第12話 恩(おん)
昼過ぎの納品窓口に、並んでいる者は誰もいなかった。
リナムーアは据え置かれたままの踏み台に上がり、いつもの銅貨四枚を受け取った。
「今日も外れなしですね。お疲れさまでした」
「……ミオ。ひとつ、ききたいことが、あります」
銅貨を握ったまま、リナムーアは台ごしにミオを見上げた。
「わたしの、ねどこは、いくらですか」
ミオがペンを置いた。
「宿舎の代金ですか。登録した冒険者なら、一日で銅貨二枚です。街の安宿の、半分もしませんよ」
「ごはんは」
「住んでいる者は、朝と夕は只です」
「……ただでは、ないです。だれかが、はらっています」
ミオは何か言いかけて、結局それを飲み込んだ。リナムーアは礼を言って窓口を離れた。
部屋に戻り、寝台の縁に腰かけて、頭の中に数字を並べる。
一日に稼ぐ銅貨四枚は、寝床と朝夕の食事を値に直せば、それだけで消える。受け取っているものは、それで全部ではなかった。
(借りは、減っていない。……それどころか、日に日に増えている)
くすんだ白のワンピースは新しいものに替わり、靴も靴下も誂えてもらった。腰の革ベルトも、ポーチも、葉を切り落とす鉄のナイフもそうだ。ポーチの底で揺れている真鍮覆いの携帯時計に至っては、いまだにミオの私物を借りたままだった。斡旋の手数料一万ムーアも、ミオが付きっきりで潰した数週間も、そっくり手つかずで残っている。
どちらも請求されたことはない。あの日オグマが求めたのは金ではなく、あれを出して正しかったと後から言えるだけの働きだった。取り立てが来ないというだけで、並べた数字が一つも減らないことは変わらない。
前世で、赤字の案件の収支表を眺めていたときと同じ心地だった。毎月きちんと働いて、きちんと数字が悪くなっていく。あのときの結論はいつも一つだった。手を速く動かして埒が明かないなら、やり方そのものを変えるしかない。
できることは、すでに数え終えていた。
走力が上がれば草原の往復は縮む。だが縮むのはせいぜい三十分ほどで、森の下生えの中はどのみち走れない。採集袋を大きくすれば入る量は増える。だが、その重さを担いで八キロを歩く体がない。浅層のミド草は外縁部のボド草よりずっと高く売れる。だが、いま踏み込めば死ぬだけだ。
(体を鍛えるのは前提であって、答えじゃない)
残っているのは一つだけだった。自分という器の性能そのものを、外から継ぎ足すこと。
▽ ▽ ▽
図書館の書架は、初めて来た日ほど遠いものには見えなくなっていた。
最初は絵の多い子供向けの一冊から始めた。分からない言葉が出てくれば、その言葉を説明した別の本を探す。すると、その本の中にまた分からない言葉が現れる。循環、位相、定着、媒介。一語を潰すのに三冊を要することも珍しくなかった。
それを幾日も続けているうちに、変わったのは読む速さだけではなかった。
覚えた言葉は、読むためだけのものにとどまらなかった。頭の中で組み立てる文が長くなり、長い文を途中で見失わなくなる。そうなると、口のほうも追いついてくる。以前は一語ずつ区切らなければ出てこなかったものが、ひと息で最後まで届くようになっていた。
(考える力なら、前世から持ち越していた。足りなかったのは、考えたことを言い表す言葉のほうだ)
その日、上段の棚を見上げていると、司書の老人が脇に立った。
「そこは、まだ早い」
「魔道具の作例集です。図が多いと聞きました。式そのものが読めなくても、形だけなら追えます」
老人は眉を上げ、リナムーアの顔をしばらく見下ろしていた。それから何も言わずに梯子を架け、目当ての一冊を抜いて寄越す。
「初めて来たときは、はい、としか言わなかったろう」
「本が、よく喋るので」
老人は喉の奥で短く笑い、自分の机へ戻っていった。
作例集を膝に抱えて、リナムーアは書架のあいだの床に座り込んだ。
魔法は個人の感覚に頼る技術で、同じことをしても人によって出方が変わる。それを誰がやっても同じ結果になるよう手順へ組み直したものが魔術で、魔術式と呼ばれる式を用いる。魔道具はその式を器物の側に刻みつけて定着させ、動力を術者の外へ追い出した形だった。
外へ追い出された動力が、魔石だ。
だから魔道具は、使う者の魔力の多い少ないを問わない。宿舎の蛇口をひねれば水が出るのも、廊下の灯りが日没に合わせて点るのも、仕組みは同じだった。魔道具が魔石から魔力を汲み、式がそれを決められた効果へ変える。
頁の欄外に、古い引用が一行だけ添えられていた。
——魔石より魔力を汲むは器の業にして、人の業にあらず。
リナムーアは、その行から目を離せなくなった。
(魔力が足りないことが問題なら、外から借りればいい。魔道具がやっているのは、まさにそれだ)
魔道具にできて、人にはできない。そう言い切っておきながら、なぜできないのかは、この本のどこにも書かれていなかった。
