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第25話 犬頭(こぼると)

 森が終わって、その先からまた森が始まっていた。


 浅層(せんそう)の境は、拍子抜けするほどはっきりしていた。手前は膝(ひざ)から腰までの下草が斑(まだら)に散り、根と倒木で地面が波打っている。見慣れた外縁部(がいえんぶ)の林床だ。ところが十歩と行かないうちに、その下草がふつりと絶えていた。丈の低い草が疎(まば)らに生えるだけの、踏めば土の固さがそのまま返ってきそうな地面が、向こうへ続いている。


 草が入れ替わったのではない。種類ごと、まとめて置き換わっていた。誰かが地面へ線を引いて、その両側に別の森を並べたかのようだった。


 リナムーアは浅層の境の手前で足を止め、携帯時計を見た。針の位置は、宿舎を出たときの勘定と合っていた。


 浅層のほうへ足を延ばすと報告した日から、六日が過ぎている。一日ごとに刻みを分けて、奥へ寄せてきた。行きは移動だけに使い、ボド草は帰り道で採る。前の日に折り返した木を翌朝の出発点として数え直すので、寄せた道筋はまっすぐ細く伸びていった。


 その先端に、浅層の境があった。


 草原と森の境も、こんなふうに一目で分かる。魔境というものは、どうやら境目を曖昧(あいまい)にしない。


 浅層の境の向こうは、明るかった。


 日が差しているわけではない。樹冠(じゅかん)は相変わらず幾重にも重なり、林床へ落ちる光は灰がかっている。それでも外縁部よりは見えた。木が太い。幹の一本ずつがこちら側のものよりひと回り以上太く、そのぶん本数が少ない。低木の枝葉が目の高さを塞ぐこともない。地面の波打ち方も緩(ゆる)く、根や倒木が膝より上へ来る場所は少なかった。


 幹の間へ目を通すと、視線が先へ先へと抜けていく。開けた場所では、五十メートルほど向こうの藪(やぶ)の塊(かたまり)まで届いた。外縁部なら、どこに立っても十数歩で目が止まる。


 その藪があちこちに蹲(うずくま)っていた。大木の倒れた跡らしい空きや、地面のへこんだ一帯に、背丈を越える草と低木が絡(から)み合って固まっている。身を隠す場所には困らない。それは、魔物や魔獣にとっても同じだ。


 遠くの一本を選んで、樹皮(じゅひ)へ目を据えた。割(わ)れ目に苔(こけ)が乗っているのまで見える。


(……やっておいて、よかった)


 浅層の境を見に行くと決めた夜から、『顕識(けんしき)』の繕う先へ目を書き加えてある。外から見て変わったところは無い。赤い色も丸い形もそのままで、いじったのは奥の造りだけだ。光を受け取る側を細かくして、見たいところへ焦点(しょうてん)を寄せる筋を強くした。それだけで、遠くのものが手元へ引き寄せたように見える。


 十数歩で目の止まる森の中では、やっても使い道が無かった。浅層の境から向こうを覗(のぞ)くと決めたから、初めて要るものになったのだ。


 『空識(くうしき)』の下絵(したえ)は、浅層の境の向こうまで届いていた。粗い像が百メートルの縁まで幹の並びと窪地(くぼち)の起伏を返してくる。動く影は無い。


 リナムーアは浅層の境の手前で踵(きびす)を返し、手近な藪の陰へ寄って腰を落とした。今日は、ここに座って見る日だった。


 ▽ ▽ ▽


 コボルトが下絵に入ったのは、下見を始めてすぐのことだった。


 影が四つ。人の形に近いが、人より小さく、歩き方が違う。上下の揺れが少なく、足の運びが速い。リナムーアは藪の陰で腹這(ば)いになり、葉の隙間へ顔を寄せて、そちらへ目を向けた。


 今の距離は四十メートルほど。


 犬の頭だった。そこは図譜(ずふ)のとおりだ。だが図譜の絵には、無いものが多すぎた。


 口が閉じていない。捲(めく)れ上がった唇(くちびる)の下から黄ばんだ歯が剥(む)き出しになり、顎(あご)の先から涎(よだれ)が糸を引いて落ちている。目は白目の部分しかなく、黒目がない。飼い犬の目ではなかった。どこかが壊れた犬の目だ。


(怖(こわ)っ)


 声には出さなかった。出していい距離ではない。


 背丈は、自分より高いとはいえ、それほどの差ではなかった。大人の胸のあたりまでしかない。それなのに肩の幅も胸の厚みも大人の男と変わらず、毛の下で筋の動くのが見える。腰には黒い布を巻いていた。


 四体は隊形を崩さずに歩いていた。一体が先、二体がその後ろへ横並びに、残る一体がさらに後ろ。先頭が立ち止まると、後ろの三体も同じ間で止まる。資料室の図譜にあった群れの組み方だ。書いてあるとおりだった。


(歯も、目も、あの絵には描いていなかったな)


