第20話 許し(ゆるし)
木剣の先が、サリナの袖をかすめた。
サリナは半歩だけ下がって、それからおかしそうに息を漏らした。
「今のは、危なかったわ」
「まだ当たっていません」
「当たらなかっただけよ。当たる軌道には乗っていたもの」
四隅の柱の灯りが、二人の影を土の上へ長く伸ばしている。門灯が点ってから、もう小一時間が過ぎていた。
当たる太刀筋に乗るようになったのは、ここ数日のことだった。
変えたのは『空識』の使い方だった。それまでは、サリナの立ち位置と構えを読んでいた。足の向きも肩の高さも分かったが、分かるのはその時々の姿だけで、間合いの内側ではそれでは足りなかった。狙いをサリナ一人へ絞り、畳を何枚か並べたほどの広がりで、体の全部をまとめて拾い続ける。
そうすると、拾えるのは姿ではなく、姿の動き出しになった。
視線がどこを通ったか。指が柄のどこを握り直したか。踵が土から浮いたか、爪先へ体重が移ったか。肩がどちらへ落ちたか。
次にどこへ動くかは、相変わらず分からない。分からないままでよかった。動く前には体のどこかが必ず先に動くのだから、そこを拾えば間に合う。
(先読みじゃない。……前兆を拾っているだけだ)
前世でも似たことをしていた。止まる寸前の機械は、止まる前に必ずどこかの数字が動く。それを並べて、どれがどれだけ先に動くのかを突き合わせていた。中身が鉄か人かの違いでしかなかった。
「サリナ」
「なあに」
「下がる前に、後ろの足の親指が先に土を噛みます」
サリナの手が、木剣の柄の上で止まった。
「……そこまで見ているの」
「同じ下がり方を、何度も見ましたから。数えれば分かります」
(……嘘ではない。順番が逆なだけだ)
サリナはしばらく黙ってから、木剣を壁際の武器掛けへ戻した。
「弾のほうも、やり方を変えましょうね」
サリナは、撃つ位置を前へ出させた。人形まで、十メートルほど。
「森の中で、十五メートル先まで目が通る場所があると思う?」
「……ありません」
「そうね。幹と枝と低木で、見えるのはせいぜい十歩か、十五歩よ。当てられる距離まで見えないのなら、見えた距離で当てるしかないの」
近いぶん、狙うのは易しくなった。難しくなるのは、外したあとだった。
森でこの距離に相手がいれば、相手もこちらへ走ってくる。十五メートルあれば、外しても次の弾を引けるだけの時間がある。十メートルでは、そのあいだに相手が目の前まで来る。
「止まったら、あなたが的よ」
リナムーアは横へ駆けながら帯を引いた。弾は人形の肩を掠めて、後ろの土へ落ちた。二発目も、三発目も同じだった。
「引くあいだに足が止まっているわ。そこを直すの」
直すのに五日かかった。
革の帯を引く動作と、足を運ぶ動作が、初めは互いを邪魔した。引けば足が止まり、走れば狙いが流れる。足が土を蹴るたびに体が揺れ、揺れたまま放した弾は狙ったところへ行かなかった。揺れが止まるのは、両足が土を離れているあいだと、着地した足に体が乗りきったところだけだった。走りながら帯を引いておき、そのどちらかで放す。揺れの止まる前に放してしまうか、止まったときにはまだ引ききっていないかで、頃合いはなかなか合わなかった。日を重ねるうちに、帯を引ききる時と揺れの止まる時が少しずつ寄っていった。
六日目の夜、リナムーアは横へ跳びながら人形の胴へ弾を入れた。着地して、もう一発。二発目も同じところへ入った。
サリナが、人形から目を離した。
「……リナムーア」
「はい」
「いいわ。行っていい」
リナムーアは顔を上げた。
「浅層も、ですか」
「ええ。ミオとの約束は、私がいいと言うまで、でしょう。いま言ったわ」
サリナは人形の胴の穴へ目をやってから、付け足した。
「行き方は、あなたが決めなさい」
▽ ▽ ▽
その夜、宿舎の食堂の長机で、ミオは椀に手をつけないまま話を聞いていた。隣ではサリナが匙を動かしていた。
「相手はゴブリンからにします」
リナムーアは匙を置いた。
「浅層へは、いきなり行きません。入るまでに、手順を二つ踏みます」
「……二つ」
「まず、ひと月です。ひと月のあいだ、外縁部に慣れます」
ミオの眉が、わずかに動いた。
「ひと月、ですか」
