第14話 加速(かそく)
魔術式集は五冊とも、目次の最後の行まで繰り終えていた。
見落としたのかもしれない、という考えは三度目の確認で捨てた。無いものは無い。ならば次に確かめるべきは、なぜ無いのかだった。
リナムーアは膝の脇の一冊を抱えて立ち上がり、閲覧机のほうへ歩いていった。
司書の老人は帳面に何か書きつけている。近づいても顔を上げなかったが、本を机の端へ置いた音で、ようやくペンが止まった。
「体を強める魔術式は、どこにありますか」
「体を強める、とは」
「腕の力を強くしたり、脚を速くしたりする魔術式です。五冊とも目次をたどりましたが、それらしい名前が一つもありませんでした」
老人は積まれた魔術式集の背表紙をひと目見て、短く答えた。
「無いな」
「この館に、ですか」
「どこにもだ。王都の研究院の棚を漁っても出てはこん」
あまりにあっさりした言い方だった。リナムーアは机に手をかけたまま、少しのあいだ言葉を探した。
「……なぜ、ですか」
「要らんからだ」
老人はペンを置いて、初めてこちらを見下ろした。
「魔術というのは、誰がやっても同じ結果になるように、魔法を手順へ均したものだ。そこまでは知っているな」
「はい」
「では聞くが、歩き方を魔術式にした者がいると思うか」
リナムーアは首を横に振った。
「そんなものを欲しがる者はいません」
「体を強めるのも、それと同じだ」
老人は顎で書架のほうを示した。
「魔力を持つ者なら、誰でもやっている。教わらずにな。赤子が寝返りを打つのと変わらん。誰にでもできることを、わざわざ手順へ直して何になる。書き留める者がおらんのだから、調べる者もおらん」
「上手い下手は、ないのですか」
「ある。魔法と同じだ」
老人は帳面を閉じた。
「同じことをしても、出方は人によって違う。持って生まれた差と、積んだ年月の差だ。魔術式にならなかったものは、みなそうなっている」
礼を言って書架のあいだへ戻りながら、リナムーアは老人の言葉を並べ直した。
(……誰にでもできるから、誰も書き残さなかったのか)
前世にも同じものがあった。誰もが当たり前にこなしている作業ほど、手順書には載らない。新しく入った者が聞いても「普通にやればいい」で終わる。書けなかったわけではない。書く必要を、誰も感じなかっただけだ。
書き残されていないものは、どれだけ棚を探しても出てこない。当たり前の話だった。
▽ ▽ ▽
その夜の食堂は、珍しく二人ともそろっていた。
サリナが炙り肉の皿を長机の真ん中へ寄せ、ミオが椀を配る。リナムーアは二人のあいだに座り、匙を取る前に口を開いた。
魔石から魔力を取り出せたことは、まだどちらにも話していない。話すなら、それが何の役に立つのかまで示せるようになってからでいい。今夜聞きたいのは、別のことだった。
ミオが、椀を配る手を止めた。
「その前に、リナムーア。あの魔石は、どうでしたか。危ないことは、していませんね」
「していません。……まだ、ためしている途中です」
嘘ではなかった。ミオは少しのあいだリナムーアの顔を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「ミオ。サリナ。体を強くする魔術はありますか」
サリナの匙が止まった。
「魔術ではないわね、あれは」
「あれ、とは」
「力を入れるときに、体へ魔力を回すでしょう。それのこと」
こともなげに言ってから、サリナは眉を寄せた。
「……そうね。誰でもやっている、としか言いようがないわ」
「教わりましたか」
「教わってないわ。気づいたらやってた」
ミオが横から続けた。
「私もです。魔法の手ほどきを受けたとき、そこは初めからできるものとして話が進みました」
「上手い下手はありますか」
「あるわよ」
サリナは肉を一切れ口へ運び、空いた手で弓を引く真似をした。
「回す先を選べるかどうかね。弓を引くときは、肩と背にだけ回すの。下手なうちは体じゅうへ散らして、狙いが定まる前に腕がばてる。……でも、どうやっているのかと聞かれると困るわ。手の握り方を説明しろと言われているのと同じ」
ミオが匙を置いた。
「多く回せばいい、というものでもありません。強く回そうとすれば、その分だけ体が軋みます。加減を誤れば筋も骨も持ちません。……それで二度と歩けなくなった人を、私は何人も知っています」