 絵が描くのは形だけだ。あれを見て怖いと思う者はいない。


 コボルトも一撃で止まる、とサリナは言った。気にするのは当たるかどうかだけでいい、とも。ここは走るにもいい場所だが、同じ理由で、向こうからもこちらが見える。


 今日は見るだけだ。


 群れは浅層の境に沿って歩き、越えずに奥へ折れていった。浅層の境は草木が引いた線であって、魔物が引いた線ではないはずだった。それでも、越えてこなかった。


 下絵から四つの影が抜けるまで、リナムーアは葉の隙間から目を離さなかった。


 ▽ ▽ ▽


 オークを見たのは、その翌日だ。


 下絵の端に、大きさの合わない影が一つ入った。八十メートル。藪の陰から首を伸ばす。


 猪(いのしし)の頭が、木の間から出てきた。


 背丈はギルド長と変わらない。だが幅と厚みが倍あった。腕は、リナムーアの胴ほどの太さがある。一歩ごとに乾いた土が跳ね、踏まれた草は起き上がってこない。何も持っていなかった。持つ必要が無いのだろう。


(……弾では、止まらないな)


 コボルトも止まると、サリナは言った。オークのことは、何も言わなかった。図譜の字面で納得していたものが、そのとき初めて重さを持った。


 同じ日の昼前には、浅層の境の向こうでゴブリンを二体見た。


 図譜の浅層の項に、ゴブリンの名は無い。並ぶのはコボルトとオークだ。けれども、いた。外縁部で毎日見ているのと同じ背丈、同じ前屈(まえかが)みの歩き方で、下草の薄い地面を歩いていた。


(層が替われば、住人がそっくり入れ替わると思っていた)


 そうではなかった。替わるのは顔ぶれの厚みのほうで、下は残る。これまでの相手がそのまま居座って、その上へ重いものが乗ってくる。


 濃さもこちら側とは比べものにならなかった。樹縁(じゅえん)に近い外縁部では、半日歩いても下絵の中へ一体も入らない日のほうが多い。浅層の境の向こうでは、一日のうちにいくつもの影が下絵へ入ってくる。浅層の境の付近から、もう濃いのだ。


 浅層の境の向こうにミド草を見つけたのは、その日の帰りがけだった。


 下絵の中に、周りと葉の付き方の違う株が一つ入った。茎から左右へ、寸分違わぬ間隔で葉が出ている。狙いを絞って形を確かめ、それから目を据えた。


 濃い緑。ハートの形を縦に潰(つぶ)したような葉が、背を揃(そろ)えて並んでいる。図譜の絵のままだった。浅層の境から少し入ったあたりで、歩けばすぐのところだ。ただし、そのわずかな道のりが浅層の境の向こう側にある。採集袋を一杯にすれば四千ムーアになるミド草を、リナムーアは見ているだけで手を出さなかった。


 リナムーアは株から目を外し、携帯時計を出した。


 夜明け前に魔境側の大門が開いてから、門灯(もんとう)が点るまでが、使える一日だった。そこから大門と浅層の境の行き帰りを引き、ボド草で採集袋を一杯にするぶんを引く。帰りは採集袋を担ぐので、行きより遅く見ておく。残るのは一時間あまりだった。


 その一時間あまりで、浅層の境の向こうへ入って戻ってこなければならない。


 しかも、向こうでは走れない。見通しが利くということは、向こうからも見えるということだ。動くものは目につく。外縁部なら構わなかった。十数歩で目の止まる森では、走ったところで遠くの目には留まらない。一日のうちにいくつもの影が下絵へ入る場所では、話が別になる。一体を避けて回り込めば、その先にまた一体いる。止まって、遣(や)り過ごして、回り込む。それを繰り返せば、大人の足と同じ速さにしかならない。


 浅層は、大人の足で抜けるだけでも半日を超える厚みがある。行って戻るなら、薬草を捨てて一日を歩くことだけに充てても、門灯には間に合わない。


(……日帰りで届くのは、ここまでか)


 リナムーアは立ち上がり、浅層の境に背を向けた。ここからはボド草を採りながら帰る時間だ。下絵の中に、葉脈(ようみゃく)の波紋(はもん)を持つ株が三つ入っている。


 それから二日、下見を続けたが、新しい発見はなかった。


 ▽ ▽ ▽


 訓練場の柱に灯りが点ってから、サリナが下りてきた。


 リナムーアは、木剣へ手を伸ばす前に用件を切り出した。


「サリナ。報告があります」

「聞くわ」

「浅層の境に立ちました。四日、縁から見ています」


 背中のほうで戸が鳴って、ミオが手控えを抱えて入ってきた。サリナは場所を空けてやってから、腕を組んだ。


「それで。どんなところだった?」

「線が引いてあるみたいに、草がそっくり入れ替わっています。向こうは下草が薄くて、起伏も少なくて、木は太いものが多いです。そのぶん目が通ります。開けたところなら、五十メートル先の藪まで見えました」


