第13話 魔位差(まいさ)
部屋に戻ると、リナムーアは机の上で布包みを広げた。
灰色の粒魔石が一つ、布の真ん中に転がっている。窓から差し込む昼下がりの光を浴びても、その表面は鈍いままだった。これ一つで小さな光が一分ほど灯る。ミオの言葉どおりなら、この豆粒の中にはそれだけの魔力が詰まっていることになる。
指先でつまみ上げ、掌に載せて握り込んでみた。
何も起きなかった。魔石はすぐに体温を吸ってぬるくなり、指の内側に硬い感触を残すだけだった。汲み上げるという言葉を頭の中で繰り返し、魔石の中身をこちらへ引き寄せるつもりで力を込めてみる。やはり何も変わらない。意識しなくとも伝わってくる自分の状態にも、変わったところは一つもなかった。そもそも何をどう込めればいいのか、そこからして分からなかった。
(……当たり前か。やり方も知らずに握ったところで、ただの魔石だ)
リナムーアは魔石を布の上へ戻し、椅子の背にもたれた。
人の魔力の扱いは、どれほど巧みな者でも髪の毛ほどの太さまでしか絞れない。魔石から汲むには、その何百分の一が要る。ミオはそう言っていた。
(細かい制御が要る。それは分かった。……だが、その制御はどこに要るんだ)
握って引き寄せるというのは、ただの思いつきにすぎない。魔道具の中で何が起きているのかを知らないまま細さだけを競っても、的を外すだけだろう。前世でも仕様の分からない箇所を闇雲にいじり回して、かえって傷口を広げた後輩を何人も見てきた。
考える取っかかりを探して、記憶の棚を順にあたっていく。やがて手が止まったのは、ずいぶん古い引き出しだった。
電池と、電気回路だ。
電流は、電荷が動くことで生まれる。その電荷を動かしているのは、誰かの器用な指先ではなかった。電位差だ。高いところと低いところがあれば、電荷は勝手に高いほうから低いほうへ流れていく。電池はその差を内に抱え込んだ箱にすぎず、両端を導線で繋いでやれば、それだけで電気は流れ出す。
(懐中電灯に電池を入れるとき、電子を一粒ずつ摘まんで送り出す奴はいない)
要するに、あれは制御ではなく原理だった。
魔道具も同じではないか、とリナムーアは考えた。宿舎の蛇口も廊下の灯りも、使う者が何ひとつ気を配らなくても動いている。魔道具が魔石から勝手に魔力を汲み、式がそれを水や光へ変える。その間に誰かの繊細な手つきが挟まる余地はない。だとすれば、魔道具もまた何かの原理に従って動いていると見るほうが自然だった。
電荷を動かす電位差のようなものが、魔石の魔力にも当てはまるのなら。
(魔力を取り出すには、電位差に似た差が要る。……魔位差、とでも呼んでおくか)
呼び名などどうでもよかった。大事なのは、それが本当にあるかどうかだ。
リナムーアは魔石を布で包み直し、ポーチの底へ収めた。確かめる場所の見当は、もうついていた。
▽ ▽ ▽
乗合馬車を降りて図書館の石段を上がったとき、日はまだ傾き始めたばかりだった。
魔道具の作例集なら、もう何度も開いている。だが、あれは形を並べた本だった。どういう形の魔道具が何をするのかは載っていても、なぜそうなるのかまでは書かれていない。欲しいのは、その先だった。
書架を見上げていると、司書の老人が梯子を抱えてやってきた。
「また上か」
「はい。魔道具を作る側の本はありますか。作例ではなく、式の刻み方や組み方が書いてあるものです」
「職人の手引きなら、ある」
老人は梯子を架けながら、ちらりとこちらを見下ろした。
「読む者がいないからな。埃をかぶっている」
下りてきた老人から受け取った一冊は、作例集の倍ほども厚かった。表紙の革は角が擦り切れ、開くと紙の縁が茶色く焼けている。
リナムーアは書架のあいだの床に座り込み、目次を指でたどった。魔道具の外枠の作り方、式の彫り方、刻み入れる順序。その並びの中から石座と汲み口を扱った章を探し当てた。
