第15話 記録(きろく)
自室の戸を閉めてから、リナムーアはもう一度だけ試した。
寝台の縁に手をかけ、板張りの床を踏みしめて、(速く)と念じる。何も起きなかった。踵は床に貼りついたままで、裏庭でのあの感触は脚のどこにも戻ってこない。
予想どおりだった。何度繰り返しても一度も起きなかったものが、部屋の中で都合よく起きてくれるはずがない。
リナムーアは寝台に腰を下ろし、膝の上で指を組んだ。
(再現できない。……なら、次にやることは決まっている)
前世でも、これには何度も付き合わされた。数万件に一度しか出ないという不具合。報告は上がってくるのに、こちらの手元では一度も同じことが起きない。そういうときにまず手をつけるのは、原因を探すことではなかった。
記録を仕込むことだ。
次に起きた瞬間、何がどうなっていたのかが後に残るようにしておく。そのうえで再現を待つ。見当がつくのはいつだって、起きた瞬間の中身が手元に揃ってからだった。
(起きる条件がわからないなら、起きたときに見落とさないようにすればいい)
では、いまの自分にとっての記録とは何にあたるのか。
考えるまでもなかった。『己識』だ。
自分の状態を知るための力。授かったときは意識して発動しなければ何も返ってこなかったが、『空識』が発現した頃から、発動せずとも体の具合が絶えず流れ込んでくるようになっている。それだけではない。魔石を握ったあの夜に分かったとおり、一か所へ狙いを絞れば、そこだけは細かく鮮明に見えるようになる。
裏庭でのあのとき、『己識』は何を伝えていただろうか。
思い返して、リナムーアは顔をしかめた。走っているあいだ見ていたのは腿の重さと心臓の拍ち方くらいのものだ。狙いを絞っていたのは脚の一か所だけで、それ以外はいつもの大づかみな像のまま流れていた。全身を検めたのは転んで仰向けになってからで、そのときにはもう何もかもが終わっていた。
(三歩のあいだに、体のどこで何が起きたのか。……それが何ひとつ残っていない)
記録の粗いところで事故が起きたようなものだった。
問題の形がはっきりしたぶん、やるべきことも見えてくる。狙いを絞れば細かく見える。ならば、絞り方のほうを鍛えればいい。
リナムーアは目を閉じて、右の腿へ狙いを絞った。
筋の一本ずつの張り、そこを流れる血の温み、皮膚の下でわずかに脈打つもの。いつもの大づかみな像とは比べものにならない細かさで、腿の中身が浮かび上がってくる。
そのまま左の腿へも同じことをしようとした。
左が見え始めた途端、右が滲むように崩れた。慌てて右へ戻すと、今度は左が消える。両方を同時にと念じてみると、どちらも中途半端に霞んだまま、結局どちらの中身も分からなかった。
次に、絞る範囲そのものを広げにかかった。腿の一か所ではなく、腰から踵までをひと息に。範囲が広がったぶんだけ像は薄まり、片脚全体が均しく粗くなっただけで終わった。
(どちらもできない、か)
落胆はなかった。むしろ手応えがあった。できないことが二つ、名前のついた形で目の前に並んだのだ。
複数の箇所へ同時に狙いを絞ること。絞る範囲そのものを広げること。前世の言葉を借りるなら、並列化と広範囲化だった。
『自己認識』は使い込むほどに育つ。それは洗礼式の朝からこちら、自分の体で確かめ続けてきたことだ。ならば、どこを使い込むかは自分で選べる。
▽ ▽ ▽
翌朝、魔境側の大門をくぐるときには頭の中がもう次のことでいっぱいだった。
「気をつけてな」
顔なじみの門兵が閂に手をかけたまま、いつもの一言を投げてくる。
「はい。門灯までには戻ります」
草原へ出て、まだ薄暗い道を歩き出す。樹縁までの四キロは、これまでただ歩くだけの時間だった。今日からは違う。
リナムーアは『空識』へ意識を向けた。
半径五十メートル。丈の低い草が一面に広がっているという粗い下絵が、歩みに合わせて絶えず塗り替えられていく。その中の一点——道の脇に茂る草の一株——へ狙いを絞ると、そこだけが不意に克明になった。葉の反り方も、露の載った位置も分かる。
(……同じだ)
『己識』と『空識』は、内と外という違いがあるだけで、使い方の作りはまったく同じだった。常に流れてくる粗い像があり、一点へ絞るとそこだけ細かくなる。絞れるのは一か所で、その一か所はごく狭い。
であれば、鍛える余地も同じだけあるはずだった。
