第24話 本登録(ほんとうろく)
資料室の窓の外が暗くなると、壁の灯りがひとりでに点った。
リナムーアは図譜の頁から目を上げなかった。開いているのは浅層の項で、犬の頭をした魔物の絵の下に群れの組み方が細かい字で書き込まれている。いま読み返しているのは、書いてあることより書いていないことを探すためだった。
森で弾を使うようになって、十日あまりが過ぎた。
境界沿いから奥へ、一日ごとに刻みを延ばしてきた。ゴブリンの固まり方も撃たれた群れの散り方も、もう頭の中で先に並ぶ。藪の出る場所は日ごとに変わり、読みようがない。それでも、読めないものだと分かっていれば驚くことはなかった。昨日も今日も、森は一度も予想から外れなかった。
討伐報告の束も、この部屋で何度もめくった。外縁部の報告は、報告者のランクの欄がほとんどEの字で埋まっている。外縁部を回る冒険者の大半は、Eランクだ。リナムーアのランクは、登録してからずっと試験期間のFのままだった。
(ひと月と言ったのは、目安のほうだ)
終わりにする条件は、別に立ててある。外縁部で驚くことが、一つも無くなったら。
扉が開いて、ミオが入ってきた。手に提げた鍵の束が小さく鳴った。
「リナムーア。上へ来てください」
「上、ですか」
「ギルド長がお呼びです。サリナも一緒にいます」
リナムーアは図譜を閉じた。棚の元の位置へ背表紙を差し戻しながら、ここ数日の自分の行いを思い返したが、思い当たる節は無い。
「何か、叱られることをしましたか」
「叱られる話ではないそうです」
ミオはそう答えてから、少しだけ目を伏せた。
「……中身は、ギルド長から聞いてください。ただ、サリナの顔は、悪い話をするときの顔ではありませんでした」
「分かりました」
廊下へ出ると、ミオは資料室の扉に鍵を掛けた。階段の下まで並んで歩き、そこで屈み込む。リナムーアの襟の折れを、指先で二度なでて直した。
「私は、窓口の片付けがありますので」
「はい。訓練は、そのあとです」
「サリナが下りてきたら、ですね」
ミオは頷いて、階段を上がっていく白い髪を見送った。
▽ ▽ ▽
ギルド長室の窓は、もう暗かった。
机の上の灯りが、紙の束とその向こうに座るオグマの手元を照らしている。サリナは机の横に立っていた。リナムーアが扉を閉めるのを待ってから、手招きで机の前へ呼んだ。
机の縁は、リナムーアの目のすぐ下にある。オグマは紙を一枚取り上げ、その高さまで下ろして見せた。ミオの字で、日付と数字が縦に並んでいる。
「稼ぎの締めだ。小さいほうの採集袋の日と、大きいほうの採集袋の日を足してある」
「……はい」
「斡旋の手数料は一万ムーアだった。覚えているな」
「覚えています」
「越えている。大きいほうの採集袋に替わって、十一日目だ」
「知っています」
オグマの手が、紙を下ろした高さのまま止まった。
「……知っていた、だと」
「はい。小銀貨を受け取るたびに、硬貨入れの中を数えていました。十一日目の帰りに、一万を越えました」
リナムーアは紙の上の数字を目で追った。銅貨四枚の行が長く続き、ある日から小銀貨四枚に変わる。十一日目の行には、何の印も付いていなかった。
サリナが机の横から身を乗り出した。
「どうして、言わなかったの」
「言うほどのことだと、思っていなかったので」
どういうことだと、サリナの表情が言っているのを見て、リナムーアは続けた。
「あの一万ムーアは、孤児院に払った分だけです。ミオが付きっきりで世話をしてくれた分は、それだけで一万を上回ると、ギルド長がこの部屋で言いました」
オグマの眉が、わずかに動いた。
「宿舎の部屋も、朝と夜のご飯も、資料室も、サリナに教わっていることも、どこにも書いてありません。書いていない分のほうが、ずっと多いです。……まだ、ぜんぜん足りていません」
孤児院の寝台で、起き上がることもできずに過ごした日々を、リナムーアはまだ覚えている。あそこから連れ出されて今日までに受け取ってきたものは、数字の並ぶ紙一枚と同じ秤に載るものではなかった。載らないものは、数字をいくら積んでも減らない。一万を越えた日の帰り道に硬貨入れの口を締めながら考えたのも、そのことだけだった。
部屋が静かになった。オグマは紙を机へ戻し、しばらくそれを見下ろしていた。
「出して正しかったと、後から言えるだけのものを出してくれ。そう言ったのは俺だ。お前はそれを出していた。越えた日を黙っているのは筋が通らんと思って、呼んだんだがな」
「はい。ありがとうございます」
「……先に知っていたのは、お前のほうか」
