第18話 四百(よんひゃく)
縁が見えないというのは、たとえ話ではなかった。
上限の外れた朝から、繕う先の形は毎晩確かに固くなっていった。三日で頭打ちになった伸びが、今度はどこへ行っても止まらない。目を覚ますたびに、昨日よりわずかに重く、わずかに強くなっている。『己識』へ意識を回すと、成長上限の行は毎朝「未到達」と並んだ。
一日目の夕方には、走路の半ばで突き当たっていた壁を苦もなく踏み越えた。二日目には草原の四キロを歩かずに渡りきった。四日目には裏庭の走路を二十本走っても脚が終わらなくなり、サリナが本数を数えるのをやめた。
六日目には、倒木を跨がずに越えるようになった。八日目には朝に四キロを走った脚でそのまま樹縁のボド草を採り、夕方の裏庭でもう一度十割を出せた。昨日の自分が限りだと思った線を、今日の自分が当たり前のように越えていく。越えた先にも、また余りがある。
(……止まる気配が無い)
前世でも、ここまで素直に伸び続ける数字は見たことがなかった。
厄介なのは、むしろ日ごろのほうだった。
二日目の朝、宿舎の戸の取っ手を握ったところで、木が鈍く鳴った。慌てて手を開くと、掌の形に凹みが残っていた。その日の昼には食堂の匙の柄を曲げ、夕方には洗い場の桶の縁を割った。
(……体の栓の締め方が甘い)
昨日の締め具合は、昨日の体に合わせたものだった。体が毎晩変わるのなら、割で決めた栓は毎朝緩んでいく。そこで、日ごろ出す力を割ではなく量で決めておくことにした。できる限り不自然にならない強さに合わせておく。体がどれだけ変わっても、出す量のほうは変えない。
十日目の夕方、走路を走り終えたところで、サリナがリナムーアの脇の下へ手を入れた。あれだけ食べていれば少しは肉が付いたか、と確かめるような手つきだった。持ち上げかけて、その手が止まった。
「……嘘」
抱え直して、今度は上げた。上げたまま、サリナの腕が止まっていた。
「重くなったわね」
「はい」
「はいって、あなた。前に抱き留めたときは羽のようだったのよ」
サリナはリナムーアを下ろし、正面に立たせて頭の先から足の先まで眺めた。背丈は変わっていない。肩も脚も細いままだ。白いワンピースの下で何が増えたのか、見ただけでは一つも分からない。
「鉛でも飲んだの」
「よく食べています」
「食べるとね、人は丸くなるのよ。あなたは丸くなっていないわ」
リナムーアは少し考えて、嘘でないところを選んで答えた。
「中身が詰まったんです。外は変えていません」
「……そう」
サリナはそれ以上聞かなかった。代わりに走路の端へ歩いていって、土へ靴の先で線を引いた。
「もう本数は数えないわ。数えても終わらないんだもの」
「はい」
「その代わり、今日からは重いものを担いで走りなさい。重さに慣れていない力は、荷を持った途端に使えなくなるもの」
その晩、食堂でリナムーアは椀を七杯空けた。
向かいのミオは数えるのをやめ、黙って自分の皿の炙り肉を寄せてきた。
「明日の朝も起きられますか」
「起きられます」
「……では、何も言いません」
▽ ▽ ▽
翌朝の受付には、まだ人が少なかった。
受付の机の向こうのサリナは、差し出された依頼票を二度読み返した。
「採集袋の、大」
「はい」
「大人が組んで入っても、一日じゃまず埋まらない採集袋よ。それに一杯にすれば、大人でも肩に喰い込むの。あなたの背丈より採集袋のほうが高いわ」
「昨日、重いものを担いで走れと言われました」
「言ったわ。……言ったけれど」
サリナは台帳へペンを下ろす手を止め、しばらくリナムーアの顔を見ていた。それから判を押した。
「口まで詰めなくてもいいのよ。重さに応じて値はつくから」
「はい」
「日のあるうちに戻ること。採集袋は貸し物だから、置いてこないでね」
