第21話 羽虫(はむし)
翌日、樹縁の丈高い草の帯を抜けて、リナムーアはいつもの採取地を素通りした。
目印の二股の大木の根方へ、畳んだ大きいほうの採集袋を置いていく。ボド草はあとでいい。両手を空けておかないと、今日の用は足りない。
境界沿いの下生えを背にして、幹の間を奥へ進む。二百歩ほど入ったところで、『空識』の粗い下絵に影が入った。
(……早いな)
境界沿いでは、半日歩いてひとつも入らない日のほうが多かった。それが、ほんの二百歩でこれだ。外縁部を抜けるのに五時間かかると読んだときには遠い話に思えたが、濃さのほうは入口からもう変わり始めている。
影は四つ。奥の日陰側にまとまって三つ、そこから離れて日向側にひとつ。
リナムーアは日向側のひとつへ狙いを絞った。粗い影が輪郭を持ち、窪地の縁をゆっくり歩いているものの形が立ち上がる。背丈は自分より少し高い。背中を丸め、片手に長い棒のようなものを提げていた。
(単独。周りに何もいない)
好都合だった。検証をするなら、余計なものは少ないほうがいい。
リナムーアは太い楢の陰へ回り込んで、手順を頭の中に並べた。
一つ、相手の視界に入る。二つ、近づく。三つ、進路を塞ぐ。条件は一度にひとつだけ変える。前世で何百回もやってきた順序だ。
幹の陰から出て、十歩ほどの距離に立った。
くすんだ、艶のない緑の肌。木の葉のように尖った耳。落ちくぼんだ小さな目の白目は、濁った黄色をしている。潰れた鼻の下に顔幅いっぱいの裂けた口があり、めくれた唇から小さな牙が覗いていた。腰には茶色い布を巻き、細い手足には骨が浮いている。手にあるのは、節の残った枝を削っただけの棍棒だった。
ゴブリンの目が、リナムーアの立っている方向を通った。
通っただけだった。
眼球はきちんとこちらを捉えて、そのまま何事もなく横へ流れていく。足は止まらず、背中の丸みも変わらない。
(……一つ目、確認)
リナムーアは五歩前へ出た。
落ち葉が鳴る。ゴブリンの耳がわずかに動いた。動いたが、それだけだ。饐えた獣の臭いが届く距離まで詰めても、相手は歩き続けている。
(二つ目、確認)
三つ目に移った。
リナムーアは横へ回り込み、ゴブリンの進む先へ立った。背丈は相手とさほど変わらない。腕を広げなくても、正面に立つだけで行く先は塞がった。
三歩の距離で、ゴブリンが足を止めた。初めて止まった。
しわの寄った顔が不機嫌そうに歪む。そして、何も持っていないほうの手が上がった。
顔の前を、無造作に横へ払う手つきだった。
リナムーアは後ろへ軽く飛びのいた。爪の伸びた指が、さっきまで肩のあったところを切って戻る。ゴブリンはもうこちらを見ていなかった。払った先を確かめもせず、少し向きを変えて歩き出す。
リナムーアは、下がった位置で足を止めた。
(……そういうことか)
見えていないのではない。
あの手つきは、人が顔の前の羽虫を払うのとまったく同じだった。羽虫を払う人間は、羽虫を見ていないわけではない。見たうえで、数に入れていない。邪魔ならどける。どけたら忘れる。
初めて森で素通りされた日から抱えてきた引っかかりが、音もなく嵌まった。
リナムーアは十メートルまで下がり、腰の弾入れから丸い弾をひとつ取り出した。革の当てに包んで、帯を引く。頬の横で狙いが止まる。
ゴブリンの側頭部までの距離を、『空識』が数で返した。
指を離した。
短い音がして、ゴブリンの頭がありえない角度へ弾かれた。体は二歩ぶん横へ流れてから、膝から崩れて下生えの中へ倒れた。
声も、身悶えも無かった。
リナムーアは次の弾を指に挟んだまま、倒れたものを見ていた。二発目が要るかどうかを測るためだったが、その必要は無かった。
輪郭が、ほどけ始めていた。
倒れた体の縁が、煙の立つように崩れていく。黒い霧に変わった端から、腕が、肩が、丸めた背中が、順に薄れて消えていった。腰の茶色い布も、手から落ちた棍棒も、同じ黒さになってほどけた。