「はい。境界沿いから少しずつ奥へ足を延ばして、ゴブリンで数をこなします。当て方より先に、引き返し方を体に入れます。ひと月やって、外縁部で驚くことが一つも無くなったら、一つ目は終わりです」
「……驚くことが、無くなったら」
「知らないことを残したまま奥へ行くと、何が起きたのか分からないまま終わります。それがいちばん困ります」
ミオはようやく椀を持ち上げ、口をつけずにまた置いた。
「二つ目は」
「浅層の境まで行きます。入りません。縁から様子を見て、その日のうちに戻ります」
「……見るだけ、ですか」
「はい。何が出るのか、どれだけ出るのか、地面と木がどう変わるのかを、自分の目で見ます。書いてあることと見えるものが合っているかを確かめないと、その先が決められません」
ミオが、椀の縁を指でなぞった。
「奥へ入れば、境界沿いのようにはいきません。囲まれてからでは、あなたの足でも抜けられない場所があります」
「囲まれる前に止まります」
「……止まれますか」
「近づかれてからでは遅いので、そうならない位置までしか行きません」
囲まれる前にどうやって気づくのかは、言わなかった。ミオも、それ以上は聞かなかった。
「浅層のことは、どこまで調べましたか」
「資料室の討伐報告と、図書館の図譜を見ました」
リナムーアは指を三本立てて、一本を折った。
「浅層で多いのはコボルトです。犬の頭をしていて、背は人の七割ほどですが、体格は人と変わりません。知能はゴブリンより高くて、群れで示し合わせて動きます。ゴブリンがただ固まっているのとは、意味が違います」
もう一本折る。
「それから、オークが出ます。背丈は背の高い人と同じくらいで、体格はその倍です。統率する個体が付くと、人に近い知恵で動くと書いてありました」
「……よく調べましたね」
「調べたので、分かったことがあります」
リナムーアは、残った指を折った。
「弾で足りるのはゴブリンまでです。コボルトは、当たっても一撃で止まるとは限りません。オークは、たぶん止まりません」
「コボルトも止まるわ」
サリナが椀を置いた。
「……止まりますか」
「あなたのスリングショットは、訓練場の備品とは別物よ。二センチの弾で藁の人形を抜けて、後ろの木まで届いたでしょう。あれを頭で受けて立っていられる生き物は、浅層にはそういないわ」
サリナは机の上へ指を二本立てて、人形のように歩かせた。
「コボルトは人と同じ体格なの。骨も肉も、人と同じだけしかないのよ。ゴブリンより大きくても、人より頑丈なわけではないわ。あなたが気にするのは、当たるかどうかだけでいいの」
「サリナ。相手は群れです」
ミオが口を挟んだ。
「一体止めているあいだに、横から来ます」
「だから、撃った場所に留まらないの」
サリナは二本の指を倒して、机の上を横へ滑らせた。
「近づかれたら剣、ではないの。近づかれないように動いて、動きながら撃ち続けるの。この子はもうそれができるわ。今夜、跳びながら二発を同じところへ入れたもの」
「……近接は」
「そうなってしまったときのためよ。そうならないために撃つの。順番を間違えないでね」
「はい」
ミオが椀から目を上げて、リナムーアの顔をまっすぐに見た。
「……あなたが、自分の手の届く範囲を先に線引きしてくるとは、思っていませんでした」
「線を引いていないところへは、入れませんから」
ミオは息をついて、隣のサリナへ顔を向けた。
「サリナ。もう、いいと言ったのですね」
「言ったわ。浅層まで含めてよ」
サリナが肩をすくめた。汁物の湯気が、灯りの下で細く上がっている。
ミオはリナムーアへ目を戻した。
「……それを聞いたうえで、ひと月かけると言っているのですか」
「はい」
リナムーアは椀の縁へ指を揃えた。
「許してもらえたから急ぐ、というのは順番が違うと思います。急がない理由のほうが、いまは多いので」
ミオはしばらくリナムーアの赤い目を見ていたが、やがて椀を持ち上げ、今度はきちんと口をつけた。
「行ってらっしゃい、とは、まだ言いません」
「はい」
「気をつけて、とだけ言います」
リナムーアは置いたままだった匙を手に取った。
ミオが椀を両手で包み直し、サリナも置いていた椀へ手を伸ばした。しばらくのあいだ、匙が椀の底に当たる音だけが長机の上にあった。