畳まれた大きいほうの採集袋は、抱えると胸から顎までを塞いだ。
魔境側の大門をくぐるとき、門兵が閂に手をかけたまま眉を上げた。
「気をつけてな。……その採集袋、誰の荷だ」
「わたしのです」
「担げるのか」
「帰りに見てください」
草原に人目がなくなったところで、リナムーアは体の栓を抜いた。
丈の低い草が後ろへ流れていく。足が土を噛み、噛んだぶんだけ体が前へ運ばれる。息は要求の先に回り、心臓もそれに合わせて打つ。片道に一時間かけていた四キロが、日の出を待たずに終わった。
樹縁の丈高い草の帯を押し退けて、境界沿いの下生えへ『空識』の狙いを下ろす。
ひと区画の草がまとめて浮かび上がった。手前に四株、その奥へ九株、倒木の向こうに六株。葉裏の筋が波紋状に広がっているものだけが、一目で抜き出されている。
ここから先が、昨日までと違った。
見つけてから株のそばへ着くまでの時間が、ほとんど無くなっていた。根と倒木で激しく波打つ林床を、リナムーアは跳ぶように渡っていく。足の置き場は『空識』が先に教えてくる。踏み外しても、体が勝手に立て直す。
葉を切る手も速くなっていた。一枚ずつ茎から落とす動きは同じでも、指が迷わない。切る位置を決めれば、指はそのとおりに動き、力も要るぶんしか入らない。
大きいほうの採集袋は、樹縁の草の陰に口を開けて置いてある。小さいほうの採集袋が一杯になるとそこまで戻って移し、また採りに入る。二杯目を移し、三杯目を移し、それからは数えるのをやめた。
四十メートルほど先の窪みで動く影を『空識』の下絵が拾ったときも、狙いを一つそちらへ残したまま採り続けた。角が一本。ホーンラビットだ。以前なら、その場で採取をやめて境界のほうへ下がっていた。いまは距離だけを測りながら、手を止めずにいられる。
携帯時計を取り出したのは、大きいほうの採集袋の口が閉まらなくなったときだった。昼は、もうだいぶ回っていた。
採集袋の口を括って背負い上げる。
重かった。肩の紐が鎖骨へ喰い込み、膝が一度沈む。それでも、立てた。
(……担げる)
草原へ出て、樹縁を背にしたところで、一歩目から土を強く蹴った。
荷があると、走りの中身がまるで変わった。肩に乗った重さがそのまま足へ下り、足はそれを土へ渡さなければならない。膝も踵も、いつもと同じ使い方では保たない。『己識』が一歩ごとに軋みの場所を知らせてきて、その一つずつへ手を回しながら走った。
サリナの言ったとおりだった。重さに慣れていない力は、荷を持った途端に使えなくなる。持ってみるまで分からないことを、あの人は先に知っていた。
外壁の影が近づいたところで速さを落とし、大門の手前では歩きに戻した。
門兵は大門の脇に立っていた。大きいほうの採集袋を背負ったリナムーアを上から下まで眺め、それから背後の草原へ目を投げた。
「……今朝、畳んで抱えていった採集袋だな。それを、今日一日で埋めたのか」
「はい」
門兵の目が、採集袋の丈とリナムーアの背丈を行き来した。
「で、誰か途中まで運んでくれたのか」
「一人で来ました」
「全部ひとりで、か」
「はい」
門兵はしばらく口を開けたままにしていたが、やがてその口を閉じ、親指で街のほうを指した。
「……行きな」
▽ ▽ ▽
ミオが顔を上げたのは、窓口の台が低く鳴ったからだった。
窓口の台へ置かれたのは、括り口の太い、大きいほうの採集袋だった。置いた本人は採集袋の横に立っていて、頭の先が括り口に届いていない。
「……リナムーア」
「納品に来ました」
ミオは台帳を脇へ寄せ、金属の盆を引き寄せた。それから、盆をもう一枚重ねて出した。二枚でも足りず、三枚目を取りに立った。
判別機へ葉を流し込む。葉はすべて片側へ寄る。また流す。また片側へ寄る。下の受け皿は、最後まで空のままだった。