二人の答えは、昼間に老人から返ってきたものと同じだった。教わらずに誰もがやっていて、上手い下手だけがある。誰も魔術式にしなかった技術。
リナムーアは汁を一口飲んでから、軽い気持ちで口にした。
「では、魔術式にすればいいのではありませんか」
「……魔術式に」
「無いなら、作ればいいと思ったんです」
ミオの手が止まった。困ったような、言いにくそうな顔になる。
「作る、というのがどういう仕事なのか、ご存じですか」
「紋様と文字を組み合わせるのだと、本には」
「組み合わせで出せるのは、いまある紋様が持っている効果の範囲だけなんです」
ミオは机の上に指で小さく円を描いた。
「たとえば、流れを細める。一方へだけ通す。溜める。分ける。巡らせる。紋様はたくさんありますが、一つ一つの働きは決まっています。……その中に無い働きが欲しければ、新しい紋様が要ります」
「新しい紋様は、どうやって作るんですか」
「作れません。探すんです」
思いがけない答えだった。リナムーアは匙を持つ手を下ろした。
「紋様は、考えて生み出せるものではないんです。紋様の線を少しずつ変えて、何百、何千と試して、そのうちの一つが偶然何かを起こす。それを書き留めて、また試す。王都の研究院が代を継ぎながらやっている仕事です」
サリナが椀の縁を指でなぞった。
「私が生まれてから見つかった新しい紋様や魔法文字は、二つか三つよ。それも灯りの持ちが良くなったとか、その程度のもの」
リナムーアは何も言えなかった。
(……そうだ。そういうものだ)
前世でも変わらない。ある部品を並べ替えて組み上げるのと、無い部品を一から拵えるのとでは、要る時間も人も金も桁が違う。そんなことは承知していたはずだった。無いなら作ればいい、というのはいつも外から眺めている人間の台詞で、自分はそれを投げられる側にいた。あの一言を聞かされるたび、どれほどうんざりしたか分からない。
それを今日は、自分のほうが言った。
「……すみません。簡単に言いました」
「謝ることじゃないわ」
サリナが笑って手を振る。
「思いつきもしないより、ずっといいもの」
「力になれなくて、すみません」
眉尻を下げたミオに、リナムーアは首を振ってみせた。
「いえ。無いと分かっただけでも収穫です」
強がりではなかった。何も置かれていない棚をいつまでも探し続けるのが、いちばん時間を無駄にする。
▽ ▽ ▽
日々はそれからも同じように過ぎ、変化はある朝の草原で起きた。
いつもならまだ遠く、目に映っているだけで何ひとつ伝わってこない距離だった。それなのにその朝は、歩きながら不意に丈の高い草の壁が像の中へ滑り込んできた。絡み合った茎の一本ずつまでは分からない。ただ、そこに濃い緑の塊があるという『空識』の粗い下絵が、いつもより早く届いた。
立ち止まり、下絵の縁へ意識を向ける。届く距離は、理屈ではなく感覚として分かった。自分を中心に、およそ五十メートル。リナムーアは目を瞬かせた。
(随分と大きく変わったな……)
『空識』の届く縁が、外へ押し広げられていた。
嬉しくないはずがなかった。森の中で五十メートルとなれば、見えない相手の気配を掴める余地はそれだけ広くなる。逃げる算段を立てる時間も増える。
だが、その日の採取は前の日と何ひとつ変わらなかった。
翌日も、その次の日も同じだった。狙いさえ絞れば、五十メートル先の一株でも葉裏の筋まで読み取れる。見つける段は速くなった。変わらないのは、その先だった。株のそばまで運ぶ脚の速さも、葉を一枚ずつ切り取る手の速さも、以前のままだ。もともと手間の大半は、歩くことと切ることのほうにあった。採集袋が一杯になるのは、やはり半日だった。
(制約になっているのは、探す時間じゃない。動く時間のほうだ。つまり、体が追いついていない……)
その日の夕方、裏庭でサリナに付き合ってもらいながら、リナムーアはそれをはっきりと確かめた。
木の根の張り出した不整地を全力で駆け、歩いて息を整え、また駆ける。『己識』が絶えず伝えてくる脚の消耗と心臓の拍ち方を見ながら歩幅を決められるぶん、粘りは確かに増していた。それでも、大人の早足にどうにか食らいつくという水準からは動いていない。
「前より持つようになったわね」
汗を拭うリナムーアに、サリナは水筒を差し出しながら言った。