飛び散ったものまで消えた。下生えの葉に散った赤い飛沫も、土に落ちた小さな肉の欠片も、一つずつ黒い霧へ変わり、上がりもせずにその場で薄れた。
十を数えるほどで、林床には何も残らなくなった。ゴブリンがそこにいた痕跡は、踏み潰された下草の形だけだ。
その真ん中に、灰色の粒魔石が一つ落ちていた。
リナムーアは屈んで拾い上げた。豆粒ほどの大きさで、表面は磨いた石のように滑らかだった。ミオが窓口の台へ置いてくれた、あの一つとまったく同じ手触りをしている。
(……血まで消えるのか)
書いてあったとおりだった。書いてあったが、文字で読むのと、実際に見るのとでは、同じ話とは思えなかった。
▽ ▽ ▽
奥の日陰側の三つは、まだ動いていなかった。
リナムーアは木の陰を伝って、二十メートルほどのところまで寄った。窪地の底に、三体が固まっている。一体が座り込み、二体が立ったまま何かをつつき合っていた。
検証の続きだ。
(一つ目。見られていないところから)
立っている二体のうち、こちらへ背を向けているほうへスリングショットの狙いを付けた。太い幹が自分の体の半分を隠している。相手の目の通る筋には、入っていない。
弾が飛んだ。
背を向けていた一体が、前のめりに倒れた。
残る二体が跳ね上がるように振り返る。倒れたものへ駆け寄り、屈み込み、肩を掴んで揺すぶった。揺すぶっているあいだに、揺すぶられていた体はもう霧になってほどけ始めていた。
二体が立ち上がった。
そして、周りを見回した。
窪地の上を、木の間を、来た方向を、忙しなく順に見ていく。片方が意味の取れない声を上げ、もう片方が棍棒を振り上げて何もない藪を叩いた。
リナムーアの立っている方向も、二度ほど通った。
通っただけだった。
(……分かっていない)
仲間が倒れたことは分かる。だが、何に倒されたのかが分からない。分からないまま、当てずっぽうに藪を叩いている。
リナムーアは幹の陰から出た。
二体の目が、今度は正面からこちらを通る。片方など、顔を真っ直ぐに向けてきた。それでも視線は止まらず、そのまま横へ流れていった。
目の前で仲間が一体消えた直後でさえ、この扱いだ。
(二つ目。見られているところから)
リナムーアは帯を引いた。
顔を向けていたほうの額に弾が入り、後ろへ倒れる。倒れた端から輪郭がほどけ始めた。
残った一体が、こちらを見た。
今度は、流れなかった。
落ちくぼんだ黄色い目が、真っ直ぐにリナムーアの上で止まる。口の裂け目が開き、喉の奥から軋むような音が出た。棍棒が持ち上がり、膝が沈み、そして走り出した。
(——来た)
距離は十五メートル。詰められる前に一発は撃てる。
だが撃たなかった。止まっているものへ当てるだけなら、さっきの二体で足りている。いま測るべきは、向かってくるものへ当たるかどうかのほうだった。
リナムーアは横へ走り出した。
ゴブリンの進む道筋と、自分の走る道筋が重ならないように角度を付ける。走りながら帯を引いた。揺れの止まるところへ、引ききる時を合わせる。訓練場で合わせたとおりに体が動き、狙いは流れなかった。
『空識』が距離を返す。十一メートル。相手の速さと、弾の飛ぶ速さ。当てたい場所ではなく、弾が着く頃にそこへ来ている場所。
指を離した。
走っていたものが、走っていた勢いのまま前へ倒れた。下生えを一度撓ませて、それきり動かなくなり、輪郭からほどけていった。
林の中が静かになった。
鳥の声が戻ってくるまでのあいだ、リナムーアは息を整えながら、窪地の底に散らばった三つの灰色の粒魔石を見ていた。
(見えていて、害があれば対処する)
至極まっとうな結果だった。石ころが転がっているだけなら誰も気に留めないが、その石ころが自分へ向かって飛んできたなら、誰だってそちらを見る。