サリナが小さく息を吐いて、それから口元を緩めた。
「足りないと思うのは、あなたの勝手よ。でも、よくやったわね。本当に」
「はい」
リナムーアは短く答えた。越えた数字のことより、褒められたことのほうがずっと胸に残った。
「もう一つある」
オグマの声が、わずかに低くなった。
「今日の夕方、冒険者ギルドの本部から監査の人間が来た。この支部の金の出入りと、お前のことを見に来た。結果は問題なしだ。そこは先に言っておく」
「……わたしのこと、ですか」
「三日だ。一昨日までの三日、お前の一日を見ていたそうだ。門を出るところから、森の中も、夜の訓練場もだ」
サリナが言い添えた。
「フィンレイという人よ。細身で、金の髪を後ろで束ねていたわ。腰の後ろに短剣を二本、柄を互い違いにして下げていたの」
腰の後ろに、二本。互い違いに。
「……あの人か」
口から出た声は、いつもの話し方ではなかった。サリナの目が、わずかに見開かれた。
「知っているの?」
「訓練場で、柱の灯りの外に立っている人がいました。三晩ともです。冒険者の人が見物に来ているのだと思っていました」
灯りの外は暗い。目で見たのではなかった。
『空識』の下絵の端に、細い人の影がずっと止まっていた。気になって一度だけ狙いを絞ったとき、腰の後ろで固く細長いものが二つ交わっているのを拾っている。
同じ細さと長さの体を、もう一度どこかで拾っていた。藪の中に伏せて、少しも動かなかった影だ。
「森の中でも、見掛けたな」
言ってから、リナムーアは口を閉じた。
部屋の空気が止まった。オグマは机の上で指を組んだまま動かず、サリナは吸った息を吐くのを忘れていた。
(……見掛けた、じゃないな)
目では一度も見ていない。三日前の昼、ボド草の株の前にしゃがんでいたときのことだ。
『空識』の下絵が、前触れもなく外へ押し広がった。
半径五十メートルの縁でいつもぷつりと途切れていた感覚が、途切れなかった。その先へ、さらに先へと下絵が描き足されていく。止まったのは、元の縁のちょうど倍のところだった。
百メートル。
伸び方が階段を上がるように来ることは知っていた。それでも、一段でいきなり倍になるとは思っていなかった。葉を摘んでいた手が止まり、しばらく指一本動かせなかった。
(あのときは、本気で驚いた)
驚いたから、下絵に映るものを初めから数え直した。奥の窪地を歩くゴブリンの影。そして、元の縁の少し外、六十メートルほど離れた藪の中に伏せている人の影。
樹縁の近くでは、人の影はめったに下絵に乗らない。それに、その影は薬草を摘んでいなかった。藪の中に伏せたまま、少しも動く気配がない。
見えるはずもないのに、顔を上げてそちらを向いていた。目で確かめようとしたのだ。狙いを絞ることもしないまま、場所を変えてその影のいない側へ寄った。頭のほうが、倍になった下絵を受け止めるのに手一杯だったせいだ。
「……向こうも、そう言っていた」
オグマが、ようやく口を開いた。
「森の中で、お前にこちらを見られたとな。それ以上は、聞かん」
「報告にも書かない、と言っていたわ。見たものしか書かないそうよ」
リナムーアは二人の顔を順に見て、小さく頭を下げた。
「……はい」
オグマは胸元の内側から鍵を出し、机の引き出しを開けた。取り出したのは、布にくるんだ小さな包みだった。
「首のものを出せ」
リナムーアは襟の内側へ指を入れ、紐を引いた。服の下から、木のギルドカードが出てくる。指を三本並べたほどの幅で、角を丸く削った薄い板だ。名前とFの字が焼き付けてある。登録した日から、ずっと首に下げてきたものだった。
オグマは包みを解いた。
中にあったのは、同じ形をした金属のギルドカードだった。木のものよりひと回り大きい。黒に近い鈍い色で、灯りを受けても光をほとんど返さなかった。表には名前と、その下にEの字が、淡い銀の色で書き付けたように浮かんでいた。指でなぞっても、彫った溝もインクの盛り上がりも無い。
「監査が通った。試験期間は今日で終わりだ。今日から、お前はEになる。本登録だ」
「……E、ですか」
「本部の人間が三日かけて見て、問題なしと書いていった。これより確かな試験は無い」
「測定不可と書かれた子を本登録にするには、誰かの目が要ったの。本部の目なら、誰も文句は言えないわ」
サリナは木のギルドカードを外して受け取ると、包みに添えてあった細い針をつまんだ。
「指を出して。少しだけ、ちくっとするわよ」