「ただ、伸び方は鈍くなってる。体ができてくるまでは、こんなものよ」
こんなもの、という言葉が正しいことは分かっていた。三歳の体が、ひと月やそこらで大人になるわけがない。
魔術式は無い。体は急がない。ならば残っているのは、老人とミオとサリナが口をそろえて言った、誰も魔術式にしなかった技術だけだった。魔力を回して体を強める。誰でもやっていて、上手い下手だけがあるもの。
(普通の人がやっていることを、普通にやる。……それだけの話だ)
そのためには、まず魔力を細かく扱えるようにならなければならない。本のとおりに魔術式をなぞって、小さな魔術を一つ使えるようにする。遠回りに見えて、たぶんそれがいちばん近い。
▽ ▽ ▽
その夜、リナムーアは寝台の上に座り、まず自分の魔力で脚を強めようとした。
胸のあたりに薄く寄り集まっているものを、右の腿へ運ぶ。運ぶこと自体は造作もなかった。運び終えてから、寝台の上で片脚を踏ん張ってみる。
何も変わらなかった。
『己識』の狙いを腿へ絞れば、理由は考えるまでもない。運び込んだ魔力は、腿の表を薄く撫でる程度にしか行き渡っていなかった。桶に一滴垂らして底が濡れるのを待つようなものだ。
布包みを開き、灰色の粒魔石を掌に載せた。
握ればすぐに、皮一枚の下へひと雫が滲む。それを手首へ運ぶと掌が空き、また新しいひと雫が押し寄せてくる。運んでは空け、運んでは空けを繰り返し、腕から肩、肩から胸へと溜めていった。
十回、二十回と重ねたあたりで、リナムーアは『空識』の狙いを掌の魔石へ向けた。
みっしりと押し込められていたものに、隙間が見えていた。
(……減っている)
慌てて手を止めた。当たり前の話だった。魔石の中身は無尽蔵ではない。ミオの言葉を借りるなら、この粒魔石に入っているのは小さな光を一分ほど灯すぶんでしかない。
体に溜まったものを『己識』で検める。自分のぶんと合わせても、腿の表を撫でていた薄さに大きな変化は見られなかった。
勘定はすぐに済んだ。仮にこの魔石を空になるまで汲み尽くしたとして、手に入るのは灯り一分ぶん。サリナが弓を引くたびに肩と背へ回している量。それと同じ土俵に載せられる嵩とは、とても思えなかった。
(一分の灯り一つで、走れるようになるはずもない)
桁が違う。そう認めてしまえば話は早かった。魔力を回して体を強める道は、当面のあいだ棚へ上げるしかない。
では、この魔石で何ができるのか。
答えはミオが最初に言っていた。小さな光を一分。
リナムーアは目を閉じ、魔術式集の頁を思い出した。灯火の魔術式。五冊のうちで最も単純で、線の数もいちばん少ない。細く絞った線が一本、楔が二つ、その先に光を定める魔法文字が一つ。目次を繰る合間に、何度も眺めた図だった。
掌のひと雫を、その線の形に沿わせていく。
一度目は楔の手前で形が崩れた。二度目は曲がり角で滞り、そのまま散った。魔術式の線を細く保つのが思ったよりも難しい。少しでも気を緩めると、魔力は決められた道から溢れて勝手に広がってしまう。
何度目かで、道筋の最後まで魔力が届いた。
掌の上に、小さな光が点った。
小指の先ほどの、頼りない光だった。指を透かすほどの明るさもない。それでも確かに、自分の手の上でそれは灯っていた。
リナムーアは息を止めたまま見つめていた。光は一分と持たずに細り、やがて溶けるように消えた。
(……使えた)
魔力を持たないと言われた体で、魔術が一つ成った。胸の奥がじわりと熱くなる。
その熱は、すぐに冷えた。
いま、どれだけの時間がかかっただろうか。魔術式をなぞり始めてから光が点るまで、頭の中で二十は数えていた。
ミオが光球を浮かべるところを、リナムーアは何度も見ている。杖を握り直すより早く、肩先の宙に明かりが生まれていた。息を吸う間もない。
(二十数えるあいだ突っ立っている術者を、魔物は待ってくれない)
灯りなら、遅くても点れば用は足りる。だが、いずれ体を強めるところまで辿り着いたとして、そのときに二十も数えていては何の役にも立たない。要るのは速さだ。そして速さとは、魔力をどれだけ素早く思った形へ動かせるか、それだけの話でしかない。
つまり、制御の稽古だ。
そこまで考えて、リナムーアは口の端が上がるのを感じた。
なぞるだけなら、魔石は要らない。光が点らなくてもいい。魔術式の線をたどる練習なら、自分の極微量な魔力で足りる。流れる嵩が極端に小さいというだけで、なぞる道筋は同じものなのだから。