ゴブリンが数えているのは、魔力の有無だ。ある者は獲物で、無い者は景色。ギルドの測定記録用紙が、リナムーアの欄に何ひとつ記さなかったのと、まったく同じ線の引き方だ。
(都合のいい話じゃないな)
景色でいられるのは、手を出さないあいだだけだ。手を出した瞬間に、その盾は消える。
しかも、一度こちらを数に入れた相手が、それをいつまで覚えているのかは分からない。仲間へ伝わるのかどうかも分からない。
(今日はここまでだ)
決めていた線を踏み越えるつもりは無かった。リナムーアは三つの粒魔石を拾って腰の魔石入れへ落とし、来た道を境界沿いまで戻った。
それから、大木の根方の、大きいほうの採集袋を広げた。
いつもの手順に戻る。下絵の狙いをひと区画の草へまとめて寄せ、当たりの株だけを回って葉を落とす。手はいつもと同じ速さで動いたが、始めたのが遅いぶん、採集袋の口が閉まらなくなったのも、いつもよりずっと遅かった。
いつもの刻限から、一時間半の遅れだった。
(……検証には、そのくらいかかるということだ)
採集袋の口を括って背負い上げると、肩の紐がいつもの位置へ食い込んだ。重さのほうは、何も変わっていない。
▽ ▽ ▽
その夜、宿舎の食堂の長机にミオが布を一枚広げ、その上に灰色の粒魔石が四つ並んだ。
ミオはそれを数える前にリナムーアの体を見た。腕、脚、首。順に見てから、ようやく粒魔石のほうへ目を移す。
「……怪我はありませんね」
「ありません。触られてもいません」
「四つ」
「ゴブリンです。一体は単独で、三体は群れでした」
サリナは腕を組んだまま、粒魔石のひとつを指で転がした。
「弾で、どこを狙ったの」
「単独のは側頭部です。群れは、背を向けているのを背中から一体、こちらを向いたのを額に一体、走ってくるのは前へ置きました」
「一発ずつね」
「はい」
サリナの指が、粒魔石の上で止まった。
リナムーアは順を追って話した。視界に入っても止まらなかったこと。近づいても同じだったこと。進路を塞いだとき、ゴブリンが顔の前の羽虫を払うのとそっくり同じ手つきをしたこと。
ミオの指が、机の縁を一度叩いた。
「羽虫」
「はい。見えていないのではありませんでした。見えていて、数に入っていなかったんです。だから、どけようとしただけで、どけたあとは忘れました」
「……森で素通りされた、あの話と同じですか」
「同じだと思います」
リナムーアは粒魔石をひとつ、指で押した。
「見られていないところから撃つと、残った個体は仲間が倒れたことしか分かりません。何に倒されたのかが分からなくて、藪を叩いていました。わたしのほうも見ましたが、気にも留めませんでした」
「見られているところから撃つと」
「向かってきました。ちゃんと、わたしを見て」
ミオが目を閉じた。
「……では、撃ったら、盾にはなりませんね」
「なりません。盾になるのは、手を出さないあいだだけです」
サリナは何も言わずに、指の腹で粒魔石を一つずつ布の上へ寄せていた。
「聞いたことのない話だわ」
やがて、そう言った。
「魔物が人を見落とす話なら、暗がりとか、風下とか、条件のつくものはあるのよ。でも、目を開けて真正面に立って、それで数に入らないというのは無いわ」
「わたしも、読んだ覚えがありません」
「読める場所に無いのよ、たぶん」
ミオが、布の四隅へ手を伸ばした。
「魔石が一つ五ムーアで、討伐の報酬が十ムーア。四つで六十ムーアです」
台帳の勘定をするときの声だった。
「明日、窓口へ出してください。依頼を受けていなくても、討伐の記録は付けられます」
「はい」
「付けておいたほうがいいのです。……いつか、誰かが読みますから」
ミオはそこで言葉を切った。それ以上は続けずに、布の口を絞って結び目を作る。
包みを掌へ載せ、リナムーアの小さな手を取って、その中へ置いた。上から自分の手を重ねる。
布の中で、灰色の粒魔石が乾いた音を立てて寄り合った。