歩きながら、道の両脇の株へ一つずつ狙いを置こうとしてみる。結果は昨夜とまったく変わらなかった。右へ絞れば左が沈み、左へ絞れば右が沈む。範囲を広げようとすれば、広げたぶんだけ薄くなる。
しばらく続けているうちに、こめかみの奥が重くなってきた。『己識』が疲れの度合いを淡々と返してくる。体はどこも動かしていないのに、頭だけが走った後のようになっていた。右から左、左から右へと、狙いを置き直すたびに少しずつ削られていく。二つを同時に見ているのではなかった。一つから一つへ、跳び移っているだけだ。
(前世で言う、同時にこなしているつもりで、実は切り替えているだけ、というやつか)
ただ、前世の職場では、それで十分に仕事の回る人間もいた。切り替えが速いというだけでも、仕事は目に見えて早くなる。
ならば順序はこうだ。まず、切り替えを速くする。同時に見られるかどうかは、その先で考えればいい。
樹縁に着く頃には、訓練の割り振りも決まっていた。行き帰りの道と採取のあいだは『空識』。午後に資料室や図書館で頁を繰るあいだと、夕方の走り込みは『己識』。夜は式をなぞる合間に、どちらも。
薄い靄をまとった木立の前で、リナムーアは採集袋の口を緩めた。
▽ ▽ ▽
十日が過ぎた。
裏庭の走路には木立の影が長く伸び、土の柔らかいところとそうでないところの境目が見分けにくくなっている。
「あと二本」
木の際に立ったサリナが指を二本立てた。リナムーアは頷き、走り出す前に狙いを両の腿へ置いた。
地面を蹴る。
右が見える。左が沈む。左へ移す。右が沈む。それを一歩ごとに、目まぐるしく繰り返しながら走った。始めた頃はこれだけで頭が痺れ、走り終えるたびに膝へ手をついて息を整える時間が要った。
いまは違う。移し替えの一回ずつが短くなり、沈んでいる側が沈みきる前に戻ってこられるようになっている。
走路の半ばで、それが起きた。
切り替えた覚えがないのに、両方が見えていた。
右の腿の筋が地面を押した張りと、左の腿がそれを受けて畳まれる撓みが、同じ瞬間に並んで感じ取れる。どちらも霞んでいない。二つの像が重なりもせず、二つのまま立っていた。
驚いて足元が疎かになり、リナムーアは根に爪先を引っかけてたたらを踏んだ。
「危ない」
サリナが走り寄り、前へ泳いだ体を抱き留めた。
「……ありがとうございます」
「ぼんやりしてたわね。今日はもう終わり」
「いえ。もう一本、走らせてください」
サリナはしばらくリナムーアの顔を見下ろしていたが、やがて肩をすくめて木の際へ戻っていった。
「一本だけよ」
最後の一本は、これまでで一番きれいに走れた。
右の脚が強ばる前に歩幅を詰め、左が遅れかけたところで踏み替える。二つを同時に見ていれば、片方だけを見て走るのとは、判断の速さも確かさもまるで違った。
「走り方が変わったわね」
水筒を差し出しながら、サリナが言った。
「足の置き方が、さっきまでと別物よ」
リナムーアは水を一口飲んでから、少し考えた。
「両方いっぺんに分かるようになったんです」
「両方」
「はい。……うまく言えません。まだ、途中なので」
サリナは何か言いかけて、やめた。代わりに水筒を受け取り、リナムーアの頭に手を置いて軽く二度叩いた。
「じゃあ、途中のままでいいわ」
▽ ▽ ▽
『己識』で同時に見えるようになった二か所が、三か所になるまでに、さらに十日ほどかかった。
伸び方は階段を上がるように来た。ある日を境に不意にできるようになり、そこからしばらくは何も変わらず、忘れた頃にまた一段上がる。『己識』で覚えた要領は、そのまま『空識』にも通じた。片方で掴んだ要領を、もう片方で一から探し直す必要はなかった。
森の中でそれがはっきりと実を結んだのは、『己識』で同時に見えるのが三か所になって間もない朝だった。
境界沿いの下生えをたどっていたリナムーアは、粗い下絵の隅に動く影があるのを捉えた。四十メートルほど先。以前であれば、そちらへ狙いを絞って草から意識を外すか、草を見るために影を放っておくか、どちらかしかなかった。
いまは両方できた。
一つ目の狙いを影へ。頭の前に、短い角のようなものが一本。体長は自分の背丈より少し短いほど。資料室で読んだ図譜が頭の中で重なった。ホーンラビットだ。
(脚が速い。まともにぶつかられたら終わる)
二つ目の狙いは、足元の下生えに置いたままにしてある。葉裏の筋が波紋状に広がっている株が三つ、手を伸ばせば届くところにあった。