差し出した人差し指の腹に、針の先が触れた。にじんだ血を一滴、ギルドカードの裏へ落とす。赤い粒は表面で丸く留まり、それから金属の中へ吸われるように消えた。跡は何も残らなかった。
「魔黒鉄に手を加えた魔道具だ。いまので、お前の血を覚えた」
オグマはギルドカードを指で裏返した。
「本人かどうかを確かめる場面で、その場のお前と、ギルドカードに残した記録を突き合わせる。合えば通る。合わなければ、誰が持っていても通らん」
「……魔力では、ないんですね」
「魔力には魔力紋がある。指の筋と同じで、人ごとに違う。だが深手を負ったときや、魔力が枯れたときには読めんことがある。読めなければ、本人だと言えん。だから体のほうで確かめる」
(魔力紋で登録するギルドカードなら、わたしの分は作れなかったな)
測定の紙に何も映らなかった自分の魔力から、紋が読めるとは思えなかった。
「それとね」
サリナが、リナムーアの腰の硬貨入れへ目をやった。
「本登録のギルドカードがあれば、窓口でお金を預けられるの。預けたものは、そのギルドカードと本人が揃わないと引き出せないわ。……その硬貨入れ、もうずいぶん重いでしょう」
「はい。明日、預けます」
サリナは新しいギルドカードの紐を、リナムーアの首へ掛けた。
胸に落ちたギルドカードは木のものよりずっと重く、ひやりと冷たかった。資料室の討伐報告に並んでいたEの字に、ようやく自分も並んだことになる。一万ムーアを越えた日には何も思わなかったのに、そのギルドカードからは、なかなか手を離せなかった。
「……ありがとうございます」
それから、顔を上げた。話してもらったぶんを、こちらからも返しておく順番だった。
「ギルド長。わたしからも、報告が一つあります」
「言え」
「外縁部には、慣れました。明日から、浅層のほうへ足を延ばします」
サリナが腕を組んだ。
「ひと月、と言っていなかった?」
「言いました。でも、終わりにする条件は、外縁部で驚くことが一つも無くなったら、です。ここ数日は、一つもありませんでした」
嘘ではなかった。三日前に驚いたのは、森にではなく、自分のほうに、だ。
それに、下絵が届く距離が倍になれば、それだけ早く引き返す判断ができる。囲まれる前に止まるとミオに言った約束は、三日前よりずっと守りやすくなっている。
「入るのか」
オグマが聞いた。
「入りません。浅層の境までは何日かに分けて寄せて、縁から見るだけです。ボド草は、帰りに採ります」
「一歩でも中へ入るなら、その前に私に言うのよ」
「言います」
「門灯までには戻れ」
「はい。戻ります」
オグマは頷き、それ以上は何も付け足さなかった。サリナが扉を開けてやると、リナムーアは一礼して廊下へ出ていった。
▽ ▽ ▽
閉じた扉から目を離して、サリナは机のほうへ向き直った。
オグマは組んでいた指をほどき、椅子の背へ体重を預けていた。夕方にこの部屋で聞いた話といま聞いた話とが、机の上で同じ一点へ寄っていく。六十歩離れた藪の中で、見えるはずのない相手に見られた——あの男はそう言った。見た側の子供は、見掛けたとだけ言った。
「聞かなくて、よかったんですか」
「聞けば、あの子は答えただろう」
オグマは天井の梁へ目を上げた。
「答えさせるのは、こちらの都合だ。前にもそう言った」
「……はい。それに、いつもの話し方でもありませんでした」
「そうだな」
「本部へは、何か」
「書き足すことは無い。あの男が見たものは、何も増えていない」
(確かに。増えたのは、私たちのほうに、だものね)
サリナは口に出さずに、机の端の灯りへ目を落とした。
オグマは締めの紙を、登録の控えと監査の控えの間へ戻した。その手が、紙の中ほどで一度止まる。
「越えた日を、あの子のほうが先に知っていたとはな」
「知っていて、気にも留めていませんでした」
「足りていない、か」
「ミオには、私から話しておきます。あの子が、ミオの分を気にしていたことを」
「そうしてやれ」
受付の机の引き出しの奥には、小さな布袋が入れたままになっていた。あの子が何日もつかを賭けた札の、勝ち金だ。支部の帳簿では出してやれないものの足しにと取っておいたが、明日からはあの子にも預け入れの帳面ができる。そこへ付けておこう。何に使うかは、あの子が決めればいい。
サリナは扉の取っ手に手をかけ、そこでふと動きを止めた。
廊下の先の階段から、小さな靴音が聞こえてくる。一段下りるごとに、石の床がきちんと音を返していた。急ぐでもなく、忍ばせるでもない。訓練場のほうへ向かって、同じ間合いで遠ざかっていく。
サリナはその音が階段の下で途切れるまで待ってから、扉を開けた。




