第17話 格(かく)
寝台の縁から卓へ移り、リナムーアは紙を一枚自分のほうへ引き寄せた。
資料室から貰ってきた、書き損じの紙の裏だ。式の図を写し取るのに幾晩も使ってきた紙だが、今夜書くのは式ではない。
前世で嫌になるほどやったことだった。何かを造り替える前には、まず造り替えてはいけないものを書き出す。そこを曖昧にしたまま手を動かした仕事が、どういう終わり方をするのかも知っている。
ペンを取り、一行目を書いた。
一、見た目を変えないこと。
これが筆頭だった。三歳の子供の腕に大人のような筋が盛り上がったら、誰に何をどう説いても通らない。魔力の無い体で魔石から魔力を取り出したことも、掌に光を点したことも、まだ誰にも話していない。抱えている隠しごとは、もう充分に多かった。
二、日ごろの動きを変えないこと。
三、重さと嵩は変わってよいこと。
四、壊れないこと。
条件が定まれば、やることは自ずと形になる。
まず筋繊維だった。太さを変えてはいけないのだから、束の数も一本ずつの太さもそのままにしておく。手を入れるのは中身の詰まり方だけだ。荒く撚った縄を、同じ太さのまま固く撚り直す。
次に骨だった。十割で縮む筋繊維が引く先に、受け止める台がなければ意味がない。密度を上げ、折れる前に撓むしなやかさを持たせる。その二つを繋ぐ腱と関節の包みは、どこよりも厚くしておく。
(……強い機械を載せるなら、土台と継ぎ目から。順番はいつも同じだ)
体を動かすための蓄えは、脂では抱えないことにした。脂は嵩を取る。腹や頬が丸くなれば、一つ目の条件が真っ先に破れる。極めて小さな粒へ押し縮め、筋繊維の隙にも骨の中にも皮の下にも偏らせずに薄く散らして仕舞い込む。
蓄えを使う側にも手を入れることにした。人の体は食べたものを燃やして動いているが、動きに回せるのはその一部にすぎない。残りは熱になって逃げていく。走れば体が火照り、汗が噴くのはそのためだ。燃やす道筋を一つずつ詰め、熱へ逃げるぶんを減らしておく。同じだけ走っても蓄えの減りは少なくなり、汗で失う水も少なくて済む。
最後に、出す力の加減だった。十割を出せる体で匙を握れば、匙が曲がる。日ごろは体に栓をしてこれまでどおりの力で動き、要るときにだけその栓を抜けばいい。『顕識』が与えたのは十割を出す力ではなく、出す割を決める力のほうだった。絞っておくのも、同じ力で足りる。
旨い話ばかりではない。素材は食べ物からしか来ない。造り替えが進むのは眠っているあいだで、ひと晩にこなせる量には限りがある。それに、骨の長さは変えられない。背丈は七十五センチのままで、腕の届く先も歩幅も三歳の子供のものであり続ける。
(それでも充分だ。ボド草を摘むのに、長い腕は要らない)
紙を折って卓の端へ寄せ、灯りを落として寝台へ入った。目を閉じて腿の筋束の一本へ狙いを下ろし、夕方の走りで傷んだところを繕いながら元より少しだけ固く撚った。
▽ ▽ ▽
伸びは、ひと晩ごとに積み上がっていった。
一日目の朝、裂けた筋繊維はどこにも残っていなかった。繕った先は元より固く、夕方に走路へ出ると、地面を蹴る足にはっきりと力が乗っていた。二日目には、十割で走りきれる本数が前の日の倍になった。三日目には、走路を十本走っても脚が終わらなくなった。
仕組みは単純だった。筋繊維は壊れて繕われるときに、前より強くなる。前世の記憶にもある理屈だ。ただ、普通の体なら一巡に幾日もかかる。塞がるのを待たずに負荷をかければ、伸びるどころか潰れてしまう。
その一巡が、いまは一日で回っていた。
「……昨日より、また速いわね」
三日目の夕方、木の際に立ったサリナが本数を数える指を止めて言った。
「はい。昨日より、少し固くなりました」
「固く」
「脚の中身です」
サリナは何か言いかけて、やめた。代わりに走路の端を顎で示す。
「なら、あと二本。明日の朝に脚が残っていなかったら、承知しないわよ」
四日目の朝、脚は当然のように残っていた。
寝台の上で目を開けると、リナムーアはいつものように『己識』へ意識を回して、夜のあいだの仕事を検めた。裂けは塞がっている。熱も引いている。けれど、繕った先が固くなっていなかった。
昨日の朝と、同じ詰まり方だった。
(……撚り直しが、効いていない?)