リナムーアは音を立てずに三株ぶんの葉を摘み、影の位置を頭の隅で追いながら境界のほうへ下がった。影は一度こちらを向いたが、追ってはこなかった。距離が開き、やがて像の外へ出ていった。
草原へ出てから、リナムーアは大きく息を吐いた。
(……見ながら、摘めた)
影を追う狙いと、草を見る狙い。どちらも手放さずに済んだから、急がずに葉を摘み、背を向けずに下がれた。狙いを二つ持てるというのは、そういう差になって現れるのだった。
ただし、代償はあった。
その日の昼過ぎ、窓口に採集袋を差し出したリナムーアの顔を見て、ミオが判別機を動かす手を止めた。
「顔色が良くありませんね」
言われて初めて、瞼の裏が熱を持っていることに気づいた。体のどこも痛くはない。ただ、頭の芯にぼんやりとした重さが居座っていて、それが朝から取れずにいる。
「……少し、疲れました」
「熱は。……失礼しますね」
ミオは台帳を脇へ置き、窓口の台越しにリナムーアの額へ手を当てた。ひやりとした掌が心地よかった。
「熱はありませんね。……根を詰めていませんか」
「詰めています」
「正直でよろしい」
困ったように笑って、ミオは銅貨四枚を数えて押し出した。
「夜は早く休んでください。頭の疲れは、体の疲れより残ります」
言われたとおり、その夜は式をなぞらずに寝台へ入った。眠りに落ちる前に『己識』で頭の中を検めてみたが、返ってきたのは疲れているという大づかみな像だけで、どこがどう疲れているのかまでは分からなかった。
内側にも、まだ絞りの届かないところがある。
▽ ▽ ▽
ひと月が過ぎた。
夜明け前の草原へ出たところで、リナムーアは足を止めて目を閉じた。
『己識』の狙いを、一か所ではなく自分そのものへ向ける。
浮かび上がってきたのは、これまでのような一点の細密画ではなかった。心臓が打つたびに血が押し出されていく道筋。肺が広がって縮む幅。ふくらはぎに残っている昨日の強ばり。三日前に擦りむいた膝の瘡蓋の下で、新しい皮が張りつつあること。胃の中でまだ溶けきっていない朝食。胸のあたりに薄く寄り集まった、極微量の魔力。
そのすべてが同じ細かさで、同じ瞬間に並んでいた。
順に見て回っているのではなかった。一度に、全部が分かった。
(……ここまで来たか)
意識を外せば、像はまた大づかみなものへ戻る。四六時中この細かさで自分を眺めていたら、それこそ頭が保たないだろう。だが、意識を回しさえすれば、いつでもこの細かさで読める。
次に同じことが起きたとき、脚の一か所しか見ていなかった、ということはもう起こらない。
目を開け、今度は意識を外へ向けた。
五十メートルの粗い下絵の中に、狙いを三つ置く。道の先、右手の草の斜面、背後の門のほう。三つとも、以前なら一株ぶんしか占められなかった絞りが、いまは畳を何枚か並べたほどの広がりを持っている。
自分の全部を一度に見られる『己識』とは違って、『空識』のほうは範囲の全部をいっぺんに、というわけにはいかない。置けるのは三つまでで、一つあたりの広さにも限りがある。それでも、ひと月前とは別の道具になっていた。
樹縁をくぐり、境界沿いの下生えへ狙いを下ろす。
ひと区画の草が、まとめて浮かび上がった。
手前に三株、その奥へ五株、窪みの縁に沿って七株。葉裏の筋が波紋状に広がっているものとそうでないものが、一目で分かれて見えている。以前は一株ずつ狙いを移し、一つ確かめては次へ移していた。同じことが、いまは一度で済む。
リナムーアは当たりの株だけを順に回り、ナイフで葉だけを切り落としては、採集袋へ入れていった。
見つける手間は、ほとんど消えた。それでも採集袋が一杯になるのはやはり半日だった。歩く脚の速さも、葉を一枚ずつ切り取る手の速さも、ひと月前と何ひとつ変わっていない。分かっていたことだ。
採集袋の口を括って立ち上がり、来た道を戻る。
草原へ出てからも、リナムーアは『空識』の狙いを広げたまま歩いた。丈の低い草が地平まで続いている中を、風が畝になって渡っていく。狙いを置いた先では、その風に押された葉が一枚ずつ裏返り、白っぽい葉裏が波のように起き上がっては伏せていくのが、まとめて分かった。
高くなった日が、リナムーアの短い影を前へ落としていた。その影を踏むようにして、遠くの外壁へ向かって歩いていった。