流し終えたところで、ミオの手が止まった。
(小さいほうの採集袋で、十杯ぶん)
この窓口に座って何年になるか。そのあいだ、大きいほうの採集袋を一杯にして持ち帰った者を、ミオは一人も見たことがなかった。ボド草は探すのに手間がかかる。大人が丸一日森を回っても、小さいほうの採集袋が一杯になれば上出来だった。三人で組んで入ったところで、大きいほうの採集袋の三分の一にも届かない。一日で満たせる者がいない以上、大きいほうの採集袋を借りていく者もまずいなかった。
それを、この子は一人で埋めてきた。しかも十杯ぶんの葉は、それだけで大人の肩にも喰い込む重さになる。自分の背丈より高いその荷を背負って、草原を渡ってきたのだ。
ホールの話し声が、いつのまにか途切れている。
長椅子の冒険者たちが窓口のほうを見ていた。大きいほうの採集袋と、その採集袋より背の低い白い子供と、盆の山を見ている。隣の窓口へ毛皮を出しに来ていたドルグが、革鎧の肩を捻ってこちらを覗き込んだ。
「……大人が三人がかりでも、一日じゃ埋まらない採集袋だぞ、それは」
「そう……ですね」
ドルグはリナムーアの背丈と採集袋の丈を順に見比べた。
「そのうえ、それを担いで草原を渡ってきたってのか」
ミオが頷くと、ドルグは短く息を吐いた。
「参ったな」
それだけ言って、自分の毛皮のほうへ顔を戻した。
「ミオ」
受付のほうからサリナが来た。採集袋を一目見て、次に盆を数えて、それから息を吐いた。
「朝、判を押したのは私よ」
「止めなかったのですか」
「止める理由が無かったの。昨日の走りを見ていたら、担げないとは思えなかったもの」
サリナはもう一度、盆の山へ目を落とした。
「……でも、一日で埋めてくるとは思っていなかったわ」
ミオは受け皿の葉を秤へ移し、止まった目盛りを台帳へ書き入れてから、硬貨箱の蓋を開けた。銅貨では足りない。小銀貨を四枚、窓口の台へ並べる。
「四百ムーアです」
自分の声が少し硬くなったのが、ミオには分かった。
銅貨四枚を押し出し続けた日が、何日あっただろう。寝床と食事を値に直せば何も残らない額を、この子は毎日数え直していた。それが一日で十倍になった。この子に請求が回ることは、初めから無い。それでも、手数料の分に見合うまでの日数は、二百五十日から二十五日へ縮む。
「……一日で、ですか」
「はい。門灯まではまだ間があります。午後は、いつもどおり資料室に行きます」
背後で扉の開く音がした。
階段を下りてきたオグマが、盆の山と大きいほうの採集袋を順に見て、最後にリナムーアを見下ろした。
「これで、一日ぶんか」
「はい」
「その採集袋を担いで、草原を渡ったのか」
「はい」
「途中で下ろしたか」
「下ろしていません」
オグマは顎を撫で、しばらく黙っていた。問い詰める気配はなかった。
「明日も同じ量を持ってくるか」
「持ってきます」
「そうか」
それだけ言って、オグマは窓口に背を向けた。サリナの脇を通るとき、足を止めずに低く続ける。
「二百五十日はかからん、と言ったな」
「言いました」
「二十五日とまでは言っていないぞ、俺は」
サリナはそれには答えず、口の端だけで笑って、階段を上がっていく背中を見送った。
リナムーアは小銀貨を四枚、腰の硬貨入れへ落とし、空になった大きいほうの採集袋を畳んで抱え上げた。胸から顎までを塞ぐ丈を抱えたまま、ホールを横切っていく。
長椅子の冒険者たちが膝を引いて、通り道を空けた。荷車がここを通ったあの日とは、空け方が違っている。
ミオは台帳の数字を見下ろし、それから窓口の台へ目を落とした。
葉の屑が、一枚だけ残っている。ミオはそれを指の先で拾い上げ、盆へ落とした。




