけだ。その一体は、撃たずに行かせた。
残る確かめごとには、群れが要る。日が高くなりはじめた頃、下絵に三つの影が寄り合って入った。窪地の底で、三体が何かの骨を奪い合っている。サリナの条件は一体だった。ただし、確かめてからなら群れでいい。
リナムーアは太い幹を背にして、窪地の縁から二十メートルの位置に着いた。三体とも、こちらが見える位置取りではない。背を向けていた一体の後頭部へ、弾を入れた。
残る二体は跳ねるように振り返り、倒れた仲間へ飛びついた。それから二体とも鼻を上げ、空気を嗅ぎ分けるように顔を巡らせる。片方が、リナムーアの隠れている幹のほうへ三歩寄った。
息を止めた。
三歩で止まった。鼻先はこちらを向いたまま、しばらく揺れていた。やがてその一体は吠え声を一つ上げると、まるで見当違いの藪へ突っ込んで葉を撒き散らした。
(分かっていない)
匂いは拾っている。けれどもその匂いが、仲間を倒したものと結びつかない。景色の匂いだからだ。
リナムーアは幹の陰から出た。藪から戻ってきた一体の顔が、正面からこちらを向いた。やはり逸れた。逸れきる前に、その額へ弾を入れた。
最後の一体の顔は、今度は逸れずに止まった。
牙が剥き出しになり、姿勢が低く沈む。出足はゴブリンよりずっと速く、彼我の距離が見る間に縮んでいく。リナムーアは横へ走った。相手の進路と自分の進路が重ならない角度を付け、走りながら帯を引く。『空識』が十一メートルと返したところで、弾の着く先へ狙いを置いて指を離した。
前へ伸びていた体が、勢いのまま地面を滑って止まった。
粒魔石を三つ拾ってから、来た道のりを勘定し直した。浅層の境から三十分の内側を、まだ出ていなかった。
オークを見つけたのは、浅層の境のほうへ戻りかけたときだった。下絵の端に、大きさの合わない影が一つ入った。周りに仲間はいない。リナムーアは近づかずに藪の陰から出て、五十メートル先の相手の目が通る場所へ立っただけだった。
猪の頭がこちらを向いた。小さな目が顔の上を通り、そのまま流れていった。重い足音は間を変えずに続き、やがて幹の向こうへ消えた。
(手を出さなければ、ここでも景色だ)
▽ ▽ ▽
下見の日に見つけた株は、もう同じ場所には無かった。魔境の草は、毎日生える場所を変える。分かっていたことなので、探し直すだけだった。
下絵の百メートルの内側に、ハートを縦に潰したような形の葉を、茎から寸分違わぬ間隔で出している株がいくつも拾えた。
ただし、その全てがミド草であるはずはなかった。
図譜には、同じ姿の別の草が混じって生えると書いてあった。見分け方は書いていない。判別機にかけるほかは無い、と一行あるだけだった。
狙いを一株ずつ付けていく。葉の一枚ずつが、厚みを持った形で返ってきた。さらに絞り込むと、その厚みの内側まで分かれて感じ取れる。細い管が網のように走っている葉を持つ株と、中身の詰まり方が一様で何も走っていない葉を持つ株があった。薬になる葉なら、中に何かを持っているはずだ。網のあるほうが本物だろう。リナムーアはそう当たりをつけた。
網のある株のほうへ寄り、しゃがんで目で確かめた。形は同じだった。指でつまんでも、違いは分からない。ナイフで一枚落として手に載せると、ボド草の葉よりずっと重かった。厚みが倍ほどある。
ボド草の時と同じく、本物だと言えそうな株の数は少なかった。
(……外れのほうが多いのは、こっちも同じか)
だが外れを見分けるのに、株の前まで歩く必要は無い。外縁部でやってきたことと、手順は何も変わらなかった。当たりの株だけを回り、葉を落として採集袋へ入れる。一株を刈り終えたら下絵を数え直し、次の当たりを選ぶ。
その間に、下絵の中を影が何度も横切った。コボルトの四体の群れが、三十メートルほど先を通り過ぎていったこともある。リナムーアは葉を落とす手を止めて、群れの進路から離れた幹の陰へ移っただけだった。群れの先頭の一体がこちらへ鼻を向け、そして向け直した。
採集袋を外縁部ではなくこちらで満たすのなら、外縁部でボド草を採っていたぶんの時間が、そのまま浅層の境の向こうで使える。浅層の境から三十分の内側だけで、当たりの株は途切れなかった。一枚が大きいぶん、採集袋は目に見えて膨らんでいく。
採集袋の口が閉まらなくなったのは、日が傾きはじめた頃だった。
リナムーアは口を麻紐で括り、背に担いだ。重さの感じは、ボド草の日と変わらない。浅層の境を跨いで外縁部の下草の中へ戻ると、足の裏がまた柔らかく沈んだ。
▽ ▽ ▽
魔境側の大門をくぐったとき、門灯はまだ点っていなかった。
ギルドの納品窓口には、ミオのほかにサリナがいた。窓口の脇の壁に背を預けて、腕を組んでいる。いつもなら日の高いうちに戻るリナムーアが、今日は夕方まで戻らなかった。三つの条件を付けて交戦を許した、その初日だった。
リナムーアが採集袋を下ろすと、サリナは壁から背を離した。
「おかえりなさい。遅かったわね」
「ただいま戻りました。検証に、三時間使いました」
ミオは何も言わずに、採集袋の口を解いた。一枚をつまみ上げて、その手が止まる。濃い緑の、厚みのある葉だった。
「……ミド草ですね」
