第16話 顕識(けんしき)
宿舎の戸を押すと、外はまだ藍色だった。
出がけに見た食堂の時計は、まだ夜中のような刻限を指していた。それでも竈にはとうに火が入り、先に発つ者が数人、黙って匙を動かしていた。外の暗さは、初めて森へ入った日の朝と変わらない。夜明けはあれから二時間近く前へ寄り、食堂の朝も同じだけ早くなっている。
敷地の木立の向こうに外壁の影が黒く立ち上がり、その上の空だけがうっすらと白んでいる。リナムーアは腰のポーチに畳んだ採集袋の嵩を掌で確かめ、石畳を魔境側の大門のほうへ歩き出した。
やることの順序は、ここひと月で何ひとつ変わっていない。
変わったのは、そのあいだに頭の中で読んでいるものの数だけだった。
閂を戻す音を背中で聞きながら、リナムーアは草原へ出た。
『空識』の粗い下絵が、半径五十メートルを丸ごとひと続きに写し取っている。その中へ狙いを三つ置くと、置いたところだけが不意に克明になった。
歩きながら、内側へも意識を向けた。
『己識』のほうは、全身が同じ細かさで並んでいる。備えは整っていた。
(次が、来ない)
裏庭で三歩だけ別人になったあの日から、ひと月あまりが過ぎていた。走るたびに念じている。速く、と。念じるだけでは何も起きなかった。
樹縁から森へ入り、境界沿いの当たりの株だけを回った。見つける手間はもう無いのに、採集袋が一杯になるのはやはり半日だった。
昼過ぎの納品窓口で、ミオは銅貨四枚を押し出しながら、受け取るリナムーアの顔をひと呼吸ぶん長く見た。
「顔色は、戻りましたね」
「はい。よく眠っています」
「けっこうです。頭の疲れは後まで残りますから、治まったのならそれでいいのです」
窓口を離れながら、リナムーアは硬貨を四枚、掌の中で数え直した。
四十ムーア。今日も同じだった。寝床と朝夕の二食を値に直せば、それで消える額である。『空識』の絞りがどれだけ広がっても、稼ぎは銅貨一枚も増えなかった。
(阻んでいるのは感覚じゃない。……体のほうだ)
分かりきったことを、また確かめただけだった。
▽ ▽ ▽
夕方の裏庭には、木立の影が走路の半ばまで伸びていた。
土の柔らかいところと固いところの境目が影に沈んで見分けにくい。この時刻の走り込みは、そこを足裏で読む稽古も兼ねている。木の際に立ったサリナが、指を四本立てた。
「あと四本。息が上がりきる前に止めるからね」
「はい」
一本目と二本目は落ち着いて走れた。三本目の後半で腿が重くなり、四本目に入る頃には、地面を蹴った力の半分が土に喰われていくのが分かるようになった。
『己識』の狙いは全身に置いたままだ。走路の半ばで歩幅が目に見えて縮み、それを縮んだと知らされながら、リナムーアはいつもどおり念じた。
(もっと速く)
次の一歩で、地面が深く噛んだ。
だが今度は、それが起きた瞬間の中身が残らず手元にあった。
右の腿の筋が、一本ずつばらばらの刹那ではなく、同じ刹那に縮んだ。反対側の筋が同じ刹那に力を抜き、引っ張り合いが消えた。腱が弓のように伸びて返り、足首が土の傾きに合わせて角度を変える。心臓が要求より先に血を送り出し、肺が求められる前に膨らんだ。
景色が後ろへ流れ、風が前髪を割る。
あの日はここで転んだ。体が前へ運ばれる速さに足が追いつかず、四歩目で爪先が地面を捉えそこねた。今度は捉えた。捉え方が分かっていた。左が遅れかけたところで踏み替え、傾いだぶんだけ肩を戻す。
五歩、十歩。走路の残り半分を、そのまま走りきった。
走路の終わりを過ぎたところで、脚が唐突に止まった。腿の筋がいっせいに軋み、息が追いつかず、喉の奥が錆の味になる。リナムーアは膝へ手をついて、大きく肩を上下させた。
「リナムーア」
サリナが走り寄ってきた。腰を落として顔を覗き込んでくるその目が、いつもの指導の目ではなかった。
「……いまの」
「はい」
「三歩じゃなかったわね。半分から先、ぜんぶよ」
リナムーアは息を整えながら頷いた。
「今度は、見ていました」
▽ ▽ ▽
草の上に座り込んだリナムーアの横へ、サリナが水筒を置いた。聞きたいのを堪えている気配だけがあって、言葉は降りてこない。