 サリナは頷(うなず)いた。


「そう。こちら側とは、まるで違うでしょう」

「はい」

「隠れる場所は」

「藪があちこちにあります。こちらが隠れるには足ります。向こうも同じです」

「魔物は」

「コボルトが四体、一度にです。それからオークが一体」


 ミオが手控えの端を握り直した。


「近づかれましたか」

「いいえ。コボルトは四十メートル、オークは八十メートルです。どちらも浅層の境を越えてきませんでした」

「……そうですか」

「コボルトは、絵よりずっと怖かったです。歯がむき出しで、涎が垂れていました。犬の目ではありませんでした」


 サリナは笑わなかった。


「それでいいのよ。怖いと思えるうちは、大丈夫」

「はい。それと、向こうにもゴブリンがいました。図譜の浅層の項には、名前が載っていないのに」

「載らないわ。浅層で数えるほどの相手ではないもの」

「いなくなるわけでは、ないんですね」

「いなくならないわ。増えるだけよ」


 リナムーアは頷いた。自分の読み違いが、言葉にすると一行で済むことが少しおかしかった。


「数も違いました。向こうでは、一日に何度も魔物を見ました。……ミド草も、ありました。浅層の境から少し入ったところに、一株です」


 ミオがそこで初めて手控えを開いた。書き付けたのは、短い一行だった。


「それで、報告がもう一つあります。日帰りで行けるのは、浅層の境の付近までです」

「勘定したのね」

「しました。ボド草で採集袋を一杯にして帰るなら、浅層の境の向こうで使えるのは一時間あまりです。向こうでは走れませんから、入ってもいくらも進めません」

「奥まで抜けて帰る話は、初めから無いのね」

「ありません。薬草を採らない日にしても、門灯には間に合いません」


 サリナは組んだ腕をほどかずに、しばらく黙っていた。


「……泊まる話は、しないのね」

「しません。まだ、早いです」


 それから、リナムーアはサリナの顔を真っ直ぐ見た。


「明日は、踏み込みます」


 約束のとおり、先に言った。


 サリナは腕をほどいた。


「聞いたわ。どこまで」

「浅層の境から、歩いて三十分です。携帯時計を見て折り返します」

「引き返す条件は」


 リナムーアは、そこで一度言葉を切った。


「見たら戻る、にはしません。コボルトが少ない数でいたら、こちらから撃ちます」


 ミオの手が止まった。サリナは眉ひとつ動かさずに、続きを待っている。


「ゴブリンは、わたしを数に入れません。魔力のあるものとないもので、獲物と景色を分けているからです。コボルトも同じかどうかは、まだ分かりません」

「分からないから、確かめるのね」

「はい。それに、もう気づかれているかもしれません。コボルトを見たのは四十メートルのところです。あの日は、風がこちらから向こうへ流れていました。犬の鼻なら、気づいていておかしくない距離です。それでも、寄ってきませんでした」

「……気づいたうえで、放っておかれた」

「そうかもしれません。ただ、風が届かなかっただけかもしれません。見ているだけでは、どちらとも決まりません」


 リナムーアは一つ息を継いで、続けた。


「それに、見て戻るだけを繰り返していると、何も決まらないまま日が過ぎます。どこまでが安全で、どこからが危ないのかが分からないと、全部が危なく見えます。そうなると、焦ります。焦って動けば、間違えます」

「……それは、そうね」


 サリナの視線が、一度ミオのほうへ流れて戻った。


「いいわ。ただし、一体よ。群れは、確かめてからにしなさい。数が増えれば、確かめたいこと以外のものが混ざるでしょう」

「はい。そのほうが、確かです」

「撃つ前に、戻る道を決めておくこと。一発で止まらなければ、その日はそれで終わり」

「はい」

「確かめたあとは、どうするの」

「見たら戻る、ではなく、避けます。向こうが数に入れないなら、離れていれば済みます。数に入れるなら、そもそも近づきません。どちらにしても、戻らずに済みます」

「それでいいわ」


 ミオが顔を上げた。


「撃ったら盾にはならないと、前に聞きました」

「覚えています。撃った瞬間に、盾は消えます」

「それが分かっていて、撃つのですね」

「分かっているから、一体にします」


 ミオは何か言いかけて、やめた。


「……約束を、覚えていますね」

「覚えています。囲まれる前に止まります」

「はい」


 ミオは手控えへ目を落とし、それきり書き足す手を動かさなかった。少し間(ま)を置いてから、顔だけをこちらへ向ける。


「リナムーア。この前、サリナから聞きました。あなたが、私の分を気にしていたことを」


 リナムーアは瞬(まばた)きをした。何の話か分かるまでに、少し要った。


「……はい」

「足りていない、と言ったそうですね」

「言いました」

「……気にするな、とは言いません。ですが、無理はしないでください」


 ミオはそれだけ言って、手控えを閉じた。


「報告は終わりね」


 サリナが藁(わら)の人形を木立(こだち)の枝へ吊るした。片手で手繰って、横へ振る。人形が弧を描いて戻ってきた。


 リナムーアは腰の弾入れへ指を入れ、丸い弾を一つつまみ出した。革帯へ挟(はさ)み、頬(ほお)の横まで引く。


 柱の灯りが土の上へ長い影を落としていた。その影の先で、人形が振り子のように行き来している。


コボルトのイメージです。あくまで、イメージです。本文の描写と合わない部分もあります。

挿絵(By みてみん)

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