「はい。浅層の境から三十分の内側で採りました」
ミオは中身を金属の盆へ空け、判別機へ流し込んだ。葉はすべて片側へ寄り、下の受け皿は最後まで空のままだった。秤の針が止まるのを待って台帳へ書き付けてから、ミオは顔を上げた。
「……外れは一枚もありません。四千ムーアです」
銀貨が四枚、窓口の台に並んだ。リナムーアはそこへ、布の包みを添えた。
「コボルトの魔石です。四つあります」
「……四つ」
サリナの声が、少しだけ低くなった。開きかけた口を閉じて、ホールのほうへ目をやる。掲示板の前には、戻ったばかりの冒険者たちがまだ固まっていた。
「続きは、訓練場で」
「はい」
ミオが包みを開き、灰色の粒魔石を一つずつ銀貨の横へ並べた。
「魔石が一つ二十ムーアで、討伐の報酬が三十ムーア。一体で五十ムーアです」
ミオは粒魔石を台の内側の箱へ落とし、銀貨をそろえてリナムーアの前へ押し出した。それから台帳へ顔を戻しかけて、手を止めた。
「リナムーア。明日からの報酬は、ここで渡さずに、預け入れの額へそのまま足しておきましょうか」
「足しておく、ですか」
「毎日銀貨を受け取って、その足で預けに並び直すのは手間でしょう。納品のときにギルドカードを見せてもらえれば、台帳の記帳と一緒に済ませます」
「お願いします」
ミオは頷いて、台帳の余白に小さく印を付けた。
窓口の向こうの壁で、灯りがひとりでに点った。外で門灯が点る時刻だった。
▽ ▽ ▽
その夜の訓練場には、サリナのほかにミオもいた。サリナは腕を組み、ミオは手控えを抱えて、柱の灯りの下に立っている。
リナムーアが木剣を取る前に、サリナが窓口で止めた話を引き取った。
「一体よ、と言ったわね」
「一体目で、一発で止まるのを確かめました。二体目は撃っていません。目の前に立って、近づいて、進む先を塞ぎました。ゴブリンと同じでした。見て、嗅いで、それでも数に入れません。塞いだら払われて、払ったあとは忘れられました」
「群れは」
「三体です。隠れて一体撃つと、残りは匂いを嗅いで探しましたが、見当違いの藪を掻き回しただけでした。見えるところで一体撃つと、最後の一体はわたしを見て、走ってきました。それも一発です」
サリナは組んでいた腕をほどいた。
「……確かめてから、なのね」
「はい。確かめてからです。帰りにオークにも、五十メートルの所で姿を見せました。近づいてはいません。あれも、目を通しただけで行ってしまいました」
サリナは小さく息を吐いた。それきり、オークのことは何も言わなかった。
「報告が、もう一つあります」
リナムーアは二人の顔を順に見た。
「明日からは、採るだけにします。撃つのは、必要な時だけにします」
「討伐は、しないのね」
「撃っても、採集袋一つのミド草には遠く届きません。……それに、撃てば盾が消えます。撃たなければ、あちらはわたしを数に入れません。わたしにとっては、採っているだけの方が危なくないんです」
サリナは、すぐには答えなかった。
「考え方は間違っていないわ。他の薬草を採る人も、できるなら戦わずに採りたいのよ。でも隠れながら採るしかないの。それに、見つかれば襲われるし、襲われれば戦うしかない。採るだけにすると決めても、守れないのよ」
「わたしは、隠れなくていいので」
「……そうね。あなたは、決めた通りにできるのね」
ミオが手控えから顔を上げた。
「では、手を出さなければ、盾になるのですね」
「なります。手を出さなければ、ですが」
ミオはそれを聞いて、手控えに一行書き足した。
サリナが一歩寄って、リナムーアの頭へ手を置いた。
「浅層の境から三十分、はそのままにするの?」
「はい。採集袋が埋まるのに、それより奥は要りませんでした」
「それなら、いいわ」
サリナは手を離し、武器掛けから木剣を二本取った。
▽ ▽ ▽
ひと月が過ぎると、朝の暗さが変わっていた。
宿舎を出る刻限は後ろへずれ、夕方の門灯は早く点るようになった。それでも採取する時間は足りていた。採集袋の口は昼をいくらか回った頃に閉まり、門灯までには余裕を残して帰り着けた。
窓口の台帳には、リナムーアの名の横に四千という数字が毎日並んだ。判別機の下の受け皿は、ひと月のあいだ一枚の葉も受けなかった。リナムーアが首から出したギルドカードを、ミオは確かめ、同じ数字を同じ字で書き、職員の棚から出した預け入れの帳面へ同じ額を足していく。窓口の台に銀貨が並ぶことは、もう無かった。
腰の弾入れの弾は、ひと月前から数が変わっていない。帰り道に草原の窪みで拾っていたのは、使ったぶんを足すためだった。足す必要が無くなって、拾うのもやめた。
その朝も、浅層の境の手前には膝の高さの下草が揺れていた。
向こう側は、灰色の光の底に沈んでいた。下絵の中を、コボルトの群れが四つの影になって日陰側から日向側へ横切っていく。リナムーアは浅層の境の手前の幹に手を添えて、群れが下絵の縁から抜けるのを待った。
それから浅層の境を跨いだ。
足の裏へ、固い土が返ってくる。三十メートル先に、網の走った葉を持つ株が一つあった。リナムーアはその前にしゃがみ、根元に近い一枚へナイフの刃を当てた。