リナムーアは目を閉じ、手元に残ったものを繰り始めた。
まず、いつもの走りのほうを引き出す。四本目の後半、歩幅が縮んでいたあたりだ。
そこで起きていたことは、お粗末なものだった。腿の筋のうち力を出していたのは一部だけで、残りは出遅れるか出過ぎるかしている。縮む側と緩む側の呼吸が合わず、互いを引っ張り合って打ち消し合う。関節は痛みを訴えられる前から身構えて、動く幅をあらかじめ削っている。息は要求に遅れて追いかけ、心臓も同じだけ遅れていた。
次に、あの数歩のほうを引き出した。
そのどれもが無かった。出遅れる筋も、出過ぎる筋もない。引っ張り合いも、身構えもない。息と血は要求の先に回っていた。
数字にすれば簡単な話だった。いつもの走りで使えていたのは持ち物の六割か、七割か。あの数歩は十割だった。
(……足されていない)
リナムーアは目を開け、自分の腿へ掌を置いた。細い。ひと月前と同じ細さだ。
速くなったのではない。強くなったのでもない。器はそのままで、零していた三割を零さなかっただけだ。体はいつも余りを残す。自分を千切らないための余りと、誰にも教わらなかったせいの粗さ。その二つを、あのとき偶然きれいに畳めていた。
前世でも似たことがあった。手を入れたのは一箇所きりで、機械はまるごと同じもの。それで十倍動いた。速くなったのは機械ではなく、無駄の総量が減っただけだった。
(望んだだけで、そうなった。……なら、あれは何をどう望んだものだったのか)
答えは、いま繰り終えた記録の中にあった。
望んだのは、速くあれ、という一言きりだった。けれど体がその一言から汲み取っていたのは、もっと細かな中身だった。この体が持っている十割を、いま、この形で使え。ばらばらの刹那を同じ刹那に揃え、引っ張り合いを解き、息と血を先に回せ。
言葉の形にはまったのは、そこまでだった。
次の瞬間、何かが一気に開けた。
目に映る景色は何も変わらない。開けたのは別のものだった。これまで『己識』は、自分の中身を知らせてくるだけの力だった。読むための力だ。いま届いたのは、書き込むための手だった。
腿の筋が、指を曲げるのと同じ近さにある。心臓の打ち方も、肺の膨らむ幅も、瘡蓋の下で皮が張っていく速さも、そこにある。望めば、そのとおりに動く。
(『顕識』——)
名前は、『己識』が返した。『自己認識』が三つ目を授けたのだ。『己識』が内を、『空識』が外を識る力だったのなら、これは識ったものへ手を入れる力だった。
リナムーアは草の上で息を吐き、それから立ち上がった。
「サリナ」
「なに」
「もう一本、走らせてください」
「だめよ。脚が終わってる」
「終わっていません。……もう、直しました」
サリナが眉を寄せた。何を言われたのか量りかねている顔だった。それでもしばらく黙って見下ろしたあと、木の際へ戻っていった。
「一本だけ」
走った。
走路の入りから終わりまで、全部が十割だった。土を噛む深さが変わり、歩幅が伸びて、影が後ろへ置き去りにされる。腿が悲鳴を上げる手前で出力を落とし、そのぶんをふくらはぎへ回して速さを保つ。どこにも余りを残さず、どこも壊さずに走りきった。
止まったリナムーアの前に、サリナが立っていた。水筒を渡そうとした手が、途中で止まっている。
「……大人の早足に食らいつく、なんてものじゃないわね、それ」
「はい」
リナムーアは少し考えた。嘘をつくつもりはない。ただ、言い方を誤るとこの人は自分を走らせてくれなくなる。
「体の使い方が、分かったんです」
「使い方」
「はい。いままでは、持っている力の七割くらいしか出せていませんでした。残りの三割は、体の中で喧嘩して消えていました。それをやめさせました」
サリナは水筒を差し出し、リナムーアがそれを受け取るのを待ってから、短く息を吐いた。
「聞いても分からないわ、いまの」
言いながら、サリナは笑っていた。困った顔のまま、目のところだけが笑っている。
「でも、嘘じゃないことは分かる。終わっていた脚が、あれだけ走ったんだもの」
サリナは水筒の栓を捻りながら、走路のほうへ目を投げた。
「あの日、足が滑っただけかもしれないって言ったわね」