その晩から、日課がもう一つ増えた。
▽ ▽ ▽
十日ほど過ぎた日の夕方だった。
「あと三本」
木立の際に立ったサリナが、指を三本立てて言った。返事をする余裕はなかった。リナムーアは膝に手をついて息を整え、腿に残っている力を『己識』で見積もってから顔を上げた。
地面を蹴る。
木の根を越え、窪みを避け、土の柔らかいところを選んで足を置く。四本目までで脚は十分に重くなっていて、思ったところに足が降りない。息が上がる。半分を過ぎたあたりで、歩幅が目に見えて縮んだ。
(もっと速く)
そう思った。
次の一歩で、地面が深く噛んだ。
蹴り出した脚が、いつもより遥かに強く土を押していた。景色がひと息で後ろへ流れ、風が前髪を割る。二歩、三歩。体が前へ運ばれる速さに、自分の足のほうが追いつかない。四歩目で爪先が地面を捉えそこね、リナムーアは前のめりに崩れて草の上を転がった。
仰向けになった目に、暮れかけた空が映った。
心臓が激しく打っている。走ったせいだけではなかった。
あのとき、脚が変わった。
リナムーアは『己識』の狙いを全身へ巡らせた。胸のあたりに薄く寄り集まった魔力は、走り出す前と同じところに同じだけあった。脚へ下りた跡も、通った道筋の名残もない。毎晩なぞっているあの手触りとは、似ても似つかなかった。魔力は何ひとつ動いていない。それなのに、脚だけが確かに変わっていた。
「リナムーア!」
サリナが駆け寄ってきて膝をついた。
「大丈夫?」
「……はい」
「三歩だけ、別人みたいだったわよ」
サリナは擦りむいた膝を検め、土を払い落としてからリナムーアを立たせた。
「もう一度、やってみて」
リナムーアは頷いて、同じ場所から走った。
何も起きなかった。もう一度、もう一度と繰り返しても、返ってくるのはいつもどおりの重い脚と短い歩幅だけだった。六本目を終える頃には、残っていた力もほとんど尽きていた。
「……今日はここまでね」
サリナは腕を組み、しばらく走路を眺めていた。
「足が滑っただけかもしれないわ。転んだところは、この目で見たもの」
その口調は、自分を納得させるためのもののように聞こえた。
▽ ▽ ▽
食堂の長机に着いてからも、リナムーアはずっと裏庭でのことを考えていた。
椀から立ち上っていた湯気は細くなり、やがて見えなくなった。匙は持ったままだった。
あの三歩を、頭の中で辿り直す。足が滑ったのではない。それは自分の脚がいちばんよく知っている。かといって、魔力で説明もつかない。魔術式をなぞったわけでも、どこかへ運んだわけでもなかった。あのとき自分がしたことは、速くあれと望んだ、ただそれだけだ。
(勘違いじゃない。……思っただけで、そうなった)
「リナムーア」
向かいからミオの声がした。
「さっきから、一口も食べていませんよ」
「ずっとそれよ。裏庭から戻る道でも、返事が半分しか返ってこなかったもの」
サリナが呆れた顔で頬杖をつく。ミオが身を乗り出した。
「どこか痛みますか。転んだと伺いましたけれど」
「痛くはありません。……考えごとをしていました」
リナムーアは匙を置き、少し言葉を探した。うまく説明できる自信はなかった。形になっていないものを形になっていないまま口にするのは、前世でも苦手だった。
「……何かが、掴めそうなんです」
「掴めそう」
「はい」
サリナが片眉を上げる。リナムーアは自分の掌を開いて、そこを見下ろした。
「手を伸ばせば届くところに、あるような気がします。まだ形になっていないだけで。……もう少しだと思います」
二人が顔を見合わせた。ミオが何か言いかけたが、サリナのほうが先に短く息を吐いた。
「そう」
それだけだった。サリナは自分の皿から炙り肉を一切れ、リナムーアの皿へ移した。
「……聞かないんですか」
「聞かないわよ。まだ形になっていないんでしょう。途中で突つかれると逃げていくものって、あるもの」
「無理はしないでくださいね」
ミオが椀をリナムーアの手元へ寄せた。
「急ぐと、余計に遠のきます。……それと、明日もちゃんと食べてから出てください」
「はい」
リナムーアは匙を取り直し、すっかりぬるくなった汁を口へ運んだ。
湯気はもう上がらなかったが、根菜の甘みは舌の上にしっかりと残った。