石座とは、魔道具の中で魔石を嵌め込む受け皿のことだった。その縁から細い線が一本延び、式の本体へ繋がっている。魔石と式を結ぶその線のうち、魔石に触れている端が汲み口と呼ばれていた。
章の冒頭には、古い言い回しの一文が掲げてあった。
——魔力は満ちたる処より空ろなる処へ移ろう。
リナムーアは息を詰めて先を読んだ。
汲み口の式は、魔石に触れる一点を常に空ろに保つためにある。汲んだ魔力はその場に留めず、端から先の式へ送り出していく。そうして空ろであり続けるかぎり、魔石の魔力は自ずからそこへ移ってくる。汲み口の線を髪より細く彫らねばならないのも同じ理由だった。汲み口の線が太ければ、それだけ多くの魔力がそこに溜まる。溜まれば魔石より満ちてしまい、移ろいは止まる。そうなれば灯りは点かない、と。
頁の隅には職人向けの覚え書きも添えられていた。石の大小は器の持つ刻限を変えるのみにて、汲み口の式はこれを変えず。
(……電池と同じだ)
大きな電池でも小さな電池でも、両端の電圧は変わらない。違うのは、どれだけ長く持つかだけだ。魔石も同じなら、大きさで変わるのは中身の量で、押し出す力のほうではないことになる。
満ちたところから、空ろなところへ。高い電位から、低い電位へ。言い回しが違うだけで、書かれていることは部屋で組み立てた推理と同じだった。魔道具は魔力を器用に摘まみ出しているのではない。汲み口を魔石より空ろに保ち、その差で流れ込ませている。
(合っていた。魔位差は、ある)
リナムーアは本を膝に伏せ、高い天井を見上げた。
では、ミオの言う制御はどこに要るのか。
答えは、いま読んだ章の中にもう出ていた。魔道具の場合は、職人が髪より細い線を彫ることで汲み口を空ろに保っている。人が同じことをしようとすれば、魔石に触れた一点の魔力を自分の力で魔石より空ろにしてやらなければならない。
(差を作ること。制御が要るのは、そこだ)
髪の毛ほどの太さというのも、恐らく本当の太さの話ではない。どこまで少なく絞れるかの例えだろう。人は誰でも、判定の石にも測定の紙にもはっきり映るほどの魔力を身に宿している。その満ちた身のまま魔石に触れても、差は生まれない。汲もうとするなら、触れた一点の魔力を魔石より空ろになるまで絞り込むしかない。どれほど巧みな者でも髪の毛一本ぶんより少なくはできず、魔石から汲むにはその何百分の一まで絞る必要がある。
そこまで考えて、リナムーアは瞬きを忘れた。
(……待て)
測れないほど薄い自分の魔力が、頭に浮かんでいた。
満ちた身を、空ろになるまで絞る。他の誰もがそこで行き詰まる。では、はじめから空ろな身ならどうなるのか。
(制御なんて、そもそも要らないんじゃないか)
測れないほど少ない魔力。それは他の者が制御の果てにようやく手に入れるはずの差を、生まれたときから持っているということではないのか。
膝の上の手が知らないうちに固く握られていた。
▽ ▽ ▽
その夜、リナムーアは寝台の上に座り、ポーチから布包みを取り出した。
灰色の粒魔石を右の掌に載せ、ゆっくりと指を閉じる。昼間に試したのと同じ握り方だった。違うのは、握ってからの向き合い方だ。
『己識』はもう意識して発動しなくても自分の状態を伝えてくる。心拍も呼吸も四肢の疲れも、確かめようと思う前からそこに並んでいた。ただ、それはあくまで大づかみな像にすぎない。『空識』と同じで、一か所へ狙いを絞れば、そこだけ情報の粒度も鮮明さも上がるはずだった。
リナムーアは『己識』の狙いを右の掌へ絞り込んだ。
皮膚と、その下の薄い肉と、細い骨。そこへ薄く行き渡っている自分の魔力。焦点が合うにつれて、ぼやけていた像が一枚ずつ剥がれるように細かくなっていく。
同時に、『空識』を握り込んだ魔石へ向けた。
外にあるものは『空識』の領分だ。掌の中の小さな粒魔石は、目で見れば道端の小石と変わらない。だが狙いを絞ると、その内側がみっしりと詰まっているのが分かった。何かが隙間なく押し込められ、じっと動かずにいる。