「言いました」
「あれは、私が自分に言い聞かせただけよ」
言い方は穏やかだったが、語る先は走路の土に向いていた。
「三歩のあいだ、あなたは別人だった。この目で見たもののほうが正しいのに、説明のつく側へ寄ってしまったの。……冒険者だったころの私が聞いたら、叱るでしょうね」
「サリナは、叱られるようなことはしていません」
「慰めなくていいわ」
それから、リナムーアの頭に手を置いて軽く二度叩いた。
「明日も来なさい。見ておきたいから」
▽ ▽ ▽
食堂の長机は、夕餉の時刻を過ぎて人がまばらになっていた。
リナムーアは三杯目の椀を空にして、炊き場へ四杯目を貰いに立った。
食べたものが、どこへ行くのかが見えていた。
噛んで飲み下したものが胃で解かれ、解かれた端から壁を抜けて血へ移る。いつもなら半分ほどはそのまま通り過ぎていく。それをやめさせると、送られてくる量が倍近くになった。血に載って腿へ届き、昼のあいだに傷んだ筋の繕いへそのまま充てられていく。
(食べた分が、ほとんど残らず身になる。……この体には、途方もない話だ)
飢えて死にかけた体だった。皿の上のものを一片も無駄にできない体だった。それが、無駄にしないための力を後から授かった。順番としては笑うしかない。
「よく食べますね」
向かいに座ったミオが、匙を止めて眺めている。その隣では、サリナが黙って自分の椀を傾けていた。
「走ったので」
「四杯目です。数えていました」
「……走ったので」
「走るのは、いつものことでしょう。いつもは二杯で止めていました」
ミオの目が、リナムーアの顔から皿へ、皿から肩へと移っていく。観察の目だった。誤魔化しの効く相手ではない。
「おなかが、いくらでも空きます」
これは嘘ではなかった。
「なら、食べるだけ食べてください」
ミオはあっさりそう言って、自分の皿の炙り肉を一切れ寄せてきた。
「育つ時期の子が食べるのは、いいことです。……ただし、明日の朝も起きられる量にしてください」
ミオの隣で、サリナが吹き出した。
「四杯でも足りないくらいよ、ミオ。この子はさっき裏庭で、終わった脚でもう一本走ったの。それが今日いちばん速かったのよ」
「終わった脚で」
「走路の半分から先は、三つの子の走り方じゃなかったわ」
ミオは目を瞬かせ、リナムーアを見た。それから、何も聞かなかった。
「……そうですか」
それだけだった。この二人が、察していながら聞かずにいてくれるということは、もう幾度も分かっていた。
五杯目は断られた。
▽ ▽ ▽
自室の灯りの下で、リナムーアは膝の瘡蓋を検めた。
四日前に走路で擦りむいたものだ。皮の下では新しいものが張りつつあるが、塞がりきるまでにあと幾日かかかる。そこへ手を伸ばした。
血を集める。滲みを退かせる。繕う素材を、食堂で溜め込んだぶんから回す。
掌の下で、熱が籠り始めた。
腿の筋も同じように繕った。十割で二本走った代償は決して軽くなく、『己識』は幾筋もの細かい裂けを律儀に並べてみせる。放っておけば三日は使い物にならない。それを、ひと晩で塞ぐだけの手立てが、いまは自分の側にある。
(……壊れた分を直せる。直す速さも決められる)
リナムーアは掌を退けて、自分の腿を上から眺めた。
細い。三歳の子供の脚だ。十割を出したところで、元が細ければ十割は細いままだ。今日の走りが頭打ちになったのは、そこだった。使い切る力は手に入れた。使い切るべき中身のほうが足りていない。
そこで、手が止まった。
繕うというのは、元の形へ戻すことだ。皮を元の皮に、筋を元の筋に。今夜やったのはそれだった。
では、戻す先の形を変えたら、どうなる。
筋の中身の詰まり方。骨の密度。腱の強さ。どれも『己識』が数字で並べてみせるものだ。数字で読めるものには、書き込む手が届く。今日、それを確かめたばかりだった。
卓の上には、写し取った灯火の式の図と、灰色の魔石が一つ、手を付けられないまま置かれている。今夜はどちらにも触らなかった。
リナムーアは寝台の縁に腰を下ろし、膝の瘡蓋へもう一度掌を被せた。皮の下で新しいものが押し上がってくるのが、掌の熱に混じって伝わってきた。