▽ ▽ ▽
窓口で宿代を聞いてから十日ほどが過ぎた夜、リナムーアは食堂の長机の端で、ミオが盆を持ってくるのを待っていた。
ミオが椀を置いて腰を下ろす。それを見届けるより早く、リナムーアは口を開いた。
「ミオ。魔道具は、魔石から魔力を汲んで動いています。使う人の魔力は要りません。……合っていますか」
ミオの手が止まった。
「……合っています」
それからまじまじと、リナムーアの顔を見た。
「ずいぶん滑らかに話すようになりましたね。この前まで、一語ずつ区切っていたのに」
「本を読んでいると、言葉が増えます。増えると、口が追いつきます」
感心とも呆れともつかない息を吐いて、ミオは匙を取った。
「それで。何を聞きたいんですか」
「人が魔石から直接、魔力を取り出して使うことはできませんか」
匙が途中で止まった。ミオはそれを椀の縁に置き、少し考えてから答えた。
「……できたという話を、私は聞いたことがありません」
「一度もですか」
「一度もです。あれは魔道具のための燃料で、人が口をつけるものではないんです」
「どうして、できないんですか」
ミオは指を一本立て、そこに糸でも垂らすような仕草をした。
「魔石の魔力は、ただ溜まっているだけです。そのまま掴むことはできません。魔道具の中では、式が決まった細さで、決まった順に汲み上げています。人の魔力の扱いは、どれだけ巧みな者でも、髪の毛ほどの太さまでしか絞れません。魔石から汲むには、その何百分の一が要ります。それほど細かい制御は、私にもできません」
リナムーアは、ミオの立てた指を見つめた。魔力の多さで決まるのなら、この体に出る幕はなかった。だが、ミオの話に、魔力の多い少ないは一度も出てこなかった。
(——量ではなく、細さ)
争う場所が違う。少なくとも、最初から勝ち目のない土俵ではない。
「試した人は、いますか」
「……いたでしょうね。記録に残っていないだけで」
「では、できないと書かれているだけで、誰がどこまで確かめたのかは分からないということですね」
ミオが言葉に詰まった。
「……理屈では、そうなりますけれど」
「一つ、試させてください」
リナムーアは身を乗り出した。
「高い魔石は要りません。いちばん安いもので充分です。だめだったら、それで終わりにします」
「危険です。魔力というのは、暴れ出せば——」
「暴れるほどの魔力は、わたしにはありません」
言い返してから、リナムーアは少しおかしくなった。この体の欠けが盾の側に回るのは、これで二度目だ。
ミオはしばらく黙っていた。匙を取り、また置き、長い息を吐く。
「……わかりました」
「いいんですか」
「よくはありません」
眉を寄せたまま、ミオは言った。
「ですが、駄目だと言ったところで、あなたは自分で探すでしょう。保管庫から出すには手続きが要ります。明日の納品のときに渡します」
▽ ▽ ▽
翌日、判別機の音が止み、銅貨が四枚数え入れられたあとで、ミオは窓口の台に小さな布包みを置いた。
結び目をほどくと、灰色の粒魔石が一つ転がり出た。豆粒ほどの大きさで、表面は磨いた石のように滑らかだった。
「ゴブリンの魔石です。買い取り一覧の、いちばん下にあるものですよ」
「いくらですか」
「買い取りは一つ五ムーアですが、支部から出すときは、仲買人へ卸すのと同じ値になります。七ムーアです」
リナムーアは握っていた銅貨を一枚、台へ置いた。ミオは小銅貨を三枚数えて返し、ペンを取って、支部の帳面に一行を書き足した。
「……ありがとうございます」
「先に言っておきます」
包みを押し出す手を止めたまま、ミオは続けた。
「その魔石一つに入っている魔力でできることは、小さな光を一分ほど灯す程度です。魔道具に嵌めても、それだけ。……期待をするようなものではありません」
リナムーアは頷いた。豆粒ほどの、買い取り一覧のいちばん下にある魔石だ。多くの魔力が入っているとは、はじめから思っていなかった。
「わかっています。一分で充分です」
布ごと魔石を受け取り、リナムーアはミオを見上げた。
「取り出せるのか、取り出せないのか。いま知りたいのはそれだけです。大きい魔石のことは、取り出せてから考えます」
ミオが小さく息を吐いた。眉は寄せたままだったが、目の奥はもう咎めていなかった。
「危ないと思ったら、すぐにやめること。約束できますか」
「はい」
ミオはそれ以上は何も言わず、台帳を手元へ引き寄せた。
窓口を離れ、廊下の隅でリナムーアは包みを開いた。
灰色の粒魔石を指の腹に載せ、等間隔に並ぶ灯りへ翳してみる。光はほとんど透けなかった。こうして眺めている分には、道端で拾う小石と何ひとつ変わらない。
指を閉じる。掌の中で、魔石はすぐに体温を吸ってぬるくなった。
窓口のほうから、ミオが次の冒険者を呼ぶ声が聞こえてきた。