内と外、二つの像を重ね合わせたとき、リナムーアはそれを感じ取った。
圧だった。
魔石に触れた掌の皮一枚ぶんのところで、何かがこちらへ押し寄せている。水を張った桶の底に小さな穴を開けたとき、指に当たる水の重みに似ていた。ひどく弱い。けれど、確かに向きがあった。魔石の側から、掌の側へ。
(……流れようとしている)
何もしていない。引き寄せようとも、絞ろうともしていない。ただ握って見ていただけだ。それでも魔石の魔力は、自分から掌のほうへ移ろうとしていた。
やがて掌のごく浅いところに、見慣れない魔力が薄く滲み出した。自分のものとはどこか手触りが違う。ほんのひと雫ぶんの、よそから来た魔力だった。
(取り出すだけなら、何もしなくてもできる。……思ったとおりだ)
昼間に握ったときも、同じことは起きていたのだろう。大づかみな像のままでは、ひと雫の出入りなど他の感覚に紛れて見えなかっただけだ。
胸の奥で何かが小さく跳ねた。前例がない、とミオは言った。記録に残っていない、とも言った。その記録にない一歩を、いま自分の掌が踏んでいる。
念のため、『己識』の狙いを広げて体全体をあらためた。心拍はやや速いが、乱れてはいない。呼吸も普段どおりだった。掌には痛みも痺れもない。危ないと思ったらすぐにやめる。その約束に触れるような兆しは、どこにも見当たらなかった。
ただ、流れはそこで止まっていた。
掌に滲んだ魔力は、それより奥へ進もうとしない。手首へも腕へも上っていかず、皮のすぐ下に留まったままだ。魔石からの圧もいつの間にか薄れ、押し寄せてくる向きが感じ取れなくなっていた。
(溜まりきったのか)
行き止まりの管に水を流しても、管が満ちればそれきり流れは止まる。汲み口が空ろでなくなれば移ろいは止まる、と手引きにもあった。この掌はひと雫ぶんで満ちてしまったのだ。
身の内の魔力は、放っておいて勝手に流れていくものではないらしい。動かすのは、持ち主の役目なのだろう。
リナムーアは指を開き、灰色の粒魔石を見下ろした。取り出すところまでは来た。そこに魔力があるのなら、あとはそれを使う手順の話になる。魔術を使う者たちは、己の魔力を式に通して術を成している。ならば掌にあるこの魔力も、同じ手順に載せてやればいいはずだった。
(使い方なら、本に書いてある)
▽ ▽ ▽
それからの数日、リナムーアは午後になると図書館の魔法の棚に張りついた。
調べることは一つに絞っていた。魔力をどう動かせば術になるのか。その一点だ。
入門書から専門書まで、同じ主題を扱った頁を片端から引き比べていく。以前は一語を潰すのに三冊を要した言葉が、いまは頁の上をすんなりと流れていった。
どの本も、書いていることの骨組みは変わらなかった。
魔術は、術者が自らの魔力を式に沿って流すことで成る。式は紋様と文字の組み合わせで、決まった形に魔力を通してやれば、決まった効果が現れる。魔道具はその式を器物に刻みつけたものであり、人が魔術を使うときは、刻む代わりに自分の魔力で式をなぞる。
なぞるための前提として、どの本も同じ一語を挙げていた。
魔力の制御だ。
己の魔力を思うところへ運び、思う形に留める。それができなければ、どれほど優れた式を知っていても一本の線すら引けない。入門書の多くは、最初の章をまるごとその手前の段階に割いていた。まず己の身に魔力が在ることを知覚せよ。知覚できぬものは動かせぬ、と。
(……知覚なら、とうに済んでいる)
洗礼式の朝から、『己識』が並べる項目には魔力量があった。いまならそれが体のどこにどれだけあるのかまで、狙いを絞ってたどることができる。
その章に行き当たった日の晩から、リナムーアは寝台の上で稽古を始めた。
胸のあたりに薄く寄り集まっている自分の魔力へ、『己識』の狙いを合わせる。それを右腕のほうへ動かすつもりで、意識を傾けた。
あっけないほど簡単に、それは動いた。