狙いを筋束の一本へ絞り、もう一段固く撚るよう書き込む。書き込んだという手応えは、確かに返ってきた。それなのに、筋束の中身は元の詰まり方へ押し戻されていく。縁まで張った器に水を注ぐのと同じで、注いだぶんだけ縁から零れていく。
そのとき、読もうともしていないのに、頭の中で言葉が並んだ。
——成長上限:到達
——レベル:0
洗礼式の日から読んできた羅列と、同じ形の行だった。ただ、この二行を読むのは初めてだった。
(レベル)
前世のゲームなら、見慣れすぎた言葉だった。だがこの世界で、誰かの口からその言葉を聞いたことは一度もない。
リナムーアは身を起こし、筋束の一本ずつへ順に狙いを移していった。詰まり方はどれも、中身の素材がそれ以上は寄り合えないところで止まっている。骨も同じだった。密度はある線の手前でぴたりと揃い、腱の包みもそこから先へ厚くならない。
(……器のほうで、決まっている)
この三日で埋めたのは、器に残っていた余白だけだった。
▽ ▽ ▽
その日の午後、リナムーアは資料室ではなく図書館の石段を上がった。
式集の棚には用が無かった。体を強める式がどこにも無いことは、前にここで聞いている。人の体がどこまで強くなれるかを書いた本も、同じように無いだろう。
人のことが書いていないなら、人ではないほうを探せばいい。
閲覧机の司書の老人は、今日も帳面に何か書きつけていた。本を持たずに机の前へ立つと、珍しく先に顔を上げた。
「生き物の、強さの段について書いた本はありますか」
「段」
「同じ種類で、同じ大きさの生き物なのに、中身の格が違う。そういう話です」
老人のペンが止まった。
「格か。……珍しいものを聞く」
老人は立ち上がり、奥の書架の最下段から背の割れた厚い本を一冊抜いてきた。表紙の型押しは擦り切れて、題の半分しか読めない。
「魔獣の図譜の古い版だ。いまの版からは、序文が削られておる。狩人の言い伝えを、昔の学者が書き留めたものでな。まともに取り合う学者は、いまはおらん」
リナムーアはその机の上で序文の頁を開いた。
同じ種で、同じ背丈で、同じ年を経た獣のあいだに、格の違う個体がいる。見た目で見分けることはできず、仕留めようとして初めて分かる。
格は、その身が育ちきった先でなお積み重ねたものによって上がる。育ちきらない身の格は上がらない。格が上がった獣は、昨日までの体では届かなかったところまで伸びていく。
格は、生涯に一つ上がるかどうかである。多くは上がらないまま終わると考えられる。
読み終えた頁の上で、リナムーアの指が止まった。
(育ちきった先で、なお)
今朝の二行と、そのまま重なった。『己識』がレベルと呼ぶものを、この本は格と呼んでいる。
「人の話は、書いてありますか」
「無い。人は魔力で体を強めるからな。体のほうを育ちきるまで鍛え上げる者など、まずおらん。届く前に年を取る」
「なお積み重ねるもの、というのは」
「獣なら、ほかの獣を倒して積むのだろう、と注があるだけだ。狩人は、老いた獣ほど格が高いとも言う。長く追われて、なお生き延びたものだからな」
老人はそれだけ言うと、帳面へ目を戻した。
リナムーアは序文をもう一度頭から読み直し、それから本を閉じて机の端へ置いた。
▽ ▽ ▽
五日目の朝も、六日目の朝も、『己識』は同じ二行を返してきた。
夕方の裏庭で、リナムーアは十割で走った。走り方そのものは三日目と何も変わらない。地面を蹴る力も、歩幅も、脚が終わらなくなる本数も、昨日と同じところにある。壁に掌を当てて押しているのと変わらなかった。押せば押し返され、壁は少しも動かない。
何を積めばいいのかは、序文にも書いていなかった。分からない以上、出せるものは全部出しておくほかない。走路の終わりまで走りきって、次の一本へ戻った。
「昨日と、同じね」
六日目の夕方、サリナが水筒を差し出しながら言った。
「三日で見違えたと思ったら、そこから一本も変わらないわ」
「はい。止まりました」
「伸びが止まるのは、悪いことじゃないのよ。体のほうが追いつくのを待っているの」
「それでも、あと四本走らせてください」
サリナはしばらくリナムーアの顔を見ていた。
「焦りは禁物よ、無理をしても良いことは何もないわ」
「知っています」
「……四本だけよ」
四本とも、同じ壁で止まった。
その夜も椀を空け、裂けた筋繊維を繕い、同じ詰まり方へ戻されるのを確かめてから目を閉じた。
七日目の朝に目を開けると、窓の外はまだ暗かった。
『己識』へ意識を回す。筋繊維の裂けは塞がっている。熱も引いている。そこまでは昨日と同じだった。
繕った先が、固くなっていた。
昨日の朝まで器の縁から零れていた分が、零れずに収まっている。ためしにもう一段撚るよう書き込むと、筋の中身は押し戻されずにそのまま寄り合った。その先にも、まだ余りがある。どこまで余りがあるのか、縁が見えなかった。
——成長上限:未到達
——レベル:1
昨日までの二行と、並びは同じだった。数字が一つ変わっただけだ。
リナムーアは寝台の上で自分の手を開いた。指の細さも爪の小ささも、昨日と何ひとつ変わっていない。
寝台を下りて、戸の前に立つ。取っ手へ伸ばしかけた手を途中で止め、体の栓の締まり具合を一度確かめてから指を一本ずつ掛けて静かに引いた。
廊下の先から、竈に火を入れる音が聞こえていた。