肩を越え、肘を過ぎ、手首へ。思い描いた道筋を、薄い魔力が素直にたどっていく。止めたいところで止まり、戻したいところへ戻った。本の中では何章も費やして説かれていた段階が、ほんの数度の試しで身についた。
(量が少ないからか。それとも、見えているからか)
恐らく両方だろう。嵩の少ないものは軽く動く。そのうえ、動いていく先が一歩ずつ見えている。目隠しをせずに歩くのと同じで、迷いようがなかった。
次に、魔石を握った。
掌にまたあのひと雫ぶんの滲みが生まれる。リナムーアはそれに狙いを合わせ、自分の魔力と同じように手首のほうへ運んでみた。
動いた。
手触りは違っても、言うことを聞かないということはなかった。よそから来た魔力は手首へ移り、そこで大人しく留まった。
その途端、掌にあの圧が戻ってきた。空いたところを埋めるように、魔石の側から新しい魔力が押し寄せてくる。
(汲み口が空いたからだ。……手引きのとおりだな)
運び出せば、また入ってくる。溜めれば、止まる。魔石と掌のあいだで起きていることは、どこまでも原理のとおりに振る舞っていた。
リナムーアは指を開いた。灰色の粒魔石は、握る前と何ひとつ変わらない顔でそこにあった。
▽ ▽ ▽
制御の目処が立つと、リナムーアは式そのものを調べにかかった。
魔術式を集めた本は、魔法の棚の奥にまとめて差してあった。背表紙を数えていると、梯子を片づけに来た司書の老人が背後で足を止めた。
「式集なら、その段の三冊と上の二冊。それで全部だ」
「全部、読んでもいいですか」
「読めるならな」
老人はそれだけ言うと、梯子を肩に担ぎ直して自分の机へ戻っていった。
開いた頁には紋様がびっしりと描き込まれていた。輪、楔、渦、枝分かれする線。それらが魔法文字と組み合わされ、一つの図を成している。ぱっと見には、込み入った飾り模様にしか見えなかった。
だが紋様ごとの解説を読み進めるうちに、リナムーアの目つきが変わっていった。
細く絞った線は、そこを通る流れを細める。楔の形は、魔力を一方へだけ通して逆には流さない。渦は魔力を一か所へ寄せて溜め、枝分かれの線は流れを二つ以上に割る。魔法文字は、その流れが最後に何へ変わるのかを定めていた。火か、水か、光か。
(……抵抗に、ダイオードに、コンデンサか)
電子回路の部品表を眺めているのと変わらなかった。流れを絞る部品、一方にしか流さない部品、電気を溜めておく部品。どれも基板の上で見慣れた役割だった。
それだけではなかった。閉じた輪は魔力を同じ道筋に巡らせ続け、渦は満ちるまで先へ流れを送らない。式の組み方をたどっていくと、プログラムの基礎命令に置き換えられる箇所がいくつもあった。繰り返し、条件分岐、値の指定。前世の仕事で毎日書いていたものが、紋様の姿をしてそこに並んでいた。
(部品と命令の組み合わせだ。……数さえ覚えれば、読める)
リナムーアは改めて目次を開いた。
探しているものは一つだった。体の力そのものを底上げする式。筋力を強め、脚を速め、重さに耐えさせる類のものだ。それがあれば、大きいほうの採集袋を担いで八キロを歩ける。浅層に踏み込んでも、逃げ切れるだけの脚が手に入る。自分という器の性能を外から継ぎ足すというのは、突き詰めればそういうことだった。
目次には様々な式の名が並んでいた。灯火の式。送風の式。浄水の式。火を熾す式に、物を冷やす式、壁を張る式。どれも宿舎や街のどこかで見かけた魔道具の中身だと、いまなら見当がつく。
体を強める式は、そこになかった。
二冊目の目次をたどる。三冊目。老人に下ろしてもらった上の段の二冊も、端から端まで指でなぞった。名前の似た式があれば、本文まで開いて確かめた。身を守ると謳う式に目が止まっても、読めば体の外に壁を張るもので、身そのものに手を加えるものではなかった。
最後の一冊の目次を、リナムーアはもう一度頭からたどり直した。
指は最後の行を過ぎ、その下の白い余白で止まった。
膝の脇には同じように目次を繰り終えた式集が四冊、背を上にして積まれていた。